第38話 君を離さない
冷たい風が全身を叩く。
視界がぐるぐると回転し、夜空と廃病院の壁が何度も入れ替わった。
落ちている。
その事実だけは、嫌というほど理解できた。
紬は焔月を握り締めたまま、小さく目を伏せる。
頭に浮かぶのは、たった一人だった。
透ーーー。
もっと一緒に居たかった。
もっと話したかった。
もっと――。
涙が頬を伝う。
「……透、先輩……」
震える声が夜に溶ける。
「……ごめんなさい……」
何に対しての謝罪なのか、自分でも分からなかった。
守れなかった約束か。
心配をかけてしまうことか。
それとも――もう会えないかもしれないことか。
紬はぎゅっと目を閉じた。
その瞬間、凄まじい爆音が響き渡る。
先に落ちたフェンスが地面へ激突した音だった。
土煙が舞い上がるけれど、
「……あれ?」
自分自身も落下した筈なのに、痛くない。
恐る恐る目を開けると、そこには、
見慣れた白い隊服の、今1番会いたかった人。
自分を抱きかかえる温かな腕。
「……透、先輩……?」
細フレームのメガネの奥、瞳が優しく細められる。
「紬ちゃん、遅くなってごめんね」
透が、自分をお姫様抱っこしてくれ、助かった。
紬は何だか、張り詰めていたものが一気に切れた気がした。
そして、震える手で透の隊服を掴む。
「良かった……」
声が震える。
「良かった……!」
涙が次々と零れ落ちた。
「透先輩が……無事で……っ」
ぎゅっと透に抱きつくと、
「良かったぁ……!」
透は目を見開いた。
自分が助かったことではなく、紬は透の心配をしていた。
胸の奥が熱くなるのを感じ、透はそっと紬の頭を撫でた。
「僕は大丈夫だよ」
その言葉に、紬はさらに泣き出してしまった。
透は紬の額へそっと口付け、そして顔を上げた。
視線の先の屋上には、一つになった白夜と漆黒が、此方を見ていた。
透の表情から笑みが消える。
「……僕の大事な人を痛みつけたのは」
静かな声だが、底知れない怒りが滲んでいた。
「誰かな?」
白夜の顔が引き攣り、透はゆっくりと二人を睨み付けた。
「もう、手加減しない」
その言葉に、空気が変わった。
紅蓮は思わず吹き出し、
「あーあ」
肩を竦める。
「だから言っただろ。お前ら、終わりだな」
透の圧に圧倒されて動けない、2人の白夜側の髪を掴む。
「なっ!?」
「これは俺からのプレゼントだ」
紅蓮は一つになった二人を、そのまま屋上から放り投げた。
「ぎゃああああああっ!?」
情けない悲鳴が夜空に響きながら、地面に激突した二人の周囲では、アスファルトが割れていた。
紅蓮は軽やかに飛び降りると、透の隣へ降り立つ。
「紬は車で待機させておく」
そう言って紬を受け取り、そして透の肩を叩く。
「……存分に暴れてくれよ、保護者さん」
透は小さく頷いた。
「任せて」
その後の戦いは、一方的だった。
白夜は震えながら叫ぶ。
「し、漆黒!どうしよ!?あいつ、おかしい!」
漆黒も状況を理解していた。
確実に、あの漆黒が焦っていた。
「わ、悪かったって!」
白夜は慌てて両手を上げる。
「人間ちゃんにはもう手を出さないからさ!」
透は首を横に振った。
「違う。謝るのは僕に、じゃないよね?」
白夜が固まってしまった。
「赫焉に教わらなかった?」
透は拳を握り締め、
「悪いと思ってるなら、本人に謝らないと」
そして、ゆっくり2人に近付く。
白夜と漆黒は動けなかった。
逃げられない。
本能がそう告げていた。
透は二人の胸ぐらを掴むと、
「……これは」
拳が振り抜かれる。
白夜側の頬に拳がめり込み、続けて漆黒側の頬にも拳が叩き込まれた。
「これは紬ちゃんを泣かせた分だ」
そのまま二人を地面へ叩き付けると、アスファルトが再びひび割れた。
透は冷たく見下ろすと、
「今度また紬ちゃんを泣かせるような事をしたら……タダじゃおかないよ」
と、白夜と漆黒は震え上がった。
「……赫焉にもそう伝えて」
その言葉を最後に、二人は完全に戦意を失った。
「し、漆黒!逃げよ!」
白夜が叫ぶが、
「赫焉様も許してくれるよ!」
漆黒は黙っていた。
やがて足元の影が揺れ、
「……行くぞ」
二人の身体は影へ沈み始める。
「覚えてろ!」
白夜の負け惜しみだけが響いた。
そして二人は、完全に姿を消してしまった。
静寂が戻り、今宵の戦いは終わりを告げる。
透は息を吐くと、突然走り出した。
真っ直ぐ、紬の元へ。
「透先――」
紬が呼ぶより早く、透に強く抱き締められる。
透の腕が震えていた。
「紬ちゃん……無事で良かった……」
透はさらに強く抱き締めた。
「君を失ったら……」
言葉が詰まって、苦しそうに告げる。
「僕は……」
続きは言えなかった。
考えたくもなかったから。
透は紬の頬へ手を添え、そっと引き寄せた。
唇が重なる。
優しいだけではない、確かめるような口付け。
もう離したくないと訴えるような口付けだった。
ようやく離れた透は、額を寄せる。
「……心臓に悪いよ」
苦笑する声は少し震えていた。
そしてもう一度、紬を抱き寄せる。
「もう離さないから」
紬は透の胸へ顔を埋めた。
「……はい」
小さく返事をする。
透の優しい鼓動が聞こえる。
生きているし、ちゃんとここにいる。
その事実が嬉しかった。
少し離れた場所で見ていた紅蓮は空を見上げる。
「……俺、帰っていいか?」
誰にも聞こえない愚痴だけが、夜風に流れていった。




