5. アパート
公園で彼女とデートする約束を交わし、それから数日後に公園デートをした。
数ヶ月の月日が流れた。季節は反転し、肌寒さは極まる。そろそろ雪が降り始めるかもしれない。
いつしか男は、休日には必ず彼女と時間を共有する仲になっていた。
男と彼女は日が落ちて暗くなった夜道を歩いていた。手を繋ぎ、他愛のないことを語らう。毎週のように公園やプールに赴いて近所を徘徊する男の趣味は、いつしか自分以外の誰かと過ごすためのかけがえのない時間になっていた。
男は今までの人生で未だかつてないほどの幸福感を覚えていた。隣にいるこの女性と、一生を添い遂げてもいいとすら思っていた。きっと、彼女も同じだ。
意外にもガードの固い彼女は、今日この日まで体に触れ合う行為を許していなかった。しかし、今日は彼女に、自分の住むアパートに来るように誘われた。
街灯も乏しい住宅街の夜道。一棟の古いアパートに着いた。二階建ての建物で、彼女の部屋は二階にあると言う。
二人で階段を上る。この時期になれば屋外の階段でも虫と出会うことはない。二階に着くが、何故かそのまま屋上へと伸びる梯子を登るように勧められる。男は疑問に思ったが拒否しなかった。
梯子を登る。男のすぐ後に彼女が続く。そして男が梯子を登り切る寸前のところで、彼女は梯子上で背後から、男に覆い被さった。今まで体の密着も避けてきた彼女の、突然の大胆な行動に男は動揺した。背中に胸の柔さや鼓動の音、耳元に彼女の吐息が当たる。
男の目の前は梯子の終端だった。梯子の上は学校の学習机の天板くらいの狭いスペースがあり、その周りは高い金属の柵に覆われている。屋上には上がれない。彼女がいるせいで梯子を下がることもできず、上に行っても逃げ場はない。
甘い言葉を耳元で囁く彼女。言葉だけで男は酔わされそうになる。そして彼女は頃合いを見て、一枚の書類を男の前に差し出した。紙を梯子の上の天板状のスペースに置く。
書類には、『財産贈与契約書』と記されていた。
「え、これは……?」
状況がわからず、男は顔をしかめる。彼女は耳元で囁いた。
「私たち、これからもずぅっと一緒に過ごすことになるだろうし、それにはまとまったお金が必要でしょ? お金も一緒に管理した方がいいと思ってね」
目の前の紙には男が彼女への財産贈与に承諾したことを証明する文言や、振り込み先の銀行口座の番号などが記されていた。下の方には署名や住所を記載する欄がある。
彼女は男の後ろからボールペンを差し出し、書類に署名するように求めた。男は、彼女が自分にしてくれることはすべて自分のためを思ってのことだと信じていた。一見押し付けのように見える親切も、後になって結果としていいものになると疑っていなかった。愛情による信頼関係があった。しかしこの瞬間、男は彼女の申し出を快諾できずにいた。
男が判断を決めかねていると、次第に彼女は後ろから急かし始める。
なにかが引っ掛かる。それが何なのか、今の男にはわからなくなっていた。彼女の頼みや期待を裏切りたくない。その思いだけが体内で激しく主張する。
急かされながらも男は行動に移さない。頭の中が混乱して動けなくなってしまっていた。その様子に痺れを切らした彼女は徐々に感情を込め始める。
「早く書いてくれない? 私たちこれからもすることがあるんだし、そうでしょ?」
すること。今日は彼女の住むアパートに来たんだ。男はそのことを思い出す。それでもペンを持つことをためらう。彼女の余裕のない態度にも違和感を覚えていた。
「ねぇ、いつまでも待たせないでくれる? もう時間がないの。優柔不断なあなたにいつも付き合ってあげてる私でも、そろそろ耐えられないよ?」
男はなにも答えず、黙っていた。
終いには彼女は明らかな怒りの感情を露わにし、男に怒号を浴びせた。ボールペンを握らせようと、男の顔の目の前に掲げて。
「早く書けよ!! これさえあれば私は幸せになれるんだよ!! なんのために今日まで頑張ってきたと思ってんだ!? 少しは人の気持ちも考えろよ!!」
「……ぇ、でも」
「私を否定すんな! 言い訳すんな! お前のために私がどれだけ尽くしてきたかわかってないだろ!?」
「………………」
激昂して感情が昂る彼女。男はただ黙って耐えていた。過去の嫌な記憶を呼び起こされて心臓がバクバクと荒立つ。体から血の気が引いて、病気で憔悴したかのように力が入らない。幼い頃の母親の罵声がフラッシュバックする。
彼女の怒号も罵声に変わる。男は梯子を上にも下にも動けず、ただその場で耐えることしかできなかった。体の力が抜け、梯子を手放したら後ろにいる彼女ごと転落してしまう。もうペンすら握れない。契約書のことを考える余裕すら――――
「――おい、お前らッ!! そこでなにやってるんだ!!」
男が限界に達しようとした時、地上から何者かの怒号が響いた。




