第8話 そばにいる理由
インターホンの音で、紬は目を覚ました。
ぼんやりした頭のまま、布団の中で天井を見つめる。
(……人間じゃ、なくなる)
昨日の言葉が、まだ胸に残っていた。
もう一度インターフォンが鳴り、体を起こす。
「はーい」
母の声と、玄関の開く音がすると、
「紬!かっこいい先輩来てるわよ!早く準備しなさい!」
「……は!?」
母が勢いよく部屋に入って来て、一瞬で眠気が吹き飛ぶ。
慌ててベッドから飛び降り、鏡を見ると寝癖だらけで恥ずかしい。
「ちょ、ちょっと待って……!」
急いで髪を整えて、制服に着替える。
心臓がやけにうるさい。
(なんで来てるの……!?)
階段を駆け下りて玄関へ向かうと、
「おはよう、紬ちゃん」
そこにいたのは、いつも通りの穏やかな笑顔の透だった。
「……おはようございます……じゃなくて」
紬は息を整えながら、不思議そうに透をじっと見る。
「どうしてここにいるんですか」
透は少しだけ首を傾げて、
「迎えに来たよ」
と、やわらかく答えた。
「え」
「一緒に登校しようと思って」
まるで当然のことのように言う。
押しつける感じはないのに、断りづらい。
母は横で満足そうに頷いていた。
「いいじゃない紬〜。こんな優しい先輩、なかなかいないわよ?」
「お母さんは黙ってて!」
顔が熱くなる。
透はそんなやり取りを見て、少しだけ笑った。
「急に来ちゃってごめんね」
「……ほんとです」
「でも、どうしても顔見ておきたくて」
その一言に、紬は言葉を詰まらせる。
「……なんで、ですか」
小さく問いかけると、
透は少しだけ目を細めて、やさしく言った。
「紬ちゃんが、ちゃんと大丈夫か気になったから」
「……大丈夫です」
「うん、そう言うと思った」
否定されるでもなく、受け止められる。
その上で、
「だから、そばにいようと思った」
静かに続けられた言葉。
(……ずるい)
強く言い返せない。
家を出ると、透は自然に歩幅を合わせてきた。
少し距離を取ろうとすると、
「もう少しこっち来る?」
やわらかく言われる。
命令ではなく、お願いに近い。
でも結局、従ってしまう。
「……近くないですか」
「そう?」
「そうです」
「ごめんね。でも、このくらいが安心なんだ」
そんな事をさらっと言われ、紬はため息をついた。
「安心するの、透先輩じゃないですか」
「うん、そうだね」
「……否定してくださいよ」
「しないよ。心配だから」
その言い方が、あまりにも自然で。
紬はもう何も言えなくなる。
歩きながら、透がふと紬を見る。
「ちゃんと寝れてないでしょ」
「寝ました」
「少しだけ?」
「……少しだけ」
「やっぱり」
くすっと小さく笑うが、責める感じはまったくない。
「無理しないでね」
「してません」
「してる顔だよ」
「……そんな顔してます?」
「してる」
恥ずかしくなって、視線を逸らす。
その時ふと、背後に視線を感じた。
ぞわ、とした感覚がして、思わず振り返る。
「……?」
誰もいないが、でも確かに。
「紬ちゃん?どうしたの?」
「……今、誰かに見られてる気がして」
正直に言ってしまう。
透は一瞬だけ周囲に視線を走らせた。
その動きは、さりげないのに鋭い。
「……そっか」
すぐに、いつもの優しい表情に戻る。
「気のせいだといいね」
「……はい」
「でも、もし本当に何かあったら、すぐ言って」
その声はやっぱり穏やかで、でもどこか揺るがない。
「絶対に一人で抱え込まないでね」
「……」
「約束できる?」
やさしいのに、逃げ道がない。
紬は少し迷ってから、
「……努力します」
と答える。
すると透は、少し困ったように笑った。
「じゃあ、努力じゃなくて約束にしようか」
「……厳しいです」
「そうかな」
やわらかく首を傾げる。
「紬ちゃんが困ることは、したくないんだけど」
「じゃあこれやめてください」
「それはできないかな」
即答だった。
思わず吹き出しそうになる。
「なんでですか」
小さく笑いながら聞くと、
透は少しだけ視線を前に向け、
「そばにいるって決めたから」
と、静かに言った。
「……なんでそこまで」
紬の問いに、透は少しだけ考えるように間を置く。
そして、
「紬ちゃんを、放っておけないから」
と、やさしく答えた。
それは理由のようで、どこかまだ—全部じゃない気がした。
学校に着くと、
「また後でね」
と、透は自然に言う。
「……来なくていいです」
「うん、でも行くね」
笑顔で返される。
(絶対来るやつだ……)
放課後、昇降口にはやっぱり透がいた。
「お疲れさま、紬ちゃん」
「……お疲れさまです」
「帰ろうか」
当たり前のように隣に並ぶ。
その距離は、朝と同じ。
少し近くて、でも不思議と嫌じゃない。
「……透先輩」
「ん?」
「ずっとこうするつもりですか」
問いかけると、透は少しだけ笑った。
「紬ちゃんが大丈夫になるまでかな」
「……大丈夫って」
「ちゃんと安心して、笑えるようになるまで」
その言葉に、胸が少しだけ締めつけられる。
「……余計なお世話です」
小さく言うと、
「うん、それでもいいよ」
透は変わらず優しい。
(どうしてここまで……)
《夜叉》にとって自分は、“監視対象”だから?
「……透先輩」
「ん?」
「そばにいる理由って、なんですか」
立ち止まって問いただすと、透も足を止めてくれた。
少しだけ、驚いたような顔をしているが、でもすぐに、やわらかく笑い、
「さっき言ったよ」
「……?」
「放っておけないから」
本当にそれだけしか言わない。
いや、それ以上は言えないのかも知れない。
その言葉の奥に、何かが隠れている気がした。
日常は、穏やかに続いているように見えて。
でもその下で、確実に何かが動いている。
そのことを紬は、まだ知らない。




