第5話
深夜。
俺の部屋は、スマホの画面より少しだけ落ち着く明るさ――デスクライトの白で満たされていた。
机の上には、借りた本。
九条玻璃から受け取った、あの限定カバーの一冊。
最初は「とりあえず」だった。
読み始めたのは、ただの暇つぶしのはずだった。
なのに。
ページをめくる手が止まらない。
登場人物の言葉の端っこ、何気ない仕草、部屋の描写の一行。
そこらじゅうに、薄い針みたいな違和感が刺さっている。
――これ、絶対後で回収されるやつだ。
そう確信した瞬間、もう終わりだった。
気づけば俺は、伏線探しという名の罠に、綺麗に落ちている。
ドアの向こうから、母親の声がした。
「凪人ー。夜食、食べる?」
少し間が空いて、続けて。
「……あ、あとね。GWにお姉ちゃん帰ってくるからね」
「んー……あー、わかった」
返事はした。
したはずなのに、意識の半分はまだ本の中にいる。
母さんの言葉が、壁に当たって薄く跳ね返っていくのがわかる。
ページの数字が、百五十を越えた。
違和感が増える。
でも、増え方が雑じゃない。むしろ丁寧で、計算されていて、腹が立つほど気持ちいい。
そして、二〇〇ページを少し越えたあたり。
――落ちた。
どんでん返し。
いや、派手な爆発じゃない。
散りばめられていた針が、一斉に糸になって結び直される感覚。
「あの言葉」が、ここに繋がる。
「この描写」が、こういう意味だった。
違和感が全部、きれいに回収されて、世界が“正しい形”に戻っていく。
息を吐くのも忘れて、最後の一行まで走り切った。
ぱたん、と本を閉じる。
手のひらに残る紙の温度が、妙に現実っぽい。
時計を見る。
深夜。
「……やば。明日眠いな」
俺は急いでライトを落として、布団に潜り込んだ。
目を閉じても、まだ頭の中で物語が動いている。
でも、眠るしかない。
――明日は普通の日だ。
そう言い聞かせて、俺は沈んだ。
⸻
朝。
眠い。普通に眠い。
いつもより重いまぶたをこすりながら、制服に袖を通して登校する。
昨日の本の爽快感は、まだ胸の奥に残っているのに、表に出すほどの元気はない。
教室では、相変わらずの日常が続いていた。
授業。休み時間。小声の噂話。笑い声。
「昨日のソシャゲ、ガチャで爆死したんだけど」
佐々木が机に突っ伏す。
「ざまあ。俺は当てた」
阿久津が勝ち誇る。
「お前それ、今言う必要ある?」
「ある」
俺も混ざって笑う。
昨夜の本の世界は、まだ俺だけの秘密みたいだった。
誰かに言えばいいのに、言わない。
言ってしまうと、特別になってしまう気がするから。
そして放課後。
図書委員。
今日は遅れずに図書室へ向かった。
扉を開けると、いつもの匂い。紙と木と、遠くの静けさ。
カウンターの内側。
九条玻璃が、いつもの席に座っている。
俺は軽く会釈して、隣に座った。
「……こんにちは」
彼女の声は小さいが、消えそうではない。
昨日より、少しだけ形になっている。
「おう。……えっと」
俺は鞄から本を出した。
それを彼女の前に、そっと差し出す。
「これ、読み終わった。ありがとう」
九条さんの目が、ぱっと開く。
「えっ、もう……?」
驚きがそのまま声になる。
次の瞬間、彼女は少しだけ困ったように笑った。
「……そういえば、少し短めでしたね」
「短めって言ってもさ。密度がすごかった」
俺は、眠気を忘れて言葉が出た。
「最後がすごかった。作者の執念を感じるくらいの伏線回収で……なんか、感動した」
言い終わってから、ちょっと恥ずかしくなる。
俺、こんなに熱く語るタイプじゃない。
なのに口が止まらないのは、たぶん昨夜の余熱のせいだ。
でも、九条さんは引かなかった。
むしろ、嬉しそうに目を細めた。
「……よかったです」
その言葉が、少しだけ弾んで聞こえる。
彼女は本を受け取り、本の端を指で撫でた。
大事に扱う癖が、そこに出る。
しばらくして、九条さんが小さく首を傾げた。
「……櫟くんは、ミステリーがお好きなんですか?」
好き、というほどでもない。
そう答えるのがいつもの俺の逃げ方だ。
でも今日は、なんとなく、逃げるのがもったいなかった。
「……うん。初めて読んだ小説がミステリーで、それが面白くてハマったんだ」
「初めて、というと……」
九条さんの目が、まっすぐこっちを向く。
問う、というより、聞いていいか確かめるみたいな目。
俺は少しだけ考えて、迷わず答えた。
「『オリエント急行の殺人』」
九条さんの表情が、ふっと柔らかくなる。
「あ……名作ですよね」
声に、確かな熱が混じった。
「私も、あの結末には驚きました。……ずっと、答えを当てたいって思って読んでいたのに」
「わかる。あれは、ずるい」
「……ずるいです」
小さく笑う声が、図書室の静寂の中でほどけた。
俺も、つられて口元が緩む。
その瞬間、俺はふと気づく。
――俺たち、普通に会話してる。
教室では、九条玻璃は“氷の女王”だ。
誰も近づかず、誰も踏み込まず、彼女は壁を作っている。
なのに、ここでは違う。
柔らかい表情で、趣味の話をしている。
なんで、クラスではあんなに鉄壁なんだろう。
そう聞きたくなる。
でも、それは立ち入りすぎだ。
この図書室の静けさは、彼女が守っている場所だ。
俺が踏み込んだら、壊れる。
俺は疑問を飲み込んで、作業に戻った。
返却台の整理。
棚戻し。
台帳。
言葉は多くない。
でも、静寂はもう、ただの無言じゃない。
閉館が近い頃、スマホが震えた。
画面には、阿久津からのメッセージ。
『これからラーメン行かね?』
俺は親の帰りが遅いことを思い出す。
今日は大丈夫だ。
『いいよ、行く』
返信して、スマホをしまう。
九条さんに視線を向ける。
少し迷ってから、言った。
「ごめん、予定できたから先に行くわ。……本、本当にありがとう」
九条さんは一瞬だけ目を伏せて、それから小さく頷いた。
「……はい。また、明日」
そして、控えめに手を振る。
その動きは、まだ慣れていない。
でも、確かに“自分から”出た動きだった。
「また明日」
俺も同じ言葉を返して、図書室を出た。
廊下の空気が、急に現実っぽくなる。
友達とラーメン。いつもの日常。いつものノリ。
でも背中のどこかに、まだ図書室の静けさが貼り付いていた。
⸻
扉の向こう。
カウンターの内側で、九条玻璃は凪人の背中を静かに見送った。
名作ミステリーよりも深く、
結末よりも気になるものが、心の中に増えている。
櫟凪人。
境界線の手前で止まってくれる人。
でも、話しかけたら返してくれる人。
玻璃は本を抱え直して、目を閉じた。
さっき交わした会話の断片が、ページの余白みたいに胸に残る。
そして、その余白が――少しだけ、温かかった。




