Ⅳ 邪神たちの脈動
「ああ、よくやったよ。大陸復興委員会の初陣は輝かしい成功によって飾られた」
「ですが殿下。我々は旅団の略奪者どもを取り逃しました。これは軍を預かる私の責任。いかなる処罰も甘んじて受ける覚悟でございます」
「いやヴォイニッチ。我々の目的はカルタゴに巣食う虫の排除。それだけだ。別に虫がどこに行こうと、拠点を失った奴らは滅びの道しかない。胸を張るのだ」
スキピオ作戦が終了し、ヴォイニッチはその全てを主である第一皇子、クローヴィス・アルベールに長距離通信を介して報告した。
作戦は確かに主たる目的は達せられ、帝国が要らぬ疑いをかけられることを回避したが、大陸を蝕む問題の根を取り払うまでには至らず、弱体化したと言ってもリーディア旅団の脅威は残る。
その事で、決して小さくはない被害を出した大陸復興委員会軍部は収まる事のない歯痒さを覚え、この帰還を凱旋とは思えずにいた。
「ヴォイニッチよ。確かにリーディア旅団は厄介で有あるが、我々の進む道の中では些事に過ぎない。我々は小うるさい蠅を相手にしている余裕は無いのだ。君にはこの様な事より対局を見て欲しいのだよ」
クローヴィスの真なる敵はあまりに巨大。それと比すればリーディア旅団は確かに塵のようなものだ。それはクローヴィスに言われずとも、ヴォイニッチも理解していた。
彼は恐れていた。次期皇帝となるお方でも、巨人が小人の持つ針のような剣に倒れるように、些事によってその全てを失うのではないかと―――
「私には重すぎる言葉です殿下。私はただ報恩の為、殿下の御心のままに」
「お前の働きに期待しているぞ」
恐れをそのまま口にするのはクローヴィスに対する侮りであると考え、ヴォイニッチはそれ以上口にせず主君との通信を終えた。
そして、クローヴィスは通信を終えると、自室の窓から見える月を眺め、顔をしかめて「またこの日が来た」と小さく呟いた。
時は十月十二日。クローヴィスにとって運命の人に出会った特別な日であり、クレスト教の祭事では神子が御言葉を与える日。だが、その日だけはクローヴィスをこの上なく不快にさせる。
「アレは役に立っているようだな。
未開人には過ぎた玩具だが、まぁ、それを眺めるのも一興。
次はどう楽しませてくれるのかしら?
ねぇ? アルベールの子孫よ」
クローヴィスが愛の全てを捧げる少女。だがその少女はこの一日だけは、彼の愛した少女ではなくなる。
「にしても未開人共の文明ごっこはいつ見ても飽きない。
そうね。まるで身に余るおもちゃを与えられた子供の様だわ」
姿こそ可憐なる少女だが、まるで一人で複数人分の会話をしているように、スカーレットは表情を言葉の度に変えながら喋る。
「あまりしゃべらないでくれ。スカーレットの可憐さが穢れるだろう」
愛するものの不快な姿に、クローヴィスは冷徹に、そして静かに恫喝した。
だが、スカーレットはそれを不気味な笑いで返し、蔑む表情で窓の前の彼を見つめた。
「穢れるとは恐れ入ったな。
口を酸っぱくして言っているが、スカーレットという女は副であり、我々が主なのだ。こいつは我々を隠し、守るための人工的人格に過ぎないんだよ。
はぁ、呆れる。未開人の血は記憶力にも支障をきたすのか」
少女の中にいる何かは自分達を“我々”と称した。一人の少女の体の中に複数人の人格が共存しているのだ。
そして彼らは言う。自分たちがこの世界における神であると。
「神か…… 神というのはこんなにも下劣なものなのか」
「下劣か。下劣とは何か?
神が上品である必要はない。生命とはすべからくエゴに忠実であり、下劣なのだから。
お前もそうだろう? お前は自分のエゴの為に国を動かそうとしている。国民にその腹の内を隠し、いばらの道を進ませるのは下劣ではないのか?」
「これは私だけではない。クレストやお前たちに支配された人々の願いなのだ」
クローヴィスは怒りに我を失い、思わずスカーレットの肩を掴み、声を荒げて叫んだ。
「クローヴィス様。痛いです……」
そして少女が放った言葉に正気を取り戻すと、罪悪感に満ちた顔でその手を離した。
「なんてね。男と言うのはこれだから。
いや、愛する女の声で正気を取り戻すのは文学におけるロマンの一つだろう。
ふふふ。それはファンタジーの世界の話でしょう?」
神を自称する者達は、一部自覚し、一部無自覚にクローヴィスの感情を逆撫でる。そして、興味のなくなった玩具を捨てるようにクローヴィスを一瞥も無く通り過ぎ、窓から月を眺めた。
「ファンタジーか。これも覚めぬ夢なのか。
待てど待てど来るのはいつも紛いものか」
月に語る神たちの言葉は先までのものと違い哀愁に満ちていた。
「私達とお前は主たる利益で一致している。
だからこそ、わしらは奴をお前に導いたのだ。
故に十分に活用し、己が覇道を進め。
これが神子の御言葉だ。心身に刻み付けよ」
そしてまた表情を変えると、クローヴィスに一方的に言葉をぶつけ、少女は気を失ってその場に倒れた。
「スカーレット……」
寝室に敷かれた赤い絨毯の上に子猫のように寝息を立てる少女の姿に、クローヴィスは安心して彼女の額を撫でた。
そして、彼女を抱きかかえると、起こさないようにゆっくりと歩み、その体をベッドに横たえた。
「この一日だけ彼女は神の名を騙った怪物になる。しかし、それ以外では聡明で愛らしい少女なのだ」
クローヴィスは彼女の中にある痛みも、自分が背負う覚悟でいた。それは彼女を傍に置くために自分がした事の対価であると考えていたからだ。
クローヴィスとスカーレットは禁忌を犯し、クレストの信仰を冒した。
それは三年前。今日と同じ十月十二日。戦争で多忙を極める皇帝に代わって第一皇子クローヴィスが神子による御言葉を頂いた時。彼は禁じられた恋に落ちた。一目惚れだ。彼の目に映ったクレスト教の生きる神体の姿は、あまりに美しく、気高く、そして儚かった。
戦争という異臭のたちこめた黒い沼の中にいた国の皇子の心はたった一度しか会った事が無く、会話もした事がない少女で埋め尽くされ、不思議な輝きを放った。
だが、その輝きは信仰深く、聡明な皇子を危険な道に走らせた。彼にあったのはただ“その少女に会いたい”という純粋な恋心であったのだ。
神子は神と人を繋ぐためのご神体。人の目に触れるようなことは無く、御言葉の日を除いてはクレスト教の総本山たるカノッサ大聖堂、その尖塔の頂上に他の秘匿と共に封じられていた。
尖塔には50人存在するクレスト教上級司祭が学徒として巡回しており、侵入する事は困難を極めていた。
しかし恋は盲目。聡明なはずの皇子はその危険や困難を一片も考えなかった。そして様々な偶然が重なり、誰一人の目に触れる事無く搭最上部へと到達してしまった。
「お待ちしておりました。王子様」
ご神体の少女が皇子に発した最初の言葉。彼女の寝床には暇つぶしの為の「古代の物語」を記した本が散乱しており、彼女はその一つ『髪長姫』に強く影響されていた。自分の境遇を登場人物ラプンツェルに重ねていたのである。
「神子様……私は……」
「存じております。貴方様は私の王子様…… 暗い暗い海底から、貴方のお姿を見ました」
惹かれていたのは皇子だけでは無かった。神子もまた十月十二日に人格の蠢きに圧し潰されながらも、垣間見えた一人の青年の姿が心に焼き付いていた。少女もまた恋に落ちていたのだ。
「さぁ、私を連れ出して下さい王子様」
髪長姫においてラプンツェルが塔から放たれる経緯は極めて情欲的だ。だが、彼女は物語通りの道筋より、愛する人との自由を求めていた。
「ああ。いきましょう」
そして皇子は引き返す事の出来ない一歩を踏み出してしまった。彼がした事は教会への反逆であり、世界秩序への挑戦でもあった。
だが、恋淡き二人にその自覚は無い。彼らは愛の媚薬と、物語の登場人物になったような高揚で自分たちが置かれている立場を理解できない。
「あっ」
深紅の絨毯に沿い、二人は塔の下へ上級司祭の目を盗みながら進んでいた。しかし幸運の泉は突然として枯渇する。二人はあと一歩のところでとうとう上級司祭の目に触れてしまったのだ。
上級司祭の証たる金刺繍のローブから見えるその男の表情からは喜怒哀楽を伺う事が出来ず、それも相まって二人に恐怖を与えていた。
そして、上級司祭の腕が少しずつ伸び、二人は“終わり”を確信した。
だが、伸ばされた腕は彼らに触れることは無かった。それどころか、司祭の男は出口へと向かう通路を指し示していたのだ。
「…………」
二人は礼など言わなかった。ただ言葉も無く、震えながら男が指し示した方向へと進んでいった。
「…………」
そして二人の姿が見えなくなるまで、男は二人を見守ると何事も無かったかのように歩き始める。
二人は一人の男の“見逃し”によって難を逃れ、神子はスカーレットと名乗り、皇子は彼女を隠した。神子の見た目を知る者は各国の王族とクレスト教の上層部のみであり、それ故に行いの大胆さに比してあまりに容易に事は運ぶと、皇子は彼女をクレスト教の研究者として助言させるまでに至った。
もちろん、皇子は極力彼女を人目に触れぬよう努めており、帝国国内においても、彼女の存在を知るのは彼に近い人間だけであった。
だがそれは時間稼ぎにしかならない。その事は二人も重々承知していた。秘密というものは一滴漏れだすとそこから亀裂が入り、早々に止められない濁流になる。そしてその一滴の中に、自分たちを見逃した男がいた。
後にスカーレットが薄い自分の記憶を辿り、男が“変わり者の上級司祭”と周囲から揶揄されていたアレクセイ・フォリオである事を思い出し、彼がクレスト教から指名手配された事で、二人は自分達を守るための行動を開始する。
「まずはこの戦争を終わらせる。そして……」
月に照らされた皇子の瞳には決意の炎が不気味に揺らいでいた。




