3話 あちら側の存在
目が覚めた瞬間、紬はしばらく天井を見つめていた。
いつもと同じはずの景色なのに、どこか遠い気がして。
(……夢じゃ、ない)
昨日のことを思い出す。
異形の妖に、助けてくれたあの鬼ーー紅蓮。
そして生きるための契約。
自分の手に現れた、あの赤い刀。
胸の奥が、じわりと熱を持ち、確かにそこに“何か”があるのを感じる。
それでも、時間は待ってくれない。
紬は重たい身体を起こし、制服に袖を通した。
いつも通り学校へ行く。
それが、まだ自分が“こっち側”にいる証明のような気がして。
通学路はいつも通りの、見慣れた景色に、友達の笑い声。
全部が、少しだけ遠く感じる。
(……戻れる、よね)
誰に聞かせるでもなく、そっと心の中で願った。
教室に入ると、いつもの楽しい空気があった。
「おはよー、紬!」
「おはよ」
ちゃんと笑えているかは分からないけれど、それでも友達には心配をかけられない。
席に座ると机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を見る。
平和過ぎて、何も起きていない。
昨日のことが嘘みたいに。
その時、
「紬ちゃん、居ますか?」
と、廊下から優しい声がかかった。
紬が顔を上げると、そこにいたのは、見覚えのある先輩だった。
眼鏡をかけた、穏やかな雰囲気の人。
確か、三年の――
「……透先輩」
「覚えててくれたんだ」
柔らかくて、どこか安心する笑顔だった。
雨宮 透は生徒会のメンバーで、困っている生徒会の人が居たらお手伝いをしていたので、自然と透とは仲良くなってしまった。
紬は透の所に行くと、
「顔色、あんまり良くないよ。ちゃんと寝れてる?」
「え、あー……ちょっと寝不足で」
と、曖昧に答える。
透はそれ以上は追及せず、軽く頷いた。
「そっか。無理しないでね」
まるで、お兄ちゃんみたいな言い方。
その一言だけで、不思議と心が軽くなる。
「体調悪い時は、ちゃんと休むのも大事だから」
「……はい」
自然と頷いていた。
こんな風に、普通に心配されることが、こんなにも安心できるなんて。
(……戻れるかも)
ふと、そう思ってしまう。
昨日のことなんて、なかったことにして。
このまま普通に――
その時だった。
『――甘いな』
低い声が、頭の奥に響いた。
「っ……!」
思わず顔を上げるが、誰もいない。
でも、この声は間違いない。
(紅蓮……)
心の中で名前を呼ぶ。
「何キョロキョロしてるの?」
透が不思議そうに首を傾げる。
「え、いや……なんでもないです」
慌てて誤魔化す。
透は少しだけ考えるような顔をしたが、やがていつもの笑顔に戻った。
「そっか。無理しないでね」
それだけ言って、教室を出ていく。
その背中を、紬はしばらく見つめていた。
(……優しい人だな)
ああいう人がいるだけで、少し救われる。
普通の世界に、まだ繋がっていられる気がする。
放課後になり、部活を終えて帰り道を歩く。
昨日と同じ時間、同じ道。
自然と足が止まり、昨日のあの路地の前で立ち尽くした。
(……何も、いないよね)
そっと覗いてみるが、暗いだけで何もない。
当たり前だ。
あんなものが毎日現れるわけがない。
少しだけ、安堵する。
「紬ちゃん」
背後から声がし、振り返ると
「……透先輩?」
そこに立っていたのは、昼間と同じ穏やかな笑顔の透だった。
「やっぱり、ここに来たね」
「え?」
言っている意味が分からない。
透は一歩、紬に近づいてくるが、柔らかい雰囲気のままだ。
けれど、どこか違う。
「昨日、この辺りで何かあったでしょ」
紬の心臓が、五月蝿い程高ぶっている。
「……な、何のことですか」
とっさに否定するが、透は困ったように笑った。
「隠さなくていいよ」
優しい声のままなのが、何より怖い。
「もう分かってるから」
あの安心できる雰囲気の奥に、別の何かがある。
「君――妖と契約したね」
「……っ」
紬の言葉が詰まる。
どうしてそれを、どうしてこの人が知っているのか。
透は小さく息を吐いた。
「本当は、こんなこと言いたくないんだけど」
何故か少しだけ、寂しそうに笑う。
「それ、危ないものなんだ」
透は紬にでを差し出し、
「まだ間に合う」
と優しい声で、引き戻そうとしてくれている。
拒む理由なんてないはずなのに。
「その力を使い続けたら、紬ちゃんは人間じゃいられなくなるよ」
否定したいのに、できない。
昨日感じた“何か”が、その言葉を裏付けているから。
「こっちに来て」
透の手が、すぐ目の前にある。
温かそうで、安心できそうで。
思わず、手を伸ばしかけた。
「やめとけ」
低い声が割り込み、空気が一変する。
「そいつは、妖の敵だ」
背後から紅蓮の声がして、振り返る。
そこに、彼が立っていた。
赤い瞳で、透を見据えている。
「……出てきたね」
紅蓮の姿を見ても、透の声は変わらない。
けれど、その目だけが鋭くなる。
「紬ちゃんを唆して、契約した妖か」
「人間のくせに、こんなとこで道草食ってんのか?」
「違うよ。紬ちゃんを取り返しに来たんだ。仕事だからね」
その言葉に、紬は違和感を覚える。
「仕事……?」
透は一瞬だけ紬を見ると、少し困ったように笑った。
「本当は、こんな形で知ってほしくなかったんだけど、僕は“討妖機関《夜叉》”の人間なんだ」
その言葉が、空気を凍らせる。
理解が追いつかない。
でも、本能が警告している。
この人は、ただの優しい先輩じゃない。
「紬ちゃん」
透はもう一度、手を差し出す。
その仕草は変わらず、どこまでも優しい。
「まだ戻れるよ」
「……っ」
紬は動けない。
紅蓮の存在にも、透の正体も、どちらも否定できない現実だった。
「その妖は危険だよ。僕は紬ちゃんを守るために言ってる」
「……守る、ねぇ。ずいぶん都合いいこと言うじゃねぇか。そいつらはな、妖を“全部”殺す為の組織なんだよ。だから、お前も俺も、例外じゃねぇ」
紬の心臓が、大きく跳ねた。
透の表情が、ほんのわずかに曇る。
だがすぐに、いつもの優しい顔に戻った。
「……否定はしないよ。でも、人々を守る為には、それが必要なんだ」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。
迷いがないからこそ、怖い。
紬は、二人を交互に見る。
透のような優しい人々が居る世界。
もう戻れないかもしれない世界。
だからこそ、今は選べない。
夕暮れが、ゆっくりと沈んでいく。
その境界で、紬は立ち尽くしていた。
自分がどちらの存在なのかも分からないまま。




