第6話
昼休みの廊下は、戦場だった。
部活勧誘。
新入生というだけで、あらゆる団体が「未来の戦力」を狙ってくる。チラシ。声。笑顔。通せんぼ。
入学して数日の浮ついた空気は落ち着き始め、廊下は部活勧誘の声で一気に賑やかになっていた。
「新入生くん! バスケ部どう!? 一緒に青春しよ!」
「こっちは軽音! 見学だけでも!」
「文芸部! 静かで最高だよ!」
静かで最高。
その言葉に、俺の背筋が条件反射で強張った。
廊下の壁際で、阿久津と佐々木と一緒にチラシの束を眺める。
チラシの色は派手なのに、俺の気持ちは地味に沈んでいく。
「で、凪人は何入るんだ?」
阿久津が、紙束をぱんぱんと揃えながら聞いた。
「んー……運動部に入ろうと思ってる」
自分でも意外なくらい、即答だった。
「お、意外。文化系じゃねえの?」
佐々木が眉を上げる。
「文化系は……ダメだ」
言葉が勝手に硬くなる。
「家にいる時間が増えると、死ぬ」
「何それ」
「大げさすぎ」
大げさじゃない。
俺は一瞬で、中学時代に引き戻されていた。
文芸部に入った。
幽霊部員じゃない。ちゃんと行ってはいた。
でも、部活が終われば家に帰る。帰れば、あの人がいる。
――暗黒の三年間。
部活で時間を持て余していたわけじゃない。
ただ、運動部みたいに“体力で疲れる”ことがなかった。
その結果、帰宅後の俺は「元気な状態」で家にいる。
そして、元気な俺は、姉の標的になる。
姉は言う。
『凪人、アイス買ってきた! 一緒に食べる! 選ばせてあげる、味は二択!』
『よし、散歩! 五分だけ!』
『コンビニ行くよ。荷物持って。弟ってそういう役目でしょ?』
思い出しただけで、胃がきゅっと縮む。
体を震わせたのは、春風じゃない。
「……運動部に入って、外で時間潰さないと。マジで」
俺の声が低くなる。
阿久津と佐々木が顔を見合わせて、笑った。
「うわ、出た。姉さんの話」
「凪人、あれで高校入ってから落ち着いたよな」
阿久津が、懐かしそうに言う。
「中学の時、お前さ。姉さんに振り回されて、いつも死んだ魚の目してたもんな」
「言うな」
「いや、マジで。『悟り開いた?』ってくらい反応薄かったし」
「開きたくて開いたわけじゃない」
佐々木が、さらに面白がるように乗ってくる。
「義姉だっけ? 梓沙さん。そこそこ美人なんだから、放っておけばいいのにな」
「放っておけるなら、放っておきたい」
「でもモテるんだろ?」
「知らねえよ」
知らない。
正確には、興味がない。
身内の恋愛事情なんて、なんで俺が気にしなきゃいけないんだ。
俺にとって姉は、ただの“騒がしい身内”だ。
美人だとかモテるとか、そういう外部評価は、俺の生活に何一つ役立たない。
「小学五年で家族になったんだっけ?」
阿久津が聞く。
「再婚だよな」
「そう。母さんが再婚して。四歳上の義姉が爆誕した」
語彙が荒れるのは、トラウマのせいだ。
「で、その瞬間にあいつは言った。『理想の弟が手に入った!』って」
「言いそう」
「怖」
笑いが起きる。
でも俺は笑えない。
梓沙は本当に、狂喜乱舞した。
弟ができたことが嬉しい、というレベルじゃない。
“弟という概念”を丸ごと手に入れたみたいなテンションだった。
俺は小学五年生だった。
逃げ方を知らなかった。
距離の取り方も知らなかった。
だから、構い倒された。
中学で俺が落ち着いたのは、成長じゃない。
防衛だ。
反応すると喜ばれる。喜ばれたら加速する。
なら、反応を消す。
そうやって身につけたのが、今の俺の「踏み込まない」「過剰に反応しない」だった。
――元凶、ここにあり。
チャイムが鳴って、昼休みが終わる。
俺たちは教室へ戻る。
授業は普通に進む。
ノートを取って、指名されないように祈って、ぼんやりする。
ただ、ふとした瞬間に、頭の隅に姉の存在がちらつく。
大学に進学して一人暮らしを始めた姉。
家は静かになった。俺は平穏を手に入れた――はずだ。
でも現実は、静かすぎる日がある。
両親は共働きで、帰宅はたいてい二十時過ぎ。
夕食を一人で食べることも多い。
テレビをつけても、部屋は広い。
静けさは、時々、空洞みたいに響く。
スマホには、姉からのメッセージが時折届く。
『今日のご飯なにー?』
『凪人、ちゃんと食べてる?』
『弟の生存確認させて』
どうでもいい。
どうでもいいはずなのに、既読をつけないまま放っておくと、妙に落ち着かない日もある。
――いや。
あいつがいなくて平穏なんだ。
あの心労が戻ってくるよりは、マシだ。
そう自分に言い聞かせて、帰り道を歩く。
夕方の空は、薄い青に少しだけ黄が混じっている。
季節は確実に進んでいて、街は春の匂いを消し去ろうとしている。
その時、急に“空白”が胸を刺した。
何か大事なことを忘れている。
言葉にできないのに、確かにある感覚。
俺は足を止めて、記憶の引き出しを探る。
昨日。
一昨日。
母さんの声。ドア越し。夜食。――
『GWにお姉ちゃん帰ってくるからね』
そこまで思い出したところで、脳が勝手に別の映像を上書きする。
図書室。九条さんの微笑み。
今日の部活勧誘。阿久津の笑い声。
姉の帰省という単語が、すっと溶けて消えた。
俺は歩き出しながら、結論を適当に落とした。
「……まあ、思い出せないってことは、大したことじゃないんだろう」
家に着く。
靴を脱いで、冷蔵庫を開けて、適当に何かを食べて、風呂に入って、寝る。
それが今日の予定だ。
スマホが震えた。
通知。
画面には、意味不明な一文。
『凪人! 卵が爆発した!!』
「……知らねえよ」
俺は画面を見たまま、返信せずにスマホをポケットへ放り込んだ。
見なかったことにする。
そうすれば、平穏は守られる。
守られる――はずだ。
「さて、飯食って寝るか」
呟いて、俺は台所へ向かった。
その頃。
俺の知らないところで、“平穏”という名の壁に、すでにひびが入っている。
五月の風は穏やかだ。
だけど、嵐はいつも、音もなく近づく。
そして最悪なことに、
その嵐は――笑顔で、家の鍵を持っている。




