第22話 明日は我が身
この場所の夜は静かだった。
月明かりだけが、広大な屋敷を白く照らしている。
人間界から隔絶された妖の領域。
その中心に建つ屋敷は、息が詰まるほど静寂に包まれていた。
庭を眺めながら、赫焉は縁側へ腰掛けている。
深紅の髪に、整えられた逞しい角。
鋭く細められた赤い瞳が、威圧感を増している。
ただそこに存在しているだけで、空気そのものが支配されているようだった。
やがて襖がゆっくりと開き、
「ただいま戻りました、赫焉様」
宵は静かに跪いた。
「それで……?」
恭しく頭を垂れた宵は、
「紅蓮様の痕跡を確認いたしました」
と告げると、僅かに赫焉の瞳が細められる。
「現在、人間界に潜伏中です。……そして、人間の少女との接触を確認しております」
そう言って差し出したスマホ画面には、水族館で笑う紬の姿が映っていた。
その隣には透もいて、楽しそうに笑い合っている。
数秒の沈黙が走り、やがて赫焉は、興味なさそうに呟いた。
「……人間か」
宵はモノクルへ指先を添え、
「随分と大切にしているようでした」
と呟くと、赫焉の瞳が冷たく細められた。
「半妖風情が情を抱くなど、醜悪だな」
宵は何も言わず、ただ静かに跪いたまま、主の言葉を聞いていた。
赫焉は写真へ視線を落とし、紬の笑顔と透の穏やかな表情を見下すように見つめた。
そのどちらにも興味はない。
赫焉が見ているのは、紅蓮の弱点である紬の日常。
「宵」
「はい」
「その娘を監視しろ。必要であれば——壊せ」
宵はゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました」
夜風が吹き、深紅の着物がゆらりと揺れた。
こちらも、夜が静かに時を刻んでいた。
《夜叉》の施設では、深夜の廊下を、透は静かに歩いていた。
足音だけが響くが、何時もより足取りは軽く感じる。
重い冷たい扉を叩くと、
「入れ」
中から、玲の冷たい声が聞こえてきた。
透は静かに扉を開けると、部屋の中央に椅子に腰掛けた玲が、書類へ目を落としている。
透は無言のまま玲に近付き、一枚の紙を机へ置いた。
玲の視線が、それへ落ちる。
「……本気か」
「はい」
静寂が落ち、やがて玲は淡々と口を開いた。
「理由を聞いても?」
「……紬ちゃんを守りたいんです。《夜叉》にいる限り、あの子は傷つく。……だから」
「好きにしたらいい」
言葉を遮り、玲は透の言葉をこれ以上聞きたくないようだった。
玲は感情のない目で辞表を見つめ、
「だが、《夜叉》を抜けた瞬間から君は“外側”だ」
と、淡々とした声で伝える。
「監視対象になる」
空気が重く沈み、透は黙り込む。
「……それでも」
玲に負けずと、透のその瞳は揺れない。
「僕は紬ちゃんを守りたい」
透の静かな決意が気に入らなくなり、玲は書類を机へ放った。
「勝手にしろ。……だが覚えておけ、《夜叉》はもう君を放っておかない」
透は静かに頭を下げ、
「……今まで、お世話になりました」
と最後に一礼し、部屋を後にした。
扉が閉まった時だった、
「っ……!」
玲が苦しそうに胸元を押さえる。
呼吸が乱れ、心臓付近から、スーツの上からでも分かるくらい光る、黒い紋様が浮かび上がった。
「は……っ、ぁ……!」
服を掴む指先が震えると、頭の奥へ低い声が響いた。
『随分と自由に遊ばせたな』
それは赫焉のおぞましい声だった。
姿はないが、声だけが直接脳へ流れ込んでくる。
「……彼奴はもう、我々に必要ない」
黒い紋様の呪いが強く脈打った。
「っ、は……!」
玲が吐血するが、赫焉の声は淡々としている。
『あの半妖も、お前の駒も、いい働きをしてくれる』
玲は血に濡れた口元を拭い、睨むように床を見つめた。
『お前の核は、我が手の内にある事を忘れるな』




