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十三、楓

まもなく荷車の中に居座り続けるのは、息が詰まるほどに耐え難い苦痛となった。狭い車内は酷く蒸し暑く、闇に包まれ、そのうえ石川の奴とこれほど密に身体を寄せ合わねばならぬ。この最後の懸念こそが、何よりも忌々しかった。奴が微かでも身動ぎをみせるたびに、私は逃げ出そうと必死に車の壁際へと身を縮め、いつでも刃を繰出せるよう身構えていた。

馬喰は年老いた馬を急き立てながら、お日様や山の小道を称える風変わりな民謡を上機嫌に口ずさんでいた。荷車のガタゴトという喧しい響きと、その老人の歌声に紛れ、私は意を決して石川へと言葉を投げかけた。

「……いつから、あの偽の鶴田の兵どもの存在に気づいていたの?」

私は声を潜めて囁いた。

「お前をあの遊郭へ連れ込んだ時にはな」

隠密は酷くぶっきらぼうに答え、まるで私という不届き者にすっかり愛想を尽かしたかのようであった。もっとも、その嫌悪感は互い様であったけれど。

「ならば、なぜ私をわざわざ……」

私は咄嗟に両手で口を塞いだ。外の老人がふっと歌いかけるのを止め、大げさに鼻をすすり始めたのだ。心臓がうるさいほどに脈打ち、この静寂の中で奴に盗み聞きされるのではないかと身の危険を感じたが、幸いなことに、商人は再び馬を罵りながら呑気に歌い始めた。

「若君はお前に命を救された。そして俺は、あの家に義理を尽くさねばならぬ。……無駄口を叩くのをやめよ。さもなければ、高津様の元へ辿り着く前に、我らの一命が尽きるぞ」

私は口惜しそうに唇を噛み締め、新鮮な空気を求めて、筵の僅かな隙間から恐る恐る外を覗き込んだ。

市場の騒がしい喧騒は、とうに遥か後ろへと遠ざかっていた。今、私の胸の奥を圧迫しているこの感情は、如何なる言葉を以てしても説明がつかなかった。満や、あのお倫への言い知れぬ罪悪感、そして故郷へ戻ることへの激しい動揺、豊光や父上への恐怖、そして……これで、すべてに正しい終わりがつくのかもしれぬという、淡い悦び。そう信じたかった。この禍々しいいくさの懸念も、あの育ちの佳い、されど無実の満の首を撥ねるなどという理不尽な要求も、すべてが過去の雑音となることを。

込み上げる様々な想いに耐えかね、気づけば目頭が熱くなり、涙のひと雫が白粉の頬を伝い落ちた。泣くつもりなど毛頭なかったし、己の弱さが情けなくてならなかったが、石川はその様を目にしても、私をあざ笑うことも、咎めることもしなかった。奴はただ、その鋭い眼光で私をじっと見つめており、私は再び身を硬直させた。私は小袖の袖で大慌てて涙を拭い、牙を剥く狂犬のごとく奴を睨み据えた。

「……泣いてなんかいないわ。そんな目で私を見ないで」

「お前は、若い頃のお倫にそっくりだな」

奴は微かに不敵な笑みを浮かべ、低く呟いた。おそらく、奴らの若かりし頃の、あの古き時代の思い出でも脳裏に過ったのだろう。もっとも、あのお倫姐さんが三十の坂を越えているなどとは、今の私には到底信じられなんだが。

その不躾な例えに、私は癪ながらも、胸の奥が少しばかり擽ったくなるのを感じた。されど次の瞬間、喉の奥がキュッと締め付けられるような衝撃が走った。

「私が……もし少しでもあの人のようになれていたら、あのような不始末は仕出かさなかったわ」

「世迷い言を言うな」

私は涙を拭い去り、片眉を跳ね上げて石川を凝視した。

「あの謀略は、一晩や二晩で形を成すような生ぬるいものではない。豊光の奴、とうの昔からすべてを周到に企てていたに違いないわ」

その自らの言葉に、私はハッと深く思案を巡らせた。これほど大量の武器を鍛造し、鶴田の家紋を刻み、あの平野の民の具足を用意し、これほど数多の裏切り者を集めるなど、あの八幡様の社の夜より遥か前から、奴らの企ては動いていたのだ。されど、一体何のために。

「奴らの狙いは、はじめからいくさを仕掛けることだ」

石川は私の問いを遮り、淡々と言い放った。

「そしてお前自身が、奴らにこれ以上ない最高のきっかけを与えてやったのだぞ」

「私は、そんなつもりじゃ……」

喉の奥がカラカラに干からびていた。偽の鶴田の兵どもは、いくさを仕掛けるための最初の企て、すなわち陽動の計だったのだ。されど、あの森に満が脇差を携えて姿を現した瞬間、奴らにとってあやつ自身が格好の標的となった。満の本物の獲物こそが、如何なる弁明も通用せぬ動かぬ証拠。恐らく豊光の手の者どもが私たちの姿を盗み見て、長老へと注進に及んだに違いない。そうなれば、あの偽の兵どもは、事の手落ちはあった時のための控えの手立てとなったのだ。

「満との火種が立ち消え、あやつの処刑を以ていくさが収まるやもしれぬとなれば……」

「あの偽物どもが、その焔に次なる薪をくべるというわけだ」

「分からないわ……なぜあやつが、そこまでして。豊光様が権力に執着しているようには思えなんだし……ましてや、これほどの大事を仕出かした後で、あやつが一族の頭領の座に就けるはずもないのに」

深く溜息をつき、私たちは共に口を噤んだ。

やがて、荷車の歩みが緩やかになっていった。蹄の音も完全に途絶える。私たちは足を止めたのだ。

筵の隙間から外を覗き込むと、そこには一本の渓流が流れていた。この急な坂は、老いた馬を下らせるにはあまりに危うい。ならば、商人が手桶を必要とするのは火を見るより明らかだった。案の定、商人は地面へと飛び降りると、せわしなく荷車の後ろへと歩み寄ってきた。

「やれやれ、老いぼれめ、いつも水を欲しがりおって。分かった、分かったから」

老人はぶつぶつと息を荒らげながら筵の下へと手をねじ込み、空の手桶を捜し回った。

石川は人差し指を唇に当て、私に静かにしろと合図を送った。私は両手で自らの口を覆い、二、三度深く頷いてみせた。

「あの忌々しい手桶はどこへ行った!」

男が毒づきながら筵を乱暴に引き剥がした瞬間、石川は私にみせたのと同じ仕草をその老人へと向けた。されど、隠密のもう片方の手に一振りの短刀がギラリと握られているのを目にした刹那、私の身体は恐怖に激しく強張った。

商人は僅かに一歩後退り、その瞳は驚愕に激しく泳いでいた。忍びはまるで、獲物を脅かさぬよう細心の注意を払う獣さながらに、緩やかに荷車から這い出ていった。この石川の凄まじい威圧感の前では、あの老商人はまるで無力な子供のようにも小さく見えた。石川が、すべてを知りすぎた目撃者として、この老人をも平気であやめるのではないかと、私は完全な恐怖に身をすくませていた。この男なら、容易くそれを成し遂げるだろう。

「老人、お前は黙って御者台へと戻るのだ。さすれば、我らはこれより帰路に就く」

「命ばかりは、どうかお助けを……」

老人は恐怖のあまり我を失い、石川の言葉も耳に入らぬ様子で、ただ目の前の凶器に怯えて哀願した。

「頼みます、私には妻も、まだ幼い孫たちもいるのです! 殺さないでくだされ! 息子どもはいくさに駆り出され、私が一人で家族を養っているのです!」

「口を噤んで御者台へ戻れ。さすれば、命までは奪わん」

隠密は冷徹に命じた。

商人は何度も深く頷くと、よろよろとした足取りで前へと引き返していった。その膝はガタガタと震え、手元も小刻みに戦慄いている。顔色は死人のように白く、今にもその場へ崩れ落ちそうであった。

「最初からそうすれば良いのだ」

短刀を懐へと収めると、忍びは荷車へと跳ね上がり、此度は筵を被ろうとはしなかった。私は奴の方をまともに見据えることすら恐ろしく、ただ身を縮めていた。その放つ殺気や眼光は、あの冷酷な声音やこれまでの非情な振る舞いも相まって、私の魂を底から震え上がらせるに十分だった。

荷車が再び動き出した時、私の胸の奥には底知れぬ不安が居座っていた。老商人の様子も、隣の老いた忍びの気配も、片時も油断なく見張っていようと試みる。されど、このような奇妙な道連れとの旅など、この世の誰も羨みはせぬだろう。商人は何度も恐怖に満ちた目で私たちを盗み見ては、車が微かに軋むたびにびくりと身体を跳ね上げていた。石川はただ静まり返っていた。奴が周囲を警戒しているのか、あるいは泰然と構えているのか、その腹の底を読み解くことは私には叶わなかった。

数刻の後、私たちは我が一族、熊沢の隠密どもが固める物見の関所へと差し掛かった。やはりいくさの備えのために、至る所の要所に網の目のように配置されているのだろう。鉱山へと続くこの山道も、その重要な拠点の一つであった。この関所を潜り抜けた先にある追分を右へと折れれば、あの因縁の国境へと辿り着く。もし左へと曲がれば、険しい山の麓へと向かうことになるのだ。

「一言でも余計な声を漏らせば、その喉笛を掻き切るぞ」

石川は獲物を衣服の陰へと隠しながら、低く脅しをかけてきた。如何に奴が凄まじい力量を秘めていようとも、数多の伏兵を一度に相手にしては無事では済まぬ。何より、今の奴に無用な流血を好む様子はなかった。ましてや、今の私では到底、佳き加勢など望むべくもない。真に人をあやめることも、死に物狂いの戦を演じることもできぬ身でありながら、あの森で鎖鎌の扱いなど習うておいたのは、全くの無駄骨であったのかもしれぬな。

いくさの光景を脳裏に浮かべ、私は生唾をごくりと呑み込んだ。額から冷たい汗のひと雫が伝い落ちる。手元が狂わぬよう、無意識のうちに衣服の陰の鎖鎌へと手を伸ばしたが、それに気づいた石川が静かに首を横に振った。されど、私とて前後の見境なく躍り出て、我が一族の者たちを無闇に傷つけるつもりなど毛頭なかった。ただ、この使い慣れた我が魂だけが、この激しい嵐のただ中で、私の心を辛うじて繋ぎ止める唯一の錨(拠り所)だったのだ。

「とまれ! と……とっ!」

馬喰は関所の前で手綱を引き、馬を制した。私は身を屈め、視界の端で周囲の様子を油断なく凝視しながらも、決して頭を上げなんだ。余計な耳目を集めるわけにはいかない。

「ほう、どれどれ」

具足をまとった数人の男たちが、品定めするような目で荷車へと近づいてきた。

「おい、老人。こんな時にどこへ向かうのだ」

年の功のありそうな一人が、私たちを、そして空になった荷車の荷台を鋭い視線で見分した。

「へっ、鉱山へ向かうところでございます。いくさが始まろうとも、商いは商いにございますからな」

「なるほどな、全くだ」

若い方の兵がふっとせせら笑うと、馬の鼻先を優しく撫で回した。馬は何らかの美味い餌でも期待したのか、奴の手元をひと舐めし、不満げに激しく鼻を鳴らした。

「気の荒い奴め……。して、そこにいる小僧どもは誰だ?」

「これ、ですか?」

その問いに対し、商人は言葉を詰まらせ、激しく動転したように己の首筋を手で何度も擦り始めた。その佇まいは、見るからに不審であった。奴の思案があまりに長すぎたため、関所の空気がにわかに怪しく張り詰め始めていく。

商人が言葉を発するよりも早く、すべては決した。番卒どもは互いに目配せをすると、瞬く間に長刀を叩き抜いた。馬喰の老人は足をもつれさせながら御者台から飛び降りると、地面の上に転がるように跪き、鼻をすすりながら声を上げて咽び泣いた。

「この者どもに襲われました! お助けくだされ!」

もはや、無用な流血を避けることは叶わぬ。私は驚愕のあまり眉を跳ね上げ、身を硬直させた。その刹那、石川が私に向けて静かに顎を引いた。合図? 私に? この緊迫した場で、よくもまあそのような無茶な真似を強いてくれたものだ。

隠密はにわかに跳ね起きた。されど、短刀を抜く代わりに、奴はあろうことか両手を天へと高く掲げたのだ。私はわけも分からぬままその作法に倣い、身体を伸ばして両手を高く突き上げた。

「その小僧もお前を襲ったというのか?」

若い方の兵が、私たちから片時も視線を逸らさぬまま老人の肩を叩き、片手で奴を己の背後へと退がらせた。この密告者を庇っているのだ。それにしても、小僧、だと? 泥まみれの私の有様は、連中の目には宿無しの浮浪人のように映っているに違いなかった。

「おい、こやつは鶴田の隠密ではないか? いつぞや見かけた奴に酷く似通っている……」

年の功のありそうな男が石川の顔を凝視し、奥歯を噛み締めていた。正体が露見したのだ。いくさ人の間で名を知られた影の頭を道連れにしたことが、ここへ来て仇となった。なんという不運か。

石川の手が衣服の陰の刃へと滑り落ちるのを見て、私は直感した。奴はこの者たちを悉くあやめる気だ。されど、我が一族の者をこれ以上死なせるわけにはいかない。

「この人は、私の父上でございます!」

私はあの老人の真似をするように、大慌てで荷車から這い出た。

「小僧、動くな! そこに直れ!」

若者が長刀の切っ先を私に向けて鋭く威圧した。

「どうか、お命ばかりはお助けくだされ!」

自分でも信じられぬほどに、私は地面へと崩れ落ち、癪ながらも平伏して命乞いをした。胸の前で両手を合わせ、哀れみを乞うような眼差しを奴らに向ける。

「この男の父親が、俺を斬り殺すと脅したのだ!」

商人はなおも訴え続けていた。どうか、後で我が一族の裁定が下った折には、この老人を許してやってほしいと願うばかりだった。

「……母が身罷ってからというもの、父上はすっかり正気を失ってしまい……時に、獣のように猛り狂うのです……」

私は一層それらしく見せるために咽び泣き、あの竹林での最初の出会いの折に刻まれた、首筋の古い傷跡を指し示した。石川とて、この私の大根役者には激しい衝撃を受けているに違いなかった。されど、同じ一族の者をあやめたくないという執念が、時にこのような恐ろしい虚言を吐かせるのだから。

私は心の中で八幡様に、どうかこの場を切り抜け、帰路を急ぐことができるよう猛然と祈りを捧げていた。刻限は、一刻を争うのだ。今や、すべての事態が我らにとって逆風であった。

「ならば、なぜこのような荷車の中に潜んでいたのだ」

「それは……」

私は視線を路地へと落とし、道端に生い茂る草木の葉を見つめた。脳味噌が完全に干からびて、何も手立てが立ち上がってこない。

「……父上の物忘れ(痴暮)を治すための、薬草を探し求めていたのです!」

私は勢いよく額を土へと叩きつけ、この屈辱から逃れるように深く平伏した。石川が激昂しているのは肌で分かった。奴の顔を見ることは叶わなんだが、その首筋から放たれる凄まじい殺気が、私の背中をきりきりと締めつけていたからだ。この見苦しい茶番劇には、正直すっかり吐き気を催しそうだった。

番卒どもは再び互いに顔を見合わせると、長刀を静かに鞘へと収めた。連中の目には、正気を失った老いた父親を連れた、薄汚い「小僧」の姿が、如何ともしがたい憐れみの対象として映ったのだろう。このような哀れな浮浪人に向かって、進んで刃を向けるような真似はせぬはずだ。……そう信じたかった。

「この者どもをここに残し、私を先へ行かせてくだされ!」

老人は番卒の広い背中の陰に身を隠しながら、先ほどよりもいくぶん強気になって胸を張り、そう要求した。

「分かった、お前は行け。お前たちは、歩いて行くが良い……」

年の功のありそうな男が手を振り、行く手を開いた。私は嬉しさのあまり両手を天に掲げ、満面の笑みを浮かべた。我が三河の地にも、未だ情け深い気高き人々が残されていたのだ。

「かたじけなうございます!」

私は何度も深く頭を垂れて感謝を伝えると、そのままうつむきながら石川の元へと引き返した。奴は正気を失った狂人の真似を続けているのか、あるいは平時よりそのような佇まいなのか、ただ無言のまま、俊敏な身のこなしで荷車から飛び降りた。馬喰の老人は瞬く間に御者台へと飛び乗ると、老いた馬の背を激しく叩き、土埃だけを残して遥か彼方へと走り去っていった。

「大層、小賢しい真似を」

石川はそれだけをぶっきらぼうに呟き、忌々しげに番卒たちの脇を通り過ぎた。連中はこちらの様子を油断なく凝視しており、とりわけあの年の功の男は、未だに石川の正体を見破ろうと探りを入れているようだった。ならば、奴らが翻意して刃を抜く前に、一刻も早く歩みを早めねばならぬ。

「ここから歩けば、優に三刻はかかるわ……いや、それ以上ね」

私は深く溜息をつき、手のひらを額に当てて遥か彼方を見つめた。徒歩で進むには、あの追分はあまりに遠すぎた。されど、あの商人はすでに姿を消してしまったのだ。

「運が良ければ、また別の荷車に出会えるやもしれぬが」

私たちは、そのまま徒歩で帰路を進むこととなった。私の胸の奥は激しい焦燥に掻き乱され、時に痛む足が身体の動きに追いつかぬほどだった。小鳥たちのさえずりも、虫の鳴きしきる声も、今の私の耳には一切の慰めにはならなんだ。それどころか、その響きはまるで不吉な破滅への時を刻む合図のようで、私の内の恐怖をいっそう駆り立てるばかりだった。

「水はあるか?」

石川は私の後ろ、およそ十歩ほど離れた距離を保ちながら歩んでいた。もしこの男が私をあやめようと牙を剥いたとしても、これほどの身構え(間合い)があれば、咄嗟に不意を突かれても抗う手立てを練る猶予があるはずだ。されど、奴の前を歩むことなど到底叶わなんだ。あの老いた忍びの足取りは、決して私より劣ってなどはおらなかったからだ。

「ないわ」

水もなければ、腹を満たす糧もない。山の森に入り込めばそれらを探し出すことも叶うが、それには莫大な時を費やしてしまう。お倫の茶屋で口に含んだあの甘味の記憶はとうに消え失せ、代わりに、底なしの虚しさが這い上がってきていた。

いくさの恐怖から目を逸らそうと、私は激しい飢えと渇きに意識を向けようとした。されど、それとて思案し続けたい事柄ではなかった。私は再び、この不気味な道連れへと問いを投げかけた。

「……いつから、鶴田の家に仕えているの?」

「二十年ほど前からのことよ」

石川はそう短く答えると、再び元の沈黙へと戻ってしまった。その静寂は、私を激しく押し潰そうとしていた。

「あなたとお倫様は、古き友の仲なの?」

「そう言うても、差し支えはあるまい」

その一言が、私の好奇心を激しく揺さぶった。私は思わず踵を返し、後ろ向きに歩みながら奴の顔を覗き込んだ。石川は己の帯の手元をごそごそと探っていたが、やがて竹の皮に包まれた二つの握り飯を引き抜いた。

「持て」

隠密はその一つを私に向かって放り投げた。私は武家の娘としての礼儀など綺麗さっぱり忘れ去り、飢えた獣さながらにその握り飯へと貪りついた。されど、その美味さに浸る猶予など、瞬く間に掻き消されてしまう。

一刻も早く国境の陣へと辿り着き、飢えを凌ぎたい一心で、私はある手立てを思いついた。このまま山の森へと分け入るのだ。近道を駆け抜ければ、時を稼ぐことができるだけでなく、何らかの山の幸を見つけ出せるやもしれぬ。石川はその私の提案を少しの間だけ深く思案すると、静かに首を縦に振った。次の瞬間、私たちは共に深い森の中へと躍り出た。そこは木々が適度に重なり合う明るい雑木林であり、あの湿った杉や、うっそうとした檜の姿はだんだんと少なくなっていった。このまま斜めに斜面を駆け下りれば、あの平野へと行き着くはずだ。そこには、我が父上の本陣が敷かれているに違いない。

森の中を進む歩みは、先ほどの単調な道に比べれば遥かに気紛れなものだった。道すがら、私は熊ネギの群生が広がる小さな開けた場所に目を留め、足を止めた。その野良ネギの放つ凄まじく強烈な臭気は、隠密の隠蔽の作法には真っ向から反するものであり、あまりに目立ちすぎる悪臭だった。されど、今更この山のただ中で、一体誰の目を欺く必要があるというのだ。

あの気難しき満とは違い、石川は私が選ぶ薬草や山の幸の鑑定を、容易く信じてくれた。おそらく、この老いた忍び自身も、それらの道理に深く通じているからなのだろう。

草の葉を咀嚼しながら、私は忍びを先導して歩みを進めた。一刻も早く急がねばならぬ。日が落ちて暗がりになれば、道筋を見分けることは困難を極める。この森で生まれ育った身でありながら道に迷うなど、森から我が家へと帰ることを拒まれたも同然の恥辱であった。

次に私たちは、渇きを宥めるために小さな渓流のほとりで短い休息をとった。心地よく冷えた水の上へと身を屈め、両手を器のように丸めて水を掬い上げる。まずは顔を洗い、それから貪るように水を啜った。

「その後、もう一度その顔に泥を擦り付けろ。高津様の元へ辿り着く前に、誰ぞに正体を見破られるぞ」

奴にそれ以上言わせる必要はなかった。私とて、その道理は痛いほどに分かっていた。もしあの裏切り者どもの誰かに見付かれば、このいくさのどさくさに紛れて容赦なく命を奪われかねない。私は険しく眉をひそめ、再び顔に泥を塗りたくった。ようやく上体を起こして先へ進もうとした、まさにその刹那――微かな熊の鳴き声が耳に届いた。

私はその場に身を硬直させ、石川もまたにわかに気配を鋭くした。

繁みを突き破って一頭の仔熊が転がり出てくると、悪戯に水の中へと飛び込み、冷たい水飛沫を四方八方へと撒き散らした。次いで、地を揺るがすような威厳を放ちながら、巨大な一頭の赤毛の親熊が姿を現した。夜の密林さながらに妖しく光るその漆黒の瞳が、真っ直ぐに私たちを射抜く。私は生唾を呑み込み、完全に金縛りになった。

「動かないで……」

私は石川に向かって声を潜めて囁いた。

仔熊は水から這い上がると、私たちの周囲を無邪気に跳ね回り、やがて石川の前に立ちふさがって小さく吠え立て始めた。それを見た親熊が、低く猛々しく喉を鳴らす。仔熊がいよいよ激しく鳴き声を上げると、親熊は地を震わせるような凄まじい咆哮をあげた。熊どもは、この忍びを明確な脅威と見なしたのだ。石川が瞬時に衣服の陰の刃へと手を伸ばした刹那、親熊が奴に向かって猛然と躍りかかった。隠密は俊敏な身のこなしでそれを紙一重でかわし、私は咄嗟に脇へと飛び退いた。

恐怖のあまり、心臓が爆ぜんばかりに激しく乱打していた。

「父上の元へ走れ!」

奴はそう命じた。親熊は凄みのある音を立てて後ろ足で立ち上がり、仔熊はその背後へと身を隠した。その体躯はあまりにも巨大だった。一振りの短刀だけでこのような化け物と交え、無傷で生き延びることなど到底不可能だ。私は震える手で、懐の鎖鎌を奴に向かって力任せに放り投げた。石川は地を転がりながら空いた手で見事にその獲物を掴み取り、代わりに己の短刀を私に向かって投げ返した。

「ここから失せろ!」

短刀をその手にきつく握り締め、私は自ら二、三歩後退った。大自然の猛威と一人の人間が交えるその死闘を、私はただ恐怖に身をすくませて見つめていたが、やがて踵を返し、その場から全力で駆け出した。

茂みの枝が容赦なく顔を打ち、背後からは捕食者の凄まじい咆哮が響き渡る。その声はだんだんと遠ざかっていったが、それでも私の血を激しく沸き立たせるには十分だった。乾いた枯れ木に羽織の裾を引っ掛け、強引に身体をよじった刹那、布地が無残に引き裂かれる鈍い音が耳に届いた。衣服の端切れが枝に残されたまま、私はまるで臆病な野兎さながらに、ただひたすらに逃亡を続けた。

太陽は地平の彼方へと沈み、山の森は完全な闇へと沈んでいった。走り続ける足は、激しく息を吐き出す肺と同じほどに、地獄の劫火のように熱く燃え上がっていた。一体どれほどの距離を駆けたのだろう。国境の陣までは、あとどれほどの道のりがあるというのか。その問いに答える術は、今の私にはなかった。闇のただ中では、如何なる巨木も、切り株も、獣道も、すべてが同じただの影にしか見えなかった。

私は疲労のあまり床の上に膝を突き、激しく喘ぎながら必死に空気を求めた。

石川は、私が正すべき真実のために、自らの身を挺してあの化け物と交え、私を生かしてくれたのだ。ならば、ここで立ち止まり、無用な思案に時を費やすことなど断じて許されぬ。一刻も早くこの森を抜け出さねばならない。夜が明け、日の光が差し込むその前に。

かつて下女の敦子が、私にこう語ったことがあった。熊沢の民は、山の森の中で道に迷うことなど決してない。如何なる時も、必ずや正しい出口を見つけ出すことができるのだ、と。それこそが、我ら一族の血に流れる本分なのだ。私たちは山と森の申し子であり、ここは我が家そのもの。我が家は自ずと、子供を正しい道へと導いてくれる。

されど、森の奥深くへと踏み進むにつれ、私は確信せざるを得なかった。この我が家は、もう私を導いてはくれない。ここは私に向けて、その重々しい門を完全に閉ざしてしまったのだ。

夜の空気がにわかに冷え込み、身体を激しい戦慄が駆け抜けた。私は引き裂かれた羽織の襟元をきつく引き寄せ、己の身体を両腕で抱きしめるようにして、なおも歩みを進めた。

足はただ本能のままに私を動かしていた。時折、不気味な衣擦れや風のざわめきに耳を澄ますためにぴたりと足を止める。されど、襲いかかってくる敵の気配はなく、私はただ前へと進み、やがて一本の巨大な古木の前へと辿り着いた。私は両手を激しく振り、全身の力でその幹へと取り付くと、そのまま上へと這い上がり始めた。太い枝が私の重みのせいで不躾な軋み声をあげ、ぐらりと大きく傾く。

高く登るにつれ、眼下に広がる密林の全貌がだんだんと見渡せるようになっていった。遥か地平の彼方からは、微かに太陽が昇り始め、薄暗い天空に一本の細い光の筋を撒き散らしていた。まさか、私は丸一晩中、この森の中を彷徨い続けていたというの。そのあまりの衝撃に、私は息をすることすら忘れて立ち尽くした。されど、その茜色の朝焼けの向こうに、私はもう一つの奇妙な光の群れを目にした。それは、点々と明滅する無数の小さな光の粒。灯籠か、あるいは松明か、そのどちらかに違いなかった。そのおびただしい数の灯りは、紛れもない一族の大軍――いくさの軍勢の有様を、そこに描き出していた。

険しく眉をひそめ、私は行くべき道筋をその眼に焼き付けようと必死に目を凝らした。見通しは酷く悪かったが、進むべき方角さえ分かれば、これからは幾分か容易くなるはずだった。

木から下りる足取りは、這い上がった時よりも遥かに早かった。全身の疲労はどこかへ吹き飛び、私は再びあの光の群れに向かって全力で駆け出した。重なり合う木々の間からはもうその光を見ることは叶わず、うっそうとした杉の枝が地平の彼方を完全に遮っていたが、ただ方角を違えぬことだけを神仏に祈るばかりだった。

繁みを掻き分け、棘だらけの藪を突き進む歩みは、果てしなく長く感じられた。されど、不意に男たちの地を走るような怒号が耳に届いた瞬間、私は歓喜のあまり胸の奥を躍らせた。ついに一族の大軍へと辿り着いたのだ。いくさの軍勢がいるならば、そこには必ず父上もおいでになる。

具足をまとった熊沢の屈強な武士どもの背中の向こうに、私はようやく開けた平野の全貌を捉えた。私は今まさに、国境を埋め尽くす隠密や侍たちのすぐ後ろまで迫っていた。これからは、歩みを進めるたびに地を震わせ、小鳥たちを驚かせて天空へと一斉に飛び立たせる、あの凄まじい雑踏のただ中へと分け入らねばならなかった。

男たちの後ろを shadow はうように進みながら、私はどこから割り込むべきか必死に隙間を捜し求めた。目の前に立ちはだかる兵どもは、まるで人間ではなく生きた岩壁のようであり、奴らからは山の苔の匂いではなく、饐えた汗の悪臭と、生々しい血の気配が漂い、私の鼻を容赦なく突いた。

深く息を吸い込み、一気に吐き出すと、私は懐の書状を落とさぬよう腹をきつく引っ込め、熊沢の隠密どもの隊列へとその身をねじ込んだ。まるで布切れを丸めた鞠さながらに、私は四方八方から容赦なく突き飛ばされた。

「何だ? 何だこの小僧は? 足元をうろちょろと邪魔な奴め!」

二、三度、私は危うく泥の中へ転倒しかけたが、男たちは舌を鳴らして俺をあしらい、私はそのたびにまた最初からやり直さねばならなかった。再びお腹をへこませ、左右に身体をよじりながら、兵らの隊列へと割って入る。

隠密どもは忌々しげに私を跳ね除け、隊列の後ろへと追い落とそうと躍記になっていた。

「おいおい、お前、そんな素手の身でいくさ場へ向かう気かえ?」

一人の武士が、私の不格好な有様を見て声を上げて笑った。

「見上げた根性だ、流石は我が一族の者だな!」

もう一人がその言葉を引き取ってせせら笑った。

「されど、鶴田の奴らを前にして一振りの刀すら持たぬのは、まるで粉のなき餅を打つようなものよ。無駄死にしに行くだけだぞ」

辺りを見回すと、その軍勢の端には、薄汚い衣服をまとった宿無しの浮浪人の姿も点々と混ざり合っていた。おそらく、奴らも平野の民、鶴田の非道に対して怒りを募らせているのか、さもなくば、ただ死に場所を求めてこのいくさに身を投じたのだろう。

「そんなに暇なら、刀の心配などさせておきな。高津様とて、真にこのまま総攻撃を仕掛ける気など毛頭ないわ」

その不意に耳に届いた会話に、私は隊列を押し分ける手をぴたりと止め、全神経を耳へと集中させた。

「ああ、全くだ。これはな……ただ我が家の大殿が、脅しではないということを奴らに見せつけるための大層な舞台よ。清正の奴には、最初から他に選ぶべき道など残されてはおらん。二人の息子は、揃って我が家の手の中にあるのだからな」

私は驚愕に目を丸くし、全身の毛が逆立つような冷たい戦慄が走った。――そうか、この大軍はただの威嚇であり、父上はいくさを始めるためではなく、鶴田を意のままに動かすための談判に赴いているのだ。熊沢の家に二人の若君が捕らえられているならば、今まさに満はこの広場のどこかへと引きずり出され、一族の真ん前で無残に首を撥ねられるに違いない。そして次男の疾風は、鶴田を未来永劫縛り付けるための人質となるのだ。さすれば、確かにこのいくさは回避されるやもしれぬ。……あの誇り高き清正が、これほどの手酷い恥辱を大人しく呑み込めばの話ではあるが。

いずれにせよ、満の命が今まさに風前の灯火であることに変わりはなかった。そのうえ、あの三河の冷泉では、今度のお触れが水面下で動いているのだ。たとえ清正が父上の条件を丸呑みにしたとしても、あの偽の鶴田の兵どもが境目を侵犯すれば、すべては一瞬にして水の泡と化す。豊光様の放ったあの不届きな間諜どもは、すでに冷泉の近くで捕らえられたのだろうか、それとも未だに繁みの陰に潜んでいるのだろうか。もし奴らが動けば、いくさの火蓋は強制的に切って落とされる。

この入り組んだ政の陰謀のせいで、私の頭は完全に混乱し、呼吸をすることすら苦しくなってきた。口の奥には、澱んだ苦汁のような、ひどく苦い味が広がっていく。

不意に軍勢の歩みが止まり、それまで地を揺るがしていたせわしない足音が出し抜けに静まり返った。前方からは、馬の荒い鼻鳴らしだけが響いてくる。行く手が開け、前へと躍り出ることは先ほどよりも遥かに造作もないことだった。私は武士たちの広い肩の隙間から頭を覗かせ、私たちの真っ向、対峙する位置に敷かれた鶴田一族の大軍の姿をその眼に捉えた。奴らの掲げる、あの忌々しい鶴の紋様が刻まれた数多の陣幕や軍旗が、茜色の朝焼けの風に煽られて激しく揺らめいていた。

両家の大殿は、陣列のちょうど真ん中あたりで真っ向から対峙した。その刹那、熊沢の隠密どもが一躯の死骸を馬の背に揺らしながら、足早に前へと進み出た。目を凝らして見れば、それは紛れもない満の姿であった。哀れなものね。まるで布切れを丸めた人形さながらに、轍の窪みに合わせて無惨に揺さぶられている。野蛮な連中を前に、慈悲や名誉ある扱いを期待することなど到底叶わぬ。されど、一体なぜあやつが、高津様の手の中に落ちてしまったというの。

もはや、その理由を問い詰める猶予などなかった。私の雑念を切り裂くように、無骨な手のひらが私の身体を乱暴にひったくった。

「小僧、隊列へ戻れ。お前の場所は後ろだ」

一人の侍が手にした長刀の柄に手をかけ、忌々しげに悪態をついた。奴は私を強引に脇へと撥ね除け、私は無惨にも地面の上へと転倒した。

「奴らは、最期の儀式を許したのかえ?」

別の者が声を張り上げた。

「そのようだ!」

先頭の列から、地を這うような怒号が響き渡る。

起き上がろうと足掻いたが、兵どもは微塵も道を譲ろうとはせず、まるで床の上の虫けらでも扱うかのように、私の存在など目にも留めなんだ。私は怒りに喉を鳴らし、泥まみれになりながらも必死に地を這い進んだ。二、三度、容赦なく奴らの足に踏みにじられたが、野良犬さながらに悲鳴を上げるのだけは何としても堪えた。

ようやく兵らの隙間から光が覗いたその刹那、私は再び襟首を強引に掴み上げられた。またしても私を後ろへと追い落とし、「不作法だ」と一喝する気なのだろう。私は狂ったように手足をバタつかせ、声を限りに叫び散らした。

「大殿!」

私の悲鳴が、高津様の耳に届いたかのように感じられた。そう信じるしかなかった。

数多の手が私の衣服をひったくり、引き戻そうとしたが、私は断じて引き下がらなんだ。前後の見境もなく、迫り来る手を無闇に殴りつける。

私は泥の窪みを飛び越え、遮るものを撥ね除けて前方へと躍り出た。背後から羽織をひっ掴まれたが、それを強引に脱ぎ捨ててさらに速度を上げた。

足はただ本能のままに私を動かしていた。己の動きが追いつかぬほどの速さで駆けたため、何度も足をもつれさせ、無様に地に転がった。もはや、両家の大軍の有様など私の目には映っていなかった。そこにあるのは、ただ二人の首領の佇まいと、今まさに脇差を己の腹へと向け、一文字に引き裂かんとしている満の姿だけだった。

満の元までは、あとわずか十間ほど。間に合うという、淡い期待が胸の奥に芽生えかけた。軍勢はとうに遥か後ろへと遠ざかり、もう私を遮る影など何一つ佇んでいないはずだった。

間に合う。

すべてを、元の正しい場所へと戻してみせる。

いや、違う。間に合わなんだ。

突如として私の足が宙へと浮き、脳天を割り裂くような凄まじい衝撃が走り抜けた。髪の結び目を強引に引っ掴まれ、私はその手の動きに引きずられるようにして上体を引き戻された。顔を上げた瞬間、私は呼吸をすることすら忘れて立ち尽くした。膝がガタガタと震え出し、心臓が恐怖の深淵へと一気に沈み込んでいく。

豊光。あの夜の社で私の脳裏に焼き付いた、あの冷酷で凄みのある眼差しが、真っ直ぐに私を射抜いていた。長老の瞳に、禍々しい悪意の光がギラリと閃く。あやつは私の正体を見破り、さらに力任せに私の髪を上へと引きむしった。

「楓……」

あやつの声音を耳にした瞬間、私は激しい眩暈と悪寒に襲われた。息を吸うことすら苦しく、頭が完全に肩の中へと沈み込んでいく。口を開いたけれど、微かな呻き声すら立ち上がってはこなかった。

「大殿、どうぞ最期の儀式を続けられよ! この場は某が検分いたします!」

この汚らわしい不届き者はそう声を張り上げるや否や、馬の背から下りることもなく、私を床の上へと引きずり回し始めた。

「小賢しい娘め。まあいい、お前は俺が直々に始末してやる」

どうすればよいか分からず、まともな思考すら失われた刹那、私は石川の短刀を引き抜いた。次の瞬間、奥歯をきつく噛み締め、その柄頭で奴の傷口を力任せに殴りつけた。豊光は悲鳴を上げて激昂し、空いた手で慌てて己の脇腹を押さえた。衣服の布地を突き破り、鮮血がどろりとにじみ出てくる。この不届き者め、やはり傷口は未だ完全に塞がってはおらなかったのだ。

私は何かに憑りつかれたかのように、二度、三度と容赦なく殴り続けた。そこでようやく、奴は私の髪を掴んでいた手を撥ね退け、その反動のままに私の頬を思い切りひっぱたいた。

凄まじい衝撃に頭が激しく揺れ、両足の力が完全に抜けて崩れ落ちた。頬がカッと熱く燃えるように痛む。いっそのこと、あの脇腹に刃を真っ直ぐに突き立ててやればよかったと、私は激しい後悔に身を焦がした。

軍勢の側からは、長老の窮地に駆けつけようと数人の隠密たちがざわめき立つ音が響いていた。豊光は激痛に身体を極限まで折り曲げ、まるで毒蛇さながらに低く這うような音を立てて身悶えしていた。猛毒を秘めた、死を運ぶ大蛇そのものだった。

時の流れが、奇妙なほどに緩やかになっていく。馬を駆り、猛然と追ってくる隠密どもの姿。今まさに脇差を掲げ、腹へと突き立てんとする満の佇まい。血を流して身悶えする豊光。すべてが静止し、天空を舞う一羽の鶴さえもがその羽ばたきを止めたかのように思われた。

脈拍が耳の奥でうるさいほどに乱打し、両手両足は木切れのように感覚を失っていく。

あとどれほど走ればよいというの。五間? それとも十間? されど、私の後ろには隠密たちが迫っている。この書状が高津様の眼に留まるより早く、奴らは容赦なく私の首を撥ねるのだろうか。

私は走りながら、小袖の底からあの巻物をむんずと掴み出すと、父上の足元へ向かって真っ直ぐに投げつけた。まさにその刹那、私は数人がかりで激しく草地の上へと組み伏せられた。両腕を強引に背後へとねじ上げられ、後頭部を冷たい土へと押しつけられる。鼻先が、朝露に濡れた泥の中へと無残に埋もれていった。

「放しなさい!」

私は泥を噛みながら低く呻き、何とかその束を振り払おうと必死にあがいた。されど、父上や満、精度豊光が今一体どのような動きを見せているのか、この体勢では何一つ窺い知ることは叶わなかった。

和紙がカサリと擦れる微かな音が響いた瞬間、それまで場を支配していた隠密たちのざわめきがぴたりと静まり返った。次いで、深く長い溜息が漏れ、地を親うような重々しい声が響く。

「引き上げよ」

襟首を無造作に掴み上げられ、私は父上の真ん前へと無理矢理に跪かされた。父上は声を荒らげることこそしなかったが、その佇まいには、如何ともしがたい凄まじい怒りと不満が満ち満ちていた。その御手には、すでに広げられたあの書状が握られている。私は一瞬だけ息が止まった。あの方は、すべてを読み解いたのだ。

「……これは、一体いかなる事態だ」

高津は険しく眉をひそめると、満の手からあの脇差を静かに取り上げた。満は驚愕に目を丸くし、私と真っ向から視線を交錯させた。あやつの瞳が、私の正体を悟って激しく泳ぐ。されど、驚愕に打たれたのはあやつ一人ではなかった。高津もまた、私の顔をじっと見つめ、その正体を完全に悟ったのだ。

「……楓か?」

父上は私の顎をがっしりと掴み上げ、その泥まみれの顔を隈なく見改めると、我が一族の血を引く娘であることに確信を得たようだった。

居並ぶ隠密たちの間に、さっと不穏な囁き声が走り抜けた。当然だ。いくさの最前線、両軍が対峙する死の盤上に、頭領の娘がこのような姿で這い出てくるなど、武士の掟においては正気の沙汰ではないのだから。

私は、父上の顔を真っ直ぐに見据えることすら叶わなかった。喉の奥がキュッと締め付けられ、身体の震えを必死に抑え込もうと足掻きながら、次なる言葉を必死に探り当てようとする。これまで、幾度もこの瞬間を脳裏に描いてきたはずだった。言い訳を並べ立てる我が姿か。あるいは涙を流し、神仏に縋るようにして許しを乞う我が有様か。それとも、豊光を指指してその大罪を暴き立て、このいくさを劇的に収める光景か。

されど……首領の前に跪かされた今の私は、喉が干からびて一言半句も言葉が立ち上がってこなかった。なぜ、これほどの大事の前にして、私は未だに臆病風に吹かれているというの。

「この小僧でございます! こやつがいきなり某に躍りかかり、あろうことか大殿の命をも狙おうとしたのです!」

豊光が激しい息を吐きながら、馬を寄せて詰め寄ってきた。激痛のせいでその身体はくの字に折れ曲がり、自らの力で上体を起こすことすら叶わぬ無残な有様だった。この汚らわしい不届き者の到来に、私は再び身体を強張らせた。そして、ようやく悟ったのだ。あやつの言葉と、私の言葉。どちらが真実であるかを決める盤上で、ただ沈黙を守り続けることなど、何一つ道理を成さぬということを。

「鶴田への襲撃の科は、偽りにございます……」

私は気後れしながらも声を絞り出し、されど周囲から突き刺さる鋼のような視線を感じた刹那、毅然と言い放った。

「豊光様を刺したのは、この私にございます!」

「我が娘であるお前が、長老をあやめようとしたと、そう申すか?」

高津は再び低く溜息をもらした。信じられぬのも無理はなかろう。当然だ。

「大殿、お嬢様は鶴田を庇っておいでなのです」

長老は奥歯を噛み締め、悔しげに口を開いた。

「ならば、これは如何なる意味だ?」

高津は激しい怒りを燻らせながら、手にした書状を激しく振ってみせた。

「これは、明白なる挑発の証拠ではないか」

「釈明をお許しくだされ……」

私は深く考えずに深く頭を垂れ、己の父上だけでなく、鶴田の一族に対しても平伏してみせた。

「それは、豊光様が両家を陥れようとした、陰謀の動かぬ証拠にございます」

「たわけた戯言を!」

豊光は激昂して声を張り上げ、両家の頭領の間に張り詰めていた凄まじい緊プレを切り裂いた。

「これは全くの讒言にございます! お嬢様は鶴田の小僧の元へと頻繁に通うておられた。二人は裏で手を結んでいる。ゆえに、そのような出鱈目を口にしているのです! 身を持ち崩した、ただの傾城の列に並ぶ売女が!」

高津は手元の書状の内容を油断なく見分した。長老の筆跡なら、古くからその眼に深く馴染んでいる。一族の政を巡るあやつの文を、これまでに何度も読み解いてきたのだから。

「ならば、なぜ鶴田の刀が社に残されていたのだ?」

「疾風が……」

満もまた、床の上に深く頭を垂れて言葉を紡いだ。

「我が弟が森の中で悪戯を働き、迷子になったのです。俺はあやつを捜し求めるうちに、境目で刀を落としてしまいました」

清正と高津は互いに真っ直ぐに視線を交し、この入り組んだ因縁の糸をいかにして解きほぐすべきか、深く思案を巡らせているようだった。事の次第は真に奇怪極まりなく、更なる検分を必要としていた。

「三河の境目にある川べりへと一隊を遣わせ。そこにいる者を、誰であれ一人残らずここへ引きずり出してまいれ」

長老の身体が僅かに強張ったが、それでもなお無実の被害者としての仮面を頑なに崩そうとはしなかった。数人の隠密たちが瞬く間に乗馬へと跳ね上がると、そのまま地を震わせて駆け去っていった。高津は豊光に向けて冷酷な視線を向けた。

「もし、お前への疑わしき科が真実であると分けば……」

その一言は、生かしてはおかぬという明白なる脅しとして大気に残されたが、豊光は依然として泰然と構えていた。今この期に及んでなお、己の嘘を信じ切っているかのようなその傲慢な有様が、私の胸の奥の怒りを一段と激しく燃え上がらせた。

「大殿、某は熊沢の家に変わらぬ忠義を尽くしております。貴殿に向けて、不実なる虚言を吐くなど断じてございませぬ」

「高津よ」

清正が一歩前へと進み出、熊沢の軍勢の陣列のあたりを顎で指し示した。そこでは、疾風がなおも死に物狂いで暴れ回っていた。あやつはそこにいたのだ、私は今の今まで気づかずにいた。

「検分を進める間、我が息子に糧を与えてやってくれ」

豊光は堪りかねたように鼻で笑ったが、その不躾な嘲笑は、私と満からの激しい軽蔑の視線に射抜かれて一瞬にして掻き消された。子供に粥を啜らせろなどという、いくさ場にはおよそ似つかわしくないあまりに平易な頼み事であったが、それでも父上は無造作に手を振ってそれを許した。疾風は馬の背から引きずり下ろされ、猿ぐつわを外されると、その口へ握り飯らしきものが強引にねじ込まれた。少年の若君はそれを吐き出し、激しく抵抗したが、一人の忍びがあやつの鼻をきつく塞いだため、疾風は息をするために口を開かざるを得なかった。私の位置からはよく見えなんだが、あやつの無垢な顔中が、米粒で無残に汚されていることだけははっきりと分かった。

満の最期の儀式はひとまず引き延ばされたものの、対峙する両軍の間に張り詰めた緊迫が和らぐことはなく、むしろいっそう鋭く研ぎ澄まされていった。誰もが息をひそめて待っていた。数人の者が豊光の傍らに寄り添い、相変わらず恭しく頭を垂れながら、開きかけたあの傷口の処置に当たっている。一族の誰も長老の科を信じてはおらず、それゆえに皆、酷く弛みきっていた。高津様と清正は、互いに無言のまま真っ向から対峙している。もしあの陰謀が真実であると分かれば、清正は豊光だけでなく、関わった不届き者どもを悉くその手で絞め殺さんとするに違いない。それは我が父上とて同じこと。二人は刀の柄をきつく握り締め、その指の指節が白く浮き出るほどだった。

両軍のただ中には、小さな陣幕が張られた。まずはいくさではなく、談判の席が設けられるという合図。その有様に私は安堵し、胸の奥に微かな希望を抱いた。されど、清正の二人の息子が未だ解放されず、熊沢の手の中に留め置かれている事実が、冷酷な現実を物語っていた。父上の手の者どもが戻り次第、再び容赦なき取引が始まるのだ。

私はあの嘘つきの傍らに佇みながら、激しい吐き気に襲われていたが、満の姿を視線で追いながら必死にそれを圧し殺した。あやつの両手が小刻みに震え、痛む足が悲鳴を上げ、青白い肌を冷たい汗のひと雫が伝い落ちていくのが、手に取るように分かった。今すぐあやつに深く詫びを入れたかったが、その猶予はどこにも残されていなかった。もし今、私が鶴田の跡取りの脇へと歩み寄れば、二人が裏で手を結んでいるというあの悍ましい言いがかりを、さらに強めるだけなのだから。

しばらくの間、清正は満と言葉を交わしていたが、その横顔はどこか現実から切り離されたかのように冷ややかだった。ふとした刹那、私と満の視線が真っ向から交錯した。あやつは生唾をごくりと呑み込み、慌てて私から目を逸らした。胸を掻きむしるような恥辱が押し寄せ、私は拳をきつく握り締めながら、あやつ以外のありとあらゆる景色へと、必死に視線を逸らし続けた。


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