第7話
図書室の夕方は、音が少ない。
あるのは、遠くの部活の掛け声が窓をすり抜けてくる気配と、閉館が近いことを知らせる時計の秒針くらいだ。
提出された返却本の山を片づけ終えて、台帳のチェックも済んだ。
委員の仕事としては、ひと区切り。
カウンターの内側に、椅子が二つ。
俺は、いつもの席に座った。
隣には九条玻璃。彼女も、いつものように背筋を伸ばして座っている。
最初の頃みたいな、針のむしろの空気はない。
かといって、距離が近すぎるわけでもない。
互いに「ここにいていい」と思える程度の間合いが、静かに成立していた。
……こういうの、悪くないな。
俺はページをめくりながら、ふとそう思う。
それがわかった瞬間、少しだけ気まずくなって、目線を本に落とした。
自分の中で勝手に評価が生まれるのは、面倒の始まりだ。
沈黙が続く。
でも今日は、その沈黙が“苦痛”じゃなくて“余白”になっていた。
しばらくして、俺は話題を探すように息を吸った。
たぶん、ここまで来たら、少しくらい世間話をしても大丈夫だ。
「……そういえばさ。部活の勧誘、始まったな」
九条さんの指先が、小さく止まる。
でも彼女は顔を上げて、ちゃんと聞く姿勢を作った。
「九条さんは、何か気になるのある?」
俺は、軽い調子を装った。
問いかける、というより、逃げ道を用意する感じで。
彼女は少し考えてから、視線を本に落としたまま答えた。
「……美術部が、少し気になってます」
「へえ」
意外ではない。
彼女の持ち物はどれも整っていて、ノートの字もきれいだ。美的感覚がある人の雰囲気が、なんとなくある。
「……でも、入るかどうかは、まだ」
言葉が、そこで一度詰まる。
「人混みが、その……」
最後は曖昧に消えた。
俺は「だろうな」と思って、深追いしない。
「まあ、勧誘って混むもんな。廊下、戦場だし」
「……はい」
返事は短い。
でも、短さが「拒否」ではなく「安心」に寄っているのがわかる。
そういう違いが、俺にもわかるようになってきたのが、ちょっと怖い。
俺はページをめくるふりをして、別の話題を探した。
視線が泳ぐ。
口を開きかけて――思い出した。
バターの香り。
紙袋。
焼き菓子の甘さ。
「あ、そうだ」
俺は、少しだけ声を低くした。変に目立たないように。
「あのお菓子、本当に美味しかった。ありがとう」
九条さんの肩が、ほんの少しだけ上がる。
褒められるのに慣れていない動き。
「……よかったです」
それだけ言って、視線を落とす。
俺は、あの日の朝の光景を思い出した。
予鈴ぎりぎりに駆け込んできた九条さん。
頬が赤くて、紙袋を抱えるみたいに持っていた。
「……あそこ、パンも人気で朝から混む店だろ?」
俺は、半分は当てずっぽうで言った。
駅前のデパートの菓子店って、だいたいそういうものな気がする。
九条さんは、少し間を置いて頷いた。
「……はい。開くの早いので……」
そこで彼女は、言いかけて止まった。
でも、逃げずに続ける。
「……あのお菓子は、その時に買いました」
その瞬間、俺の中で線が繋がった。
――遅刻。
九条さんが珍しく遅刻した朝。
あのとき持っていた紙袋。
つまり、彼女は。
「……え、並んでたから遅刻したの?」
俺の声が、少しだけ素に戻る。
九条さんは、ほんのわずかに頬を赤くした。
頷き方が、小さい。
「……はい」
消え入りそうな声。
「……すみません」
「いや、謝るとこじゃないけど……」
俺は頭を掻いた。
そして、思わず口にしてしまう。
「……そこまでしなくてよかったのに」
言った瞬間、やってしまったと思った。
評価に近い。踏み込みに近い。
彼女の「必死さ」を直に触ってしまった。
九条さんは驚いた顔をして、でも、すぐに目線を下げた。
拒絶じゃない。
むしろ、何かを覚悟するみたいな沈黙だった。
「……あの日」
九条さんが、ぽつりと言った。
声が、いつもより少しだけはっきりしている。
「あの日、お礼も言えなかったのに。次の日も何もしないまま顔を合わせるなんて……」
彼女は言葉を探すみたいに、一度息を吸う。
「人として、どうかしてると思ったんです」
俺は、息を止めた。
「……気まずくなるのが、怖くて」
九条さんは、そこでようやく顔を上げた。
目が合う。
逃げない目。
その言葉が、俺の胸の奥にすとんと落ちた瞬間――なぜか、笑いが出た。
「……ふふっ」
自分でも意味がわからない。
口元が勝手に緩んで、喉が鳴った。
九条さんが、明らかに困惑する。
「……何か、おかしいですか?」
警戒じゃない。
不審、というより、不安に近い。
俺は慌てて首を振った。
笑ったのが悪い、と思った。
「いや、違う。九条さんがおかしいとかじゃなくて……」
俺は言葉を選んで、でも、選び切れなくて、結局正直に言った。
「実は俺も、あの日助けたのは善意だけじゃないんだ」
九条さんの目が、少しだけ見開かれる。
俺は続けた。
「助けずにさ。次の日の委員会で、九条さんと気まずい顔して隣に座るのが嫌で」
自分で言っていて、情けなくなる。
「……それが嫌で、体が動いただけなんだよ」
言い終えると、図書室の静けさが一段深くなった。
――引かれたかもしれない。
そう思って、俺は目線を本に落とした。
逃げるみたいにページを触る。
でも、その指が少し震えているのがわかった。
九条さんは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと息を吐いて、言った。
「……そうだったんですね」
声が、柔らかい。
責める温度がない。
「でも……」
彼女は、少しだけ口元を緩めた。
「それでも、実際に行動できるんですから」
まっすぐに、言う。
「……やっぱり、櫟くんは凄いです」
心臓が、変な跳ね方をした。
ストレートすぎて、逃げ道がない。
「いや、凄くないって」
俺は反射で否定する。
こういう褒め方は、照れるとかいうレベルじゃなくて、居場所がなくなる。
九条さんが、ふと身を乗り出した。
距離が、机一枚分のまま、気配だけが近づく。
「……櫟くん」
俺の名前が呼ばれるだけで、喉が乾く。
「耳、赤くなってますよ」
「えっ!?」
俺は両耳を押さえた。
鏡はない。でも、指先が触れる皮膚が熱い。
血が集まっているのが、自分でもわかる。
「……うわ、最悪。そうなら、なおさら恥ずかしい……!」
俺は慌てて視線を逸らし、話題を探すように辺りを見る。
本棚。窓。台帳。返却台。
逃げ場がない。
そして――。
九条さんが、「くすっ」と声を漏らした。
小さな音。
でも、それは確かに笑い声だった。
さらにもう一度。
「くすくす」と、抑えきれないみたいに。
俺は固まった。
九条玻璃が、笑っている。
それも、愛想笑いじゃない。
からかう笑いでもない。
楽しそうな笑い。
彼女は口元を押さえたけれど、目が笑っている。
肩が小さく揺れている。
「……すみません」
謝っているのに、全然申し訳なさそうじゃない。
「櫟くんが、そんなに慌てるなんて……」
「いや、慌てるだろ」
俺は反論したつもりだった。
でも声が弱い。
弱い声のまま、彼女の笑い声が耳に入ってくる。
頭が、真っ白になった。
恥ずかしさと、
その声の心地よさと、
「初めて見るものを見てしまった」みたいな感覚が、いっぺんに押し寄せた。
うまく処理できなくて、俺はただ黙る。
図書室の静けさの中で、九条さんの笑い声だけが、ふわっと残る。
その時、救いの鐘みたいに最終チャイムが鳴った。
乾いた音が、図書室に響く。
閉館の合図。
下校の合図。
俺は勢いよく立ち上がった。
逃げるように。
「あ、チャイム鳴ったな! 帰ろうか!」
自分でもわかるくらい不自然なテンションだった。
九条さんは、まだ笑いの余韻を残した顔で、頷いた。
「ふふ、そうですね。帰りましょうか」
その「ふふ」が、さっきの続きみたいで、また耳が熱くなる。
カウンターを片づけて、椅子を戻して、電気を消す。
作業はいつも通り。
でも、胸の奥がいつも通りじゃない。
廊下に出ると、夕方の空気が冷えていた。
週末前の、少しだけ浮ついた匂いがする。
「じゃあ……また来週」
九条さんが言う。
「ああ、またな」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
九条さんは会釈した。
笑みが、まだ残っている。
土日。
学校はない。図書室もない。
たった二日なのに、少しだけ長く感じる。
寂しい、という言葉は違う。
でも、今日のことを反芻したいような、
反芻してしまうのが怖いような。
そんな曖昧な気持ちを抱えたまま、俺は歩き出した。
⸻
九条玻璃は、その背中を見送る。
見送ってから、ひとりになった廊下で、小さく息を吐いた。
気まずさが怖い。
怖いから、先に動いた。
先に並んで、先に用意して、先に言葉を作った。
そして今日。
鏡合わせみたいに、同じ理由を口にした人がいた。
「気まずくなりたくない」――それは弱さだ。
でも、その弱さが、今の自分を救っている。
玻璃は口元を押さえた。
さっきの笑い声の余韻が、まだ胸の内側に残っている。
土日。
少しだけ寂しい。
でも、寂しさは怖くない。
来週、また図書室で。
あの静けさがあって、言葉が少しだけ交わせるなら。
それだけで十分だ――と思える自分が、少し不思議だった




