暗闇の中、世界の歪み
地下牢での生活は、恐ろしく退屈で、同時に不思議なほど静かだった。
最初の二日間、進は体の痛みもあって、牢の隅の干し草に丸くなったままほとんど動けずにいた。現実世界でのいじめ、崩壊した家庭、そして異世界でのリンチ。疲れ果てた心が、深い眠りを求めていた。
そんな進をときどき退屈しのぎの「玩具」にしたのが、キースだった。
「ほら、坊主。どっちの手に対価が入っているでしょうか?」
三日目の午後、キースが進の前にひょいとしゃがみ込み、両方の握り拳を突き出してきた。
進が怯えながら「……ひ、左?」と指さすと、キースがニヤリと笑って手を広げる。しかし、手のひらはどちらも空っぽだった。
「ぶぶー、ハズレ。正解は……君のフードの中でした」
キースが指をパチンと鳴らすと、進のパーカーのフードから、カランと古びた銅貨が転がり落ちた。
「えっ……!?」
「あはは! 引っかかった。君、本当に表情が分かりやすくて最高だよ。騙しがいがあるなぁ」
お腹を抱えて笑うキースに、進は呆然とする。
「ちょっと、キース。私の前でせわしなく指を動かさないで。服の擦れる音で、どんな汚い手品を使ってるか丸わかりよ。不愉快だわ」
石のベンチから、ルナが冷たく言い放つ。
「おや、盲目のレディにはお見通しだったかい? つまんないの」
キースは肩をすくめると、今度はハクの方へ歩いていき、「ハク、お前の耳の後ろから木の実が出てきたぞ」とからかい始めた。「えっ!? はく、みみ、みのる? すごい!」と大真面目に驚いて耳を触っているハクを見て、進の緊張の糸が、ほんの少しだけ緩んだ。
凶悪犯だと聞いて身構えていたが、彼らは四六時中ギラギラしているわけではない。
むしろ、外で自分を殴りつけてきた「正義の味方」を名乗る大衆よりも、この牢獄の中にいる彼らの方が、ずっと人間らしく思えた。
「――少しは落ち着いたようだな」
ハクとキースのやり取りを壁際で眺めていたガルードが、ゆっくりと進の隣に腰掛けた。
その圧倒的な体格の良さに進は背筋を伸ばしたが、ガルードの横顔にあるのは、どこか哀愁を帯びた静かな大人の表情だった。
「……あの、ガルードさん」
進は、ずっと気になっていたことを、思い切って声に出してみた。
「ここって……どういう世界なんですか? あの、空に浮かんでる大きな天秤のカードは一体……」
ガルードはふっと息を漏らし、天井の小さな天窓を見上げた。
「ここは【正義】のアルカナが統治する国、ジャスティアだ。だが、今のあのカードは上下が逆さま――『逆位置』の状態にある」
「逆位置……」
「そうだ。本来の【正義】は、厳格な平等と、客観的な事実に基づいたバランスを意味する。だが、それが逆さまにひっくり返ると、意味がガラリと変わるんだ。……『偏見、不公平、独断、そして集団心理の暴走』」
ガルードの低い声が、冷たい石壁に反響する。
「今のこの国じゃ、事実なんて誰も見やしない。大衆が『あいつは悪だ』と叫べば、それがどれほど理不尽な冤罪だろうと、それが正義になる。数が力であり、数のノリこそが法なんだ。……お前が外で受けた扱いが、その最たるものだな」
進は息を呑んだ。
偏見。集団心理の暴走。数のノリが正しいとされる世界。
(やっぱり、あの学校の教室と、同じなんだ……)
進の胸に、重苦しい罪悪感が再びのしかかる。自分はそんな歪んだ世界で、理不尽にハメられた「被害者」として、この優しい男に同情されている。
「坊主。お前は悪くない」
ガルードが、進の小さな肩にポンと大きな手を置いた。
「この国が狂っているだけだ。事実に目を瞑り、一人の子供をなぶり殺しにしようとする外道ども。俺は、そういう奴らが、世界で一番反吐が出るほど嫌いでな。……安心しろ、俺が必ずお前を守る」
その真っ直ぐで力強い言葉は、進の心を激しく救い――同時に、鋭い刃となって心臓を突き刺した。
(違うんだ、ガルードさん……。俺は、あなたの嫌いな『外道』なんだよ。現実世界で、あいつを寄ってたかって追い詰めて、壊したのは……俺なんだ……)
「……ありがとう、ございます」
進はそう声を絞り出すのが精一杯だった。本当のことを言えば、この優しい手は、一瞬で自分を握りつぶす凶器に変わるだろう。
いつか過去がバレるかもしれないという、静かで致命的なプレッシャー。
「ふん……」
牢の隅から、ルナが冷たく鼻を鳴らした。
「ガルード、その子をあんまり甘やかさない方がいいわよ。その子の魂の音……優しくされればされるほど、怯えと後ろめたさで、どんどん嫌な匂いに濁っていってるわ」
「おいおい、ルナ。新入りをいじめるのはそこまでにしときなよ」
キースがニヤニヤしながら割って入る。
お互いへの不信と、隠された爆弾、そして奇妙な居心地の良さ。
そんな歪な均衡を保ったまま、地下牢での時間は静かに流れていった。
しかし、その平穏も長くは続かない。
五日目の朝、地下牢の奥深くまで、地鳴りのような巨大な「鐘の音」が激しく鳴り響いた。
――ゴォォォォン。ゴォォォォン。
それは、この街のすべての住民が広場に集まり、囚人を奈落へと突き落とす、狂気の「大衆審判」の始まりを告げる合図だった。




