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「申し訳ありませんが、あまり、店内でお話にならないようにお願いします。他のお客様からのお申し出がありまして……」
店長が言った。丁寧な言い方だったが、申し訳なく思ってない顔つきだ。
見ると、店内はそれほど大きくはないが、5人くらいの客、全員が僕たちに白い眼を向けていた。
席をひとつ空けたから、少し声が大きくなったかもしれない。飛沫が飛んでくるのを心配しているのだろう。
そう思って、僕らは謝った。
「もう出ようか」
背中に刺さる白い眼が気になって、僕たちは店を出た。
ホームへと歩き、ベンチを探す。電車はまだ動いていない。曇天からはひっきりなしに雨が降り注ぎ、レールの摩擦係数を下げ続けている。
老人が駅員にクレームを言っていた。駅員はペコペコと頭を下げながら「人身事故なので」と謝っている。
なかなか、空いているベンチはない。しょうがないから、ホームの黄色い線の所で、待つことにした。つま先に水しぶきが飛んでくる。
「どうしようか?」
「コロナのこと?」
今日のデートの事を聞いたけれど、彼女の中では、まだコロナの話が途中だったらしい。
向かいのホームから、女子高生やサラリーマンが、僕らを見て話しているような気がした。
僕らの背後かと思って、後ろを見ても、特におかしな所はない。
気にしないことにする。
「コロナはもういいよ。ところでさ、この間、歯医者に行ったら、ガラガラでさ、珍しく、待ち時間がほとんどなくてね、ほんと楽だったよ」
「普通のクリニックや、診療所、病院も患者さんが減って、赤字のところが増えてるみたいね」
「外出しづらいし、みんなコロナの心配してるしね、って、また戻ってる!」
僕がツッコミを入れると、彼女は笑った。
「医療崩壊はどうなったのかしらね。一時期、ごく一部の医療機関だけパンクしそうになって、それ以外の多くが、患者さんが減って苦しむなんて」
「しょうがないよ、誰もコロナが流行るなんて、思ってもみなかったんだから」
彼女は、また「ふう」とため息をついた。
「何言ってるのよ、五年以上前から、致死率が2%を超える感染症が流行ったら、ほとんどの都道府県で医療体制が崩壊するって、言われていたのよ。この時、想定されていたのは、鳥インフルエンザだけど、これの致死率は51%、これもサイトカインストームを引き起こす」
「そうなんだ」
彼女は「そうなのよ」とプンプンした。
「そもそも、コロナが出始めの頃は、医療崩壊を防ぐため、だなんて言っていたのに、最近だと、多くの人が、感染者をひとりも出さないように、感染を拡大しないようにって、言っているのを聞くと、気が狂ったんじゃないかと思うわ」
「それは言い過ぎじゃない?」
「いいえ、感染は拡大すべきなのよ! 医療崩壊しないように、計画的にデザインして、重症化するリスクがある人を保護した上で、今のうちに、抗体を持つ人を増やしておかないと、大変なことになるわ」
彼女は力説する。たぶん研究室の教授に影響されているのだろう。
電車が復旧したアナウンスが流れる。人がホームに流れてくる。
ふと近くの自動販売機を見ると、その横で、中学生くらいの男子が、僕らにスマホを向けていた。
何しているのだろうと思った。
「この間、公共放送の世論調査を聞いた時、悪意を感じたわ」
「なんだい?」
「感染拡大防止と、経済活動のどちらに重点をおくべきだと思うか、ですって、馬鹿じゃないかしら」
まあ、それは分かる気がする。これは二項対立でも何でもない。論理的に言えば、感染拡大防止するべきか、しないべきか、あるいは、経済活動に重点を置くべきか、置かないべきか、とするのが正しい。
一歩譲っても、感染による社会的人的被害を少なくするべきか、そうすべきでないか、だろう。そうすれば、被害を最小限にするために、経済活動をしない訳にはいかない。
お金の流れは、人間にとっての血液の流れだ。止めることは出来ない。止めたら社会が死ぬ。その中で暮らす人々が死ぬ。失業者は200万人に近づいている。家族を含め、数えきれない人たちが収入を失った。どうやって生きていけばよいのだろう。
「感染拡大防止と、どちらかといえば感染拡大防止が合わせて67%、経済活動と、どちらかといえば経済活動が合わせて25%ですって」
「世論誘導かもしれないね」
「何が、かもしれないよ。男らしくない」
僕は「悪かったね」と言いながら、スマホの時計を見た。メールがたくさん届いていた。デート中は、お互いにマナーモードにしているから気づかなかった。
彼女に背を向けて確認すると、友人からで、SNSが大変なことになっているらしい。
急いで開いて見ると、彼女が、感染を拡大するべきだと言っている動画が炎上していた。住所氏名が暴かれて、何万、何十万もの非難が殺到している。
僕は冷や汗をかきながら、すばやくスマホの上で指を滑らせる。
彼女が、すでに感染していて、大勢にうつそうとしている、というデマもあった。
「感染を拡大させるな、正義のために、こいつを殺せ」と言うような、背筋が凍り付くようなツイートもあった。その「いいね」が万を超えている。
僕は、急いで、彼女を連れて、この場を離れようと思った。
顔を上げて振り返る。
いつの間にか、周りには大勢の人が並んでいた。碁盤の目のように、綺麗に間を空けて立っている。
僕の前を人が通り過ぎる。
彼女が見えなくなった、次の瞬間、彼女は大きくよろけていた。
その向こう。誰かの立ち去る後ろ姿。どこかで見たキャラクターのTシャツ。
音を立てて、ホームに通過の電車が入ってくる。雨は糸のように光り輝き、スローモーションのように、ゆっくりと時間が流れた。
彼女は恐怖した表情で、白線の外側に吸い込まれていく。
僕は手を伸ばした。足は鉛のように重い。
彼女も手を伸ばす。
彼女の手を掴んだ!
そう思った瞬間、自分の身体が、誰かに突き押された。
僕たちは手をつなぎ、ゆっくりと一緒に倒れ……
電車は猛スピードで走り抜ける。
遠くから、「ソーシャルディスタンス!」と叫ぶ声が聞こえた……