善意の代償、連鎖する誤解
「あの、落としましたよ……!」
進の声は、雑踏の喧騒にかき消されて男には届かない。
足元に転がった金細工のブローチは、夕暮れ時の光を浴びて、妙に美しく鈍く輝いていた。
落ちたものを警察に届けるか、持ち主に返す。現代の日本で育った進にとって、それはあまりに当然の、反射的な行動だった。
おどおどした手つきでしゃがみ込み、そのブローチを拾い上げる。ひんやりとした金属の感触が手のひらに伝わった、その瞬間だった。
「――おい! 見ろ、あいつ今、前の旦那の懐から盗みやがったぞ!」
鋭く、ひび割れたような大声が、すぐ真横から響いた。
びくりとして進が顔を上げると、果物露店の店主らしき男が、血走った目で進を指さしていた。
「え……?」
進の思考が停止する。
周囲の歩行者たちが、その声に一斉に足を止めた。
先ほどブローチを落とした外套の男も振り返り、自分のポケットと、進の手元を交互に見て、みるみるうちに顔を怒りに染めていく。
「何だと……? 泥棒め、私の家宝を盗もうとしたのか!」
「ち、違うんです! 落ちたから、俺はただ拾おうと――」
言い訳をしようと声を絞り出すが、周囲に集まってきた住民たちの目は、すでに冷酷な「敵意」に満ちていた。
頭上の空に浮かぶ【正義(逆位置)】のカードが、まるで彼らのエゴを煽るようにぎらぎらと不気味に明滅する。
『話し合いなど無用だ』
『見たままが真実だ』
『悪者は徹底的に叩き潰せ』
この街の底流にある歪んだルールが、住民たちの顔を「正義の味方」の歪んだ笑顔に変えていく。彼らにとって、進が本当に盗んだかどうかなどどうでもよかった。ただ、目の前に現れた「分かりやすい悪」を、みんなで寄ってたかって断罪する快感が欲しいだけなのだ。
「うそつきめ!」「見苦しいぞ異端者が!」
罵声が四方八方から浴びせられ、あっという間に進は数重の人垣に囲まれてしまった。
(あ、ああ……まただ。またこれだ……!)
進の脳裏に、学校の教室がフラッシュバックする。
自分の弁明など誰も聞いてくれない。全員が冷たい目で、自分を「悪」だと決めつけて包囲している。
恐怖。絶望。そして圧倒的なパニック。
「あ、う……あ……」
進は喉を詰まらせ、恐怖のあまり、無意識に後ろへと一歩、大きく後退した。この場から、この視線の群れから、一刻も早く逃げ出したかった。
「あいつ、逃げる気だぞ!」「捕まえろ!」
後退した足取りは、群衆の目には「罪を認めて逃亡を図った証拠」と映った。
色めき立った群衆の中から、一人の筋骨逞しい男が猛然と踏み込んできて、進の細い腕を、骨がきしむほどの力で強く掴んだ。
「がっ……あ痛い! 離せ!」
痛みが脳を突き刺す。引きこもり生活で過敏になっていた進の身体は、他人の強引な暴力に対し、本能的な防衛反応を返してしまった。
――ふざけるな、触るな!
かつて現実世界で、気に入らない相手を力ずくでねじ伏せていた頃の「乱暴な本性」が、パニックの拍子に最悪の形で目を覚ます。
進は狂ったように叫びながら、掴まれた腕を全力で思い切り振り払った。
バチィン、と肉と肉がぶつかる激しい音が響く。
男の手が弾かれ、男は一瞬、呆然と目を見開いた。
それが、致命傷だった。
「このガキ……! 盗みを働いた挙句、逆上の暴行か!?」
「反抗する気だ! 叩き直してやれ!」
群衆の「正義感」に、完璧な大義名分が与えられた。
「違う、俺は……!」という進の悲鳴は、押し寄せた怒号の波にかき消される。
次の瞬間、横から飛んできた硬い拳が、進の頬を容赦なく殴り飛ばした。
「ぶっ……!?」
視界が激しく火花を散らし、石畳に叩きつけられる。
間髪入れず、背中、脇腹、太ももへと、大衆の容赦ない靴底が何度も、何度も踏みつけられた。
「痛い、痛い! やめてくれ! 頼むから……っ!」
頭を抱えて丸くなる進に、老人、若者、女、あらゆる住民が「正義」の名の元に暴力を浴びせる。
現実のいじめの加害者が、異世界で「無実のいじめ」の被害者として凄惨に踏みにじられる、あまりに皮肉な地獄絵図。
どれだけの時間が経っただろうか。全身が激痛と泥にまみれ、進が呼吸をすることすら苦しくなった頃。
ドシン、ドシン、と重い金属足音が、群衆を割って近づいてきた。
「そこまでにしろ。街の治安を乱す不逞の輩は、我々が拘束する」
騒ぎを聞きつけた、鉄の鎧に身を包んだ冷徹な目つきの衛兵たちが、倒れる進を見下ろしていた。
周囲の住民たちは「こいつが泥棒です!」「暴れて抵抗したんです!」と、口々に、嬉々として進を告発する。
衛兵たちは進の言い分を聞く素振りすら見せず、ぐったりとした進の腕を乱暴に引っ張り上げると、その手首に冷たい鉄の手枷をガチリと嵌めた。
「連行しろ。地下の大牢へぶち込め」
引きずられていく進の視界の端で、空に浮かぶ【正義(逆位置)】のカードが、あざ笑うように怪しく輝いていた。




