第35話 "ニセモノ"
夜の学校は、昼間とは別世界だった。
人気のない廊下に、消えた照明。
窓の外で揺れる木々の影が、床へ不気味に伸びている。
透は静かに校舎を歩いていた。
《夜叉》の隊服の裾が、微かに揺れる。
隣に紬はいない。
その事実が、胸の奥へ小さく引っ掛かっていた。
けれど透は足を止めない。
ここに、もう一人の片割れがいる。
なら、自分が行くしかない。
透は小さく息を吐いた。
脳裏に浮かぶのは、廃病院へ向かった紬の背中。
『ちゃんと帰ってきますから』
透は静かに目を閉じる。
「……帰ってきてね。僕も、すぐに戻るから」
小さく零れた本音は、静かな廊下へ溶けていった。
体育館の扉を開けると、冷たい空気が流れ出る。
広い空間は暗闇に沈んでいた。
月明かりだけが、床をぼんやり照らしている。
透はゆっくり体育館の中央へ進むと、高い場所から、靴音が響く。
透が静かに視線を上げた。
ステージの上に、1人の妖が立っていた。
黒い髪に、黒い着物。
白夜と酷似した顔。
けれど空気は真逆だった。
冷たく静かで、息苦しいほど感情がない。
黒の片割れは、ステージの上から透を見下ろしている。
まるで価値のない物を見るような目だった。
「……遅い」
低い声が落ちる。
怒りも苛立ちもない。
透は静かに刀の柄へ手を掛けた。
黒の片割れは、視線を動かさない。
「《夜叉》のリーダー」
感情のない声。
名前ですら、ただ呼んだだけに聞こえた。
体育館の空気がさらに冷え込む。
黒の妖はゆっくり瞬きをした。
「……まだ壊れてなかったか」
独り言みたいに呟く。
その声音には興味も感心もない。
ただ確認しているだけ。
「紬とかいう人間を守っている時は、もう少しだったのに」
透の瞳が僅かに揺れ、黒の妖はそれを見逃さなかった。
「人間は脆い。だから簡単に壊れる」
静かな声なのに、妙に耳へ残る。
黒の片割れは冷たい瞳のまま、透を見下ろす。
「……紬とかいう人間が、お前を脆くしている」
その名前を口にした瞬間、透の空気が変わった。
黒の片割れは無表情のまま、それを見ていた。
「やはり、か」
感情のない声だが、透の殺気だけで十分だった。
透にとって紬がどれほど大切か。
それを理解した声音だった。
黒の片割れは、透を見下ろしたまま静かに口元を歪めた。
その笑みだけが、不気味に浮かぶ。
「……罠だと思わなかったのか?」
感情の薄いその声が、体育館へ静かに響く。
透は表情を変えない。
刀の柄へ添えた手に、僅かに力を込めるだけ。
黒の片割れはそんな透を見ながら、ゆっくりとその場へしゃがみ込んだ。
黒い着物の裾が床へ広がり、白い指先が、体育館の冷たい床へ触れた。
床へ広がった黒い影が、不気味に蠢き始める。
透の目が細まった。
影はまるで泥みたいに波打ちながら、徐々に膨れ上がっていく。
腕、脚、頭。
ゆっくりと、人型を形成していく黒い塊。
体育館の空気が重く沈んだ。
やがて、完全に姿を成した“それ”を見た瞬間、透の瞳が僅かに揺れる。
白い隊服に、細い身体。
見慣れた綺麗な黒い髪。
"それ"は紬の姿をしていた。
けれど、影で作られたその姿は、どこか歪だった。
瞳には光がなく、表情もない。
まるで死体みたいに、ただそこへ立っている。
体育館の空気が、ぞっとするほど冷えた。
黒の片割れは、その様子を静かに見下ろしていた。
「お前は、人間に似た“これ”を斬れるか?」
透の指先が、僅かに強張った。
黒の片割れは感情のない瞳のまま、続ける。
「……せいぜい頑張るんだな」
次の瞬間、体育館の窓ガラスが派手に砕け散る。
黒の片割れはそのまま窓を突き破り、夜の闇へ消えていった。
冷たい風だけが吹き込む。
「っ……!」
最初から、自分をここへ足止めするつもりだった。
そして目の前には、紬そっくりの影。
透はすぐに耳の通信機に触れ、焦りを押し殺しながら、低く呼びかけた。
「紬ちゃん!」
雑音が響き、返事はない。
透の表情が険しくなる。
「紬ちゃん、聞こえる?返事して!」
その声には、隠し切れない焦りが滲んでいた。
通信機の向こうからは、ざりりーー、と嫌な雑音しか返ってこない。
透の眉間に深く皺が寄る。
「紬ちゃん!」
どれだけ呼んでも、返答はない。
その瞬間、透の中で嫌な予感が一気に膨れ上がった。
黒の片割れは、自分をここへ引き離した。
なら本命は――。
透は鋭く顔を上げる。
「……っ」
次の瞬間、すぐ別回線へ通信を繋いだ。
「透です!みんな、聞いて!」
低く鋭い声が、通信機越しに響く。
待機していた隊員達が息を呑む気配がした。
透は迷わず叫ぶ。
「今すぐ全員、廃病院へ向かってくれ!」
焦りを抑え切れていない声だった。
「紬ちゃんと紅蓮が危ない!!」
その言葉に、通信の向こうが一瞬ざわつく。
透は舌打ちした。
胸騒ぎが止まらない。
あの双子の目的は、紬。
別々に出現した意味が、今更分かってしまった。
「クソ……!」
透は目の前の“紬の影”を睨みつけた。
それは虚ろな瞳のまま、ゆっくり刀を構える。
透の胸が嫌な音を立てた。
けれど、ここを突破しなければ、紬の元へ行けない。
透が静かに刀を抜くと、銀色の刃が月光を反射した。
対する“紬”もまた、ゆっくり刀を持ち上げる。
見慣れた立ち姿だけど、そこにいつもの愛おしさはなかった。
体育館へ、冷たい沈黙が落ちる。
"紬"が、一気に床を蹴り、
「っ!」
透は咄嗟に刀で受け止める。
金属音が体育館へ響いた。
火花が散り、透の表情は険しいままだった。
"紬"は、間髪入れず再び斬り込んでくる。
本物の紬に似た動きだが、どこか違う。
冷たく、感情がない。
透は攻撃を受け流しながら距離を取る。
"紬"が、小さく口を開いた。
「……透先輩」
名前を呼ばれ、透の瞳が揺れる。
声まで似せていて、舌打ちしたくなるほど悪趣味だった。
"紬"は再び斬り掛かるが、透は避ける。
だが一瞬、反応が遅れた。
頬が浅く切れ、血が一筋流れた。
"紬"は、虚ろな瞳のまま透を見つめている。
透は静かに息を吐いた。
胸の奥がざわつく。
大切な人を斬れない恐怖。
けれど、透はゆっくり目を細める。
目の前の“紬”を見る。
そして、
「……違う」
ぽつりと呟いた。
"紬"が首を傾げる。
透は静かに刀を握り直した。
「紬ちゃんは、そんな目しない」
透の迷いは、吹っ切れたようだ。




