2. 悪夢と運命
「おとーさん、なにしてるの?」
僕は巨大なテレビの前で胡坐をかく父親に声をかけた。
「味方何やってんだよ、援護はいれよ。つかえねーな…………」
僕の存在には目もくれず、スクリーンを凝視してぼそぼそと呟く。画面には自動小銃を手にした人間の主観視点の映像が映っている。血管の浮き出た父親の手にはゲームのコントローラーが握られていた。
再度、僕は父親に声をかける。
「ねぇねぇ、ぱぱ…………」
「………………」
いつも通り、反応は返って来ない。よく見たら父親は頭にヘッドホンをつけていた。そもそも僕の声が聞こえていないから無反応なのだろう。きっと、そうに違いない。
父親の近くでおとなしくしていると、玄関扉が開く音がした。帰ってきたんだ。待っているとリビングの扉が開く。
「おかーさん」
僕は母親のもとに駆け寄った。母親はいつもの通り、高いところから僕を見下ろす。
「あんた、またそんな汚いぬいぐるみ持ってるの?」
母親は僕が大事に抱えていたトカゲのぬいぐるみを見て、冷淡な声で言った。
「それ、みっともないから外に持ち出すのやめてって、いつも言ってるよね?」
「ぇ、でも――」
「――でもじゃない!! また言い訳するのか!?」
急に激高する母親。
「周りの人にそんなものを持ち歩いているのを見られたら私たちが惨めな思いをするんだ!! 私はアンタのためを思って言ってあげてるって、わかってんのか!!??」
怒鳴り散らす母親だったが、僕には何を言っているのかよくわからない。
「だってピーちゃんはママが誕生日のときに買ってくれて――」
「――だからそのママ呼びもやめろって言ってんだろ!! 貸しな」
母親は僕からトカゲのぬいぐるみを取り上げた。僕の手の届かないくらい高くに上げ、首を鷲掴みにする。もう片方の手で体を思いっきり引っ張った。トカゲの首が伸びる。
「だめ! やめて! ピーちゃんをいじめな――」
――――――――ブチッ
「――ッ!?」
男はベッドから飛び起きた。勢いのあまりベッドから落ちそうになる。
それから冷静になって男は考えた。
(今のは、僕の………………)
男は夢を見ていた。部屋のカーテンは開けっ放しで容赦なく外の日差しが差し込む。同様に開いたままの窓からは心地良いそよ風が入り込む。
気持ちを落ち着かせて、スマートフォンの画面を眺めた。
「………………ぁ、まずい」
時刻は午前九時三十分。予定では排水管の業者がちょうど家に訪れる時間だった。
昨晩、家のトイレが詰まってしまって水が流れなくなった。水があふれることはなく緊急性は低いが、なるべく早くに直したい。夜のうちに修理業者に連絡していたことをすっかり忘れていた。
時間がない。今すぐに来たとしてもおかしくない――――インターフォンが鳴った。
顔も洗っていないし、髪もぼさぼさのまま。睡眠時のラフな軽装のままで髭も剃っていない。しかし業者を待たせるわけにはいかない。男は身だしなみのすべてを容易く諦め、玄関へと向かう。
「はーい、いま開けまーす」
玄関扉の鍵を捻り、扉をゆっくり押し開く。
「おはようございます! トイレの修理に来ました!」
思っていたよりも高い声だった。玄関の外で待っていたのは、淡いベージュ色のショートヘアの女性だった。
快活な笑顔と挨拶で男の朝を晴れやかにした。社交性と愛想の良さに溢れており、薄い青色の作業着には汚れひとつ付いていない。
男はまさか業者の人間が女性だとは思っておらず、いたたまれない気分になった。清潔の象徴のような綺麗な人に対し、自分は寝起き姿のままだったからだ。不快な思いをさせてしまったかもしれない。
「さっそく修理作業に取り掛からせてください。入ってもいいですか?」
彼女は不快などとは微塵も考えていないような態度だった。男はそれに安堵し、彼女を中に通す。
男の一人暮らしの、散らかった室内の廊下を進む。職場にも男性しかおらず、日常生活でも女性との関わりはまったくない。女性とは無縁の人生だった。そんな男の後ろについて歩く彼女の手にはただ一つ、排水溝の詰まりを水圧で直すラバーカップ、いわゆるスッポンだけが握られていた。
すぐにトイレの目の前に着き、男が扉を開く。水がもう少しで溢れそうな状態のまま昨晩から放置された洋式便所と対面した。幸い、水は無色透明で汚物等は浮かんでいない。
「ちょっと失礼しますね」
彼女は躊躇わずに前に出た。手にしたスッポンを構え、黒いゴム製の半球状のカップを水底に突き刺す。たしかに便器の奥まで当たる位置まで差し込むと、そこからさらにもうひと押し。
轟音と共に水面が荒立つ。突き刺して引いて、また突き刺して引いてを繰り返す。するとものの数秒のうちに溜まっていた水は難なく流れていった。
「え、それだけで……?」
「はい! これで作業は以上になります!」
業者の女性は目を細めた満面の笑みで朗らかに答えた。
トイレの詰まりはラバーカップで簡単に直せるということを、常識知らずのこの男は知らなかった。




