第82話 未来を共に
現世へ帰ってきて一週間経ち、街はすっかり活気を取り戻していた。
崩れていた建物も少しずつ修復が進み、人々の笑顔も戻り始めている。
《夜叉》も変わらず忙しい毎日を送っていたが、今日は少しだけ特別な日だった。
施設で慰労会を兼ねたパーティが開かれるのである。
しかも今回は――
『ドレスコード必須』
という玲の一言で、隊員たちは朝から大騒ぎだった。
「うんうん!」
紬の母は満足そうに何度も頷いた。
「やっぱり似合うわ!」
紬は姿見の前でくるりと一回転する。
淡い色のドレスの胸元には、玲から贈られた髪飾りがきらりと輝いていた。
鏡の中の自分は、いつもの隊服姿とはまるで別人のようだった。
「お、お母さん……」
照れくさそうにスカートの裾を握る。
「ちょっと派手じゃないかな……?」
「何言ってるの〜」
母は笑顔で首を振り、
「すっごく似合ってるわ!」
そう言うと、リビングへ視線を向けた。
「ねぇ、お父さん?」
ソファでは父が新聞を広げて座っていた。
「お、おぉ……」
落ち着いた声で返事をするが、
「似合って……いるぞ」
その声はどこかぎこちない。
紬は小さく笑った。
「ありがとう、お父さん」
しかし、その瞬間、母がくすっと吹き出した。
「あら、お父さん?新聞、逆さまよ?」
「…………」
部屋に静寂が流れ、父はゆっくりと新聞へ目を落とした。
見事に上下が逆になっている。
「……」
無言で新聞をくるりと回し、何事もなかったように読み始める。
その耳はほんのり赤く染まっていた。
母は思わず笑い出す。
「もう、お父さんったら。紬が可愛くて気になって仕方ないのね」
「そ、そんなことはない!」
新聞から顔を上げることなく、父は慌てて否定する。
「私はちゃんと新聞を読んで……」
言いかけて、ぴたりと止まる。
新聞の一面を見ても、内容はまったく頭に入っていなかった。
紬は思わず吹き出した。
「ふふっ」
戦いの日々では聞けなかった、自分の笑い声。
その笑顔を見て、父も母も優しく微笑んだ。
何気ない会話、何気ない笑顔。
そんな当たり前の日常が、今は何よりも愛おしかった。
母と顔を見合わせ、二人で笑っていると、玄関のインターフォンが鳴った。
「あら」
母はにっこりと笑い、
「お迎えが来たみたいね」
まるで誰が来たのか分かっているような口ぶりで、軽やかな足取りのまま玄関へ向かう。
「はいはーい」
ガチャリ、とドアが開くと、
「あらあら!」
母の弾んだ声が家中へ響く。
「紬〜!」
リビングまで聞こえるほど大きな声で叫んだと思うと、
「貴女の王子様がお迎えに来たわよ〜!」
「ぶふっ!」
リビングから盛大にお茶を吹き出す音が聞こえた。
「お、お、お……!」
父が勢いよく立ち上がり、
「王子様だとぉ!?」
新聞を放り出し、慌てて玄関の方を覗き込もうとする。
「あなた、落ち着いて」
母はくすくす笑いながら父を制した。
紬は頬を赤く染め、小さくため息をつく。
「もう、お母さん……」
恥ずかしそうに呟きながら玄関へ向かうと、ドアの向こうには、一人の青年が静かに立っていた。
「……透さん……」
思わず息を呑む。
いつもの白い隊服ではなく、純白のタキシードに身を包み、胸元には深い青のチーフ。
そして今日は、いつも掛けている眼鏡も外していた。
柔らかな髪が風に揺れ、穏やかな笑みが紬へ向けられる。
その姿は、どこかいつもより大人びて見えた。
「こんばんは、紬」
優しく微笑む透のその笑顔を見た瞬間、紬の胸が高鳴る。
(ずるい……)
いつも一緒にいるはずなのに、今日だけはまるで、初めて会った人みたいに見えてしまう。
「すごく……」
紬は照れくさそうに目を逸らし、
「似合ってます……」
透は少し照れたように笑った。
「ありがとう」
そして今度は、紬をゆっくり見つめる。
「紬も……すごく綺麗だよ」
その一言だけで、紬の頬はさらに真っ赤に染まってしまった。
紬の両親に挨拶をし、2人は家を後にした。
夕暮れの柔らかな風が、2人の間を優しく吹き抜ける。
透は紬の手をそっと握り、紬も照れくさそうに握り返し、2人はゆっくりと歩き始めた。
「紬」
透が足を止め、
「え?」
紬が振り返ると、透は穏やかに微笑んでいた。
「ほんとに、綺麗」
そう呟くと、繋いでいた紬の手をそっと持ち上げる。
「透さん……?」
透は紬の手の甲へ、優しく口づけを落とした。
「っ……!」
紬の頬が一瞬で真っ赤に染まり、
「と、透さんっ!」
慌てて辺りを見回す。
「こんな所で……!」
透はくすっと笑った。
「誰も見てないよ?」
「そ、そういう問題じゃ……!」
紬は恥ずかしさのあまり俯いてしまう。
心臓の音が、自分でも分かるくらい速くなっていた。
そんな紬を見つめながら、透は照れたように笑う。
「現世に帰ってきたら、決めてたんだ。ちゃんと紬に、思ったことは伝えようって」
あの戦いで、何度も失いかけた。
伝えられないまま終わるかもしれない恐怖を知った。
だからもう、後悔はしたくなかったのだ。
「綺麗だと思ったら、綺麗って言う。大好きだと思ったら、大好きって伝える」
紬は透を見つめ、その真っ直ぐな瞳に、思わず笑みがこぼれた。
「……透さん」
少し照れながら、透の手を握り直す。
「そんなに積極的になったら……」
紬ははにかみながら笑う。
「私の心臓がもたないです……」
その言葉に、透も優しく笑うと、
「それなら」
もう一度だけ、紬の手をそっと握りしめる。
「少しずつ慣れてね?」
「もうっ……」
紬は困ったように笑いながらも、その手を離すことはなかった。
夕暮れの街を、二人は肩を並べて歩いていく。
その一歩一歩が、戦いのない未来へと続いていた。
《夜叉》の施設に着くと、透は腕時計を見て、
「まだ時間があるね。少し、屋上でも行かない?」
と紬を誘う。
紬は何も考えぬまま、
「はい!」
と答え、そしてそのままたわいもない話をしながら屋上へ行く。
外はすっかり夜に包まれていた。
虫の鳴く声や、木々の揺れが心地よい。
紬の髪は夜風に揺れ、
「……また、ここに戻って来れるなんて……」
と、今までの事を思い出していた。
紬はフェンスに近付き、遠くに見える街並みを眺める。
ぽつりぽつりと電気が付き始め、それもまた幻想的だった。
透は紬の隣にそっと立ち、
「そうだね。みんな、ほんとに頑張ってくれたんだね」
街を眺める。
「あの時、透さんと玲さんを失ったと思いました……」
紬は呟くと、胸の前で手を握りしめる。
透はそっと紬との距離を縮め、
夜風に揺れる紬の髪を優しく見つめながら、その肩を抱き寄せた。
「……また紬とこうして、お話できて嬉しいよ」
穏やかで、どこまでも優しい声だった。
あの戦いを越えたからこそ、その何気ない一言が胸に沁みる。
紬は透を見上げる。
優しく微笑むその表情は、あの日と何一つ変わらない。
その瞬間、胸の奥に押し込めていた想いが溢れ出した。
紬は何も言わず、ただ一歩踏み出し、透の胸へそっと抱きつく。
「……紬」
透は少しだけ驚いたように目を丸くする。
けれどすぐに優しく微笑み返し、紬を包み込むように抱き締めた。
「……ありがとうございます」
透の胸に頬を寄せたまま、紬は小さく呟く。
「こうして透さんの温もりを感じられることが……今は何より幸せです」
透は紬の頭を優しく撫でる。
「僕もだよ」
短い言葉だけど、それだけで十分だった。
指先が柔らかく髪を梳くたび、紬は安心したように目を細めた。
「紬。僕ね」
少し夜空を見上げ、
「あの日、紬と出会う前の僕は、本当に弱かった」
自嘲するように小さく笑う。
「自分では何も決められなくて、どうしたらいいか分からなくなると、ずっと玲さんの指示を待ってた」
「……」
「あの時は玲さんが言うことは絶対なんだ、って思ってたんだ。……玲さんが暴走しても、これが正解なんだ、って思い込んでた。玲さんが悪いっていう意味じゃなくてね」
そう言って苦笑する。
「でも……」
透はもう一度紬へ視線を戻し、
「紬に出会ってから、僕は変われた気がするんだ。玲さんも、前よりたくさん笑うようになって、《夜叉》のみんなも、すごく明るくなって。僕も、自分の気持ちをちゃんと伝えられるようになった」
優しい笑みを浮かべる。
「全部、紬がいてくれたからなんだ」
紬は静かに透を見つめると、透は照れくさそうに笑いながらも、真っ直ぐ紬の瞳を見つめ返した。
「紬はね」
一拍置いて、ゆっくりと言う。
「僕にとって、太陽なんだ」
透はそっと手を伸ばし、今にも溢れそうな紬の涙を優しく指先で拭った。
「紬」
穏やかな声が夜風に溶けていく。
「僕は、紬が必要なんだ」
真っ直ぐな瞳で紬を見つめる。
「紬がいてくれるから、僕は前を向ける。紬が笑ってくれるから、僕も笑える。だから――」
透はゆっくりとタキシードの内ポケットへ手を入れた。
取り出したのは、小さな紺色の箱。
「……透さん」
透は静かに微笑むと、その場で片膝をついた。
箱を両手で大切に持ち、ゆっくりと蓋を開ける。
中には、夜空の光を受けてきらりと輝く、小さなダイヤモンドがあしらわれた銀色の指輪が。
紬は息を呑んだ。
透は少し照れたように笑い、それでも真っ直ぐに紬だけを見つめる。
「僕と……」
一度深く息を吸い、
「僕とこれからも、一緒にいてくれますか?おじいちゃんと、おばあちゃんになっても。嬉しいことも、悲しいことも、一緒に分け合って。……ずっと、隣で笑っていてほしい」
そして、優しく微笑んだ。
「――僕と結婚してください」
その言葉を聞いた瞬間、紬の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
止めようとしても止まらない。
嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいだった。
紬は何度も涙を拭いながら、小さく頷く。
「はい……」
声が震えるけれど、それでも透へ精一杯の笑顔を向けた。
「もちろん……です……!」
涙で滲む視界の中、それでも透の姿だけははっきりと見えていた。
「透さん……」
その一言に、紬の想いがすべて込められていた。
透はほっとしたように微笑み、目元を少し潤ませる。
「ありがとう、紬」
夜空には、静かに星が瞬き始めていた。
長い戦いを越えた二人の未来を、まるで祝福するように。




