第10話 甘さの後に
重い扉が、静かに開いた。
ひやりとした空気が流れ出てくる。
外とはまるで別の場所。
紬は、無意識に足を止めた。
「紬ちゃん」
隣から、安心するやわらかい透の声がする。
「大丈夫だよ」
透が静かに言う。
その言葉に、ほんの少しだけ息がしやすくなる。
(本当に……?)
その確信は、まだない。
「行くぞ」
紅蓮が短く言って、中へ進み、紬もその背中を追った。
それだけで、空気が変わる。
見えない何かに、包まれるような感覚。
(……見られてる)
はっきりと分かる。
奥へ進むほどに、その気配は濃くなっていった。
やがて、開けた空間に出る。
中央に椅子がぽつんとあり、その前に1人の女性が立っていた。
「……来たか」
低く落ち着いた声だが、その一言で、空気が支配される気がした。
自然と、紬の足が止まる。
「警戒しなくていい」
優しそうな表情なのに、背筋が冷える。
「初めまして。私が《夜叉》のリーダー、黒崎 玲だ」
誇示も威圧もないはずなのに圧がある。
「今日はただ、君たちをご招待しただけなんだ」
その言葉に、少しだけ空気が緩む。
……はずなのに。
(本当に、それだけ……?)
「せっかくだ」
玲が軽く手を叩くと、奥から人が現れ、静かにテーブルを用意していく。
皿が並びカップが置かれ、綺麗に盛り付けられたケーキが運ばれてきた。
「……え?」
思わず声が漏れる。
「お客様を立たせたままというのも、失礼だろう」
あくまで自然な口調。
そこにあるのは、敵意ではなく“もてなし”。
「どうぞ」
椅子を示される。
「毒は入っていないよ」
冗談のようで、冗談に聞こえない。
紬は一瞬迷うが、紅蓮が先に座った。
「……いただくか」
「ちょっと、紅蓮……!」
「毒なんて、そんな回りくどい事するわけねぇよ」
紅蓮は平然とした顔をし、紬はためらいながらも、席についた。
透は、少し離れた場所に立ったままだ。
その距離が、妙に気になる。
フォークを持つ手が、わずかに震えるが、1口食べてみる事にした。
大丈夫、ちゃんと甘い。
ちゃんと、美味しい。
「どうかな」
「……美味しいです」
「それは良かった」
普通に穏やかな時間が流れている。
まるで、普通のお茶会ような空気。
(…ずっと見られてる)
玲の視線が離れない。
仕草も、表情も、全部、見透かされてる気がした。
「紬さん」
名前を呼ばれ、無意識に顔を上げる。
「君は面白い」
「……何が、ですか」
「怯えているのに、逃げない」
完全に“観察”されているようだ。
「そういう人間は、嫌いじゃない」
ぞくり、と背筋が震える。
「透。連れて来てもらって、悪かったね」
名前を呼ばれた瞬間、透の空気が少し変わる。
透は一歩前に出た。
「…いいえ」
それだけ。
それ以上は何も言わない。
その距離がはっきりしている。
(…逆らえないよね…リーダーだもん)
透の疑いが、段々と形になっていく。
「今日はこれでおしまい。別に、獲って食おうとは思っていない」
リーダーが穏やかに言う。
でも、それが一番怖い。
「次は、もう少し話をしようじゃないか」
静かな宣告。
拒否権なんて、最初からない。
最後に、玲はわざとらしく、やわらかく微笑む。
「気をつけて帰るといい」
外に出た瞬間、空気が軽くなるのを感じ、紬は大きく息を吐いた。
「……はぁ」
「大丈夫?」
透の声は変わらず、やさしさがこもっている。
「……はい」
でも、胸のざわつきは消えない。
(何もされなかった)
でも——
(あれが“何もない”わけない)
完全に、見られていた。
測られていた。
値踏みされていた。
並んで歩きながら、紬は小さく視線を落とす。
(あの場所は、危険だ)
はっきりと分かる。
それでも——
(もう、関わってしまった)
引き返せない。
透は隣で、何も言わず歩いている。
近いはずなのに、少し遠い。
(透先輩は……)
信じていいのか、分からない。
その時背後から、声が落ちた。
「そうだ、紬さん」
ぴたりと、足が止まる。
振り返るとそこには、玲が立っていた。
気配なんて、なかったはずなのに。
「一つ、言い忘れていた」
やわらかく微笑む。
まるで、本当に些細なことを思い出したかのように。
「我々《夜叉》と、取引しないか?」
(……え?)
理解が追いつかない。
言葉の意味が、頭の中で遅れて広がる。
問い返そうとしたその瞬間、玲はくるりと背を向けた。
「返事はいつでも。また、美味しいケーキを用意しておくよ」
それだけ言って、施設の中へ消えていく。
残されたのは、いつの間にか夜になってしまった、静かな暗闇と、その言葉だけ。
「……」
紬は動けなかった。
胸の奥で、何かが大きく揺れる。
(取引……?)
その一言が、離れない。
理解も、整理もできないまま。
ただひとつだけ、はっきりしている。
もう、後戻りはできない。
――第1章 完――




