ゼロの自室、歪む視界
薄暗い自室の空気は、いつも澱んでいる。
前田進は、机の下に膝を抱えて丸くなっていた。遮光カーテンの隙間から差し込むわずかな昼の光が、埃の舞うフローリングを白く照らしている。
スマートフォンは、もう一ヶ月以上も電源を切ったままだ。
最後に見た画面の記憶が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
『お前のせいだ』
『人殺し』
『よく平気な顔で生きてられるな』
ネットの海に溢れた無数の文字。クラスメイトたちの、手のひらを返したような冷酷な視線。
すべては、自分が蒔いた種だった。調子に乗っていたのだ。あの時、あいつをあそこまで追い詰めなければ。あいつが頭から血を流して倒れ、今も病院のベッドで人工呼吸器に繋がれるような事態にならなければ。
「……にいちゃん」
部屋のドア越しに聞こえた、妹の冷え切った声が蘇る。かつてはあんなに慕ってくれていた妹は、あの日以来、進を一度も「お兄ちゃん」とは呼ばなくなった。家庭は崩壊した。学校にも居場所はなくなった。
(俺なんか、消えればいいんだ)
進は爪が食い込むほど強く頭を掻きむしり、強く目を閉じた。
自分の存在そのものを世界から消し去りたいという、極限の自己否定。
その瞬間、耳の奥で――キィィィン、とガラスを引っ掻いたような甲高い音が鳴り響いた。
「え……?」
慌てて目を開けたが、すでに遅かった。
自室の四角い壁が、ぐにゃりと奇妙に歪んでいる。重力が消滅したかのように身体が浮き上がり、天地が激しく回転した。叫ぼうとした喉は、ひどく乾燥して声にならない。
視界が急激に明転し、進の意識は、猛烈な目まいで真っ白に塗りつぶされた。
「――おい、邪魔だ! そこをどけ!」
怒鳴り声と、激しい人混みのざわめき。
進は、冷たい石畳の上に突っ伏していた。
「う、あ……」
肺に流れ込んできたのは、自室の埃っぽい匂いではない。馬糞と、焦げた肉の匂い、そして生々しい人間の熱気が混ざり合った、嗅いだこともない異様な空気だった。
頭を揺らしながら、ゆっくりと上体を起こす。
信じられない光景が、進の目に飛び込んできた。
見上げるほど高い、中世ヨーロッパを思わせる石造りの建物。その間を埋め尽くすように、奇妙なローブを着た者や、荒々しい革鎧を纏った人々が行き交っている。何より異常なのは、彼らの頭上――抜けるように青い空の真ん中に、巨大な、タロットカードを模した幾何学的な紋様が浮かんでいることだった。
描かれているのは、逆さまに配置された巨大な「天秤」。
それは、見る者に本能的な威圧感を与える、不気味な黄金の輝きを放っていた。
「な、んだよこれ……夢、か……?」
進はガタガタと震える自分の手を見た。引きこもっていた時のままの、ヨレたグレーのパーカー。
パニックで心臓が破裂しそうになる中、進はよろよろと立ち上がった。
周囲を行き交う人々は、誰もが進を「奇妙な格好をした不審者」を見る目で、冷たく一瞥して通り過ぎていく。
その時、進のすぐ目の前を歩いていた、立派な外套を着た大柄な男が、懐から何かを取り出そうとした。
その拍子に、男のポケットから、きらきらと光る金細工のブローチが滑り落ち、石畳の上でカランと高い音を立てた。
男は気づかないまま、雑踏の中を進んでいく。
「あ、あの……!」
進は無意識に、そのブローチへと手を伸ばしていた。それが、この国での「最悪の連鎖」の始まりだとも知らずに。




