ⅩⅤ 錯綜の都 Ⅲ
「自由で不自由? 全く理解が出来ないですね。そんな事より早く解放してくれませんか? 私たちはあなた方と遊んでいる暇なんて無いのです」
薄暗い倉庫内でリナは義手の男に臆することなく、堂々と解放を求めた。だが、彼らはリナたちを解放するつもりなど毛頭なく、彼女の訴えを嗤いながら聞いていた。
「いやいや。中々豪胆なお嬢さんだ。それとも自分の置かれている立場が分からないのかな」
男は義手を撫でながら二人に近づくと、リナの顔を舐めるように見つめた。そして、その視点は首を通り、身体へと向けられる。
「まあ、いいでしょう。“人”というしがらみから解放されるのを記念して、あなた方に我らが哲学をお教えしようか。
人というのは、倫理、宗教、そして教訓。あらゆるものに自らを縛り、敢えて自由を放棄しているのです。そして、それに殉じている事を自由だと勘違いしている。だから、我々があなた方を真の自由へと導いて差し上げているのです。
特に軍人、貴族は皆、魂の解放に涙していましたよ」
勿論、男はそのような考えで人さらいをやっているわけではない。もっともらしい詭弁を垂れ流しても、所詮、人身売買のビジネスとしか捉えていないのだ。
「さて、“自由を勘違い”などと仰っていますが、どちらが勘違いしているのでしょうね。まぁ、時代錯誤の蛮族集団には分からないでしょうけど」
リナは周りからの嘲笑を受けながらも、なお気丈に男を煽った。
「減らず口の減らない女だ。
だが、こういう奴が好みの顧客もいるしいいだろう。
そっちの震えているお坊ちゃんみたいな奴を好む者もいるし、なんと素晴らしい商売か」
リナと対照的に恐怖に震え、目の焦点が定まらないコックスに男は目を向けると、その様子に満足した様な不気味な笑みを浮かべた。
「リゼドール隊長。船の準備が整いました」
一人のリーディア旅団員が倉庫の鈍重な扉を開き、義手の男にそう告げた。どうやら、水路に停泊している小舟を出す準備が整ったらしい。
「よし。後はメインディッシュの商品が到着するのを待つだけだな」
「メインディッシュ?」
リゼドールと呼ばれた義手の男。彼が嬉しそうに喋った「メインディッシュ」という言葉をリナは疑問符を付けて返した。
「ん? 決まっているだろう。はるばるマレーティアまでやってきた世間知らずなお姫様だよ。アレは帝国で高く買ってくれるだろう」
「ふふふ。さて、そううまくいきますかね?」
鎖を鳴らしながら、リナは堂々とリゼドールを笑った。
「煩い女だ。もしエイプリル様だったら容赦なく鞭がとんでいただろう」
そう言うと、唾を吐き捨てリゼドールは数人の部下を連れて倉庫から出て行った。商品を保管する倉庫はここ一つではなく、他の倉庫に保管されている商品の様子を見に行ったのだ。
「…………何故大尉は冷静でいられるんですか? このままでは俺たち……」
リーディア旅団が去った後、震えた声でコックスはリナに気丈さの理由を問うた。
「何故って? 簡単な事です。私達は奴らの思い通りにならない。売られる事無く、生きてリーリシアに帰還できるからです」
そう言い放ったリナの表情からは、虚勢や嘘を感じ取る事が出来ない。彼女は心の底からそう信じていたのだ。だが、現実は暗い倉庫の中、首輪と手枷、足枷で自由を封じられ、希望の光など見える状況ではなかった。
「誰も助けになんて来ませんよ。ここは敵国。仲間にはまともな武器もない」
座り込み、腕に架された錆び臭い鉄輪を見ながら、コックスは絶望する。そこにはイグニスを煽った時の威勢は全くなかった。
「あの方が私をこのままにしておくはずがありません」
「あの方? まさかあの禁忌っ ……失礼。特尉殿の事を仰っているのですか?
お言葉ですが大尉。あの男は来ませんよ。我々の任務は姫の護衛。仮に奴が我々を救助できる状況だったとしても、任務遂行の為に我々を見殺しにするはずだ」
この状況下ではコックスの考えの方が的を射ていた。
「いえ、きっと来ます。あの方はそういうお方ですから」
だが、リナは希望を捨てない。彼女は自分がイグニスを見捨てる事が出来ない様に、彼も自分を見捨てる事が出来ないと信じていた。
「なぜ人をそこまで信じられる!! 所詮人間が信奉するのは地位や肩書だけだ!! 故あれば人は簡単に他者を排除する。俺を排除したように……」
まるで神を信奉するようにイグニスを待つリナの態度に、コックスは苛立ち、自分の過去を吐露する。親が失脚した途端、仲間と信じていた者達が自分を嘲り、姦計を以って特務遊撃部隊に異動させられた事を、嗚咽を交え、話始めたのだ。
コックスが暴力的で危険な人物であるという話は真実ではなく、彼を貶める為に広められた虚偽であったのだ。
だが、リナは彼の過去に同情しつつも、イグニスを侮辱する事で、自分より下位の存在を作り、満足しようという彼の器の小ささを見抜いていた。それ故に、同情はするが、助けようという気にはなれなかったのだ。
(軍曹の不幸の昇華の仕方も面倒極まるが、イグニス様のそれも甚だ面倒だ)
権威ある立場と約束された未来を追われた者という意味で、イグニスとコックスは似ていた。だが、その後に取った行動は全く異なり、コックスは自分より不幸なものを嗤う事で、自分を慰め、イグニスは勝手に自分の不幸を罪と断じ、より自分を貶めようとする。それは、リナからすれば、内容は違うが、双方迷惑で非建設的な自己満足でしかなかった。
「クソ…… 何故俺がこんな目に……」
コックスの瞼のダムは決壊した。大粒の雫で汚れた地面を濡らしながら、彼は恨み言を呟くしか出来ない。リナは伏せるコックスに憐みの目を向けると、静かに目を閉じた。
「船の中にはいないみたいです!! やっぱり帰ってきていないみたい……」
イグニスの指示を受け、船中を探し回ったジョウルクは悲しそうな表情でそう報告した。イグニス本人も船着き場に着いた途端、周囲の建物や地下水道などを見て回っており、顔を赤くしながらその報告に落胆した。二人がリーディア旅団の魔の手に落ちたと考える他なかったのだ。
「もういいだろう。さっさと出発するべきだ」
不安に飲まれている二人に、隊員の一人が無情な言葉をかける。
リナを隊長として信頼する者、そして彼女を心配する者はイグニスとジョウルクを含めた元から第三特務遊撃部隊にいた者のみで、任務直前に入隊した者達にとっては彼女の事などどうでも良かった。
「もはや、アレを使うしかない。
ふふ…… 結局俺は過去に助けを乞う事になるのか」
イグニスにはこの状況を打開し、リーディア旅団に囚われている仲間を救出する術があった。だが、それは過去と決別した自分を否定する行為であり、躊躇いがあった。
「姫様に頼んでみる。ジョウルク。一緒に来てくれ」
「はい!!」
アリス姫は敢えて船に乗らず、アリエルと共に死した男についてマレーティアの役人に説明し、男の身柄の確認と事件の調査に動いてほしいと要請していた。
しかし、役人は消極的で、ただ「この件を口外しない様に」と逆に姫に懇願する始末で、彼女をイラつかせていた。
「アリス姫様。どうかお願いがございます」
役人に食い掛るアリス姫の後方で、イグニスはそう叫ぶと、膝をついた。本来であれば彼女と役人の話が終わるまで待つのが礼儀だが、彼にはその様な余裕などなかった。それに、アリスとしても、役人との平行線の会話に飽き飽きしており、イグニスの不躾な介入はむしろ有難かった。
「ラッシュフォード特尉。いかがしました?」
役人との交渉をアリエルに任せると、アリスはイグニスの元に寄り、顔を上げさせた。
「はっ! どうか私めに、第三特務遊撃部隊長リナ・バランシュ大尉の捜索に赴かせて頂きたいのです。姫様の護衛という任に就きながら、このような事が許されぬ事は承知しております。いかなる罰も受けます故、どうか」
イグニスの必死な姿にアリエル姫は嫉妬した。彼にとって、リナ・バランシュという女はどんな苦しみに代えても守らなくてはならない存在であるという事を嫌でも知ってしまった。
「よろしいでしょう。ですが」
「ですが?」
だが、アリスはイグニスの願いを拒否しない。イグニスに酷い女だと思われたくないというのもあったが、彼女はこの機会を自分の目的のために利用しようと考えたのだ。
「軍規における罰を回避するために、貴方には私の要求を飲んでいただきます」
「姫様の手を煩わすわけには参りません。私はいかなる罰も受ける覚悟でございます」
イグニスの自己犠牲の様な態度に不快感を受けながらも、アリスは彼の言葉を馬耳東風にし、要求の内容を言う。
「貴方には私と騎士の契約を結んで頂きますわ。王族との騎士の関係は軍規を凌駕し、いかなる罰則をも阻却する」
『騎士契約』それは既に廃れた慣習のような物であった。だが、それにかかる法規は今も王国に存在しており、確かな効力はあった。
アリスはクローヴィスとの会談の後から、イグニスを騎士にする事を決めており、運命のいたずらのように彼を無理やりにでも騎士にする機会が回ってきた事を内心喜んだ。
「騎士ですか!! いけません姫様。私は!!」
「法規にインフェクテッドを騎士に指名してはいけないなどと書かれておりませんわ」
「アリエル殿。そう! アリエル殿こそが騎士にふさわしいかと!!」
「法規上では軍人のみが騎士になり得ます。アリエルは我が侍女であり、騎士にはなれませんわ」
イグニスの見苦しい言い訳を一つずつ潰し、アリスは彼に圧力を加える。
「特尉はバランシュ大尉を救いたくないのですか?」
イグニスにとってリナが大切な女性だと知っていての、とどめの言葉。この言葉に流石のイグニスもしばし沈黙し、そして、アリスの要求を受け入れる言葉を返した。
「決まりですね。時間も無く、ここには契約の剣も無いですし、儀礼は略式でいきましょう。
アリエル。剣を渡しなさい」
イグニスが騎士の任命を受諾したのを聞くと、高揚を胸に秘めて冷静にそう言い、アリエルから運転手を脅した刃渡り十センチほどのナイフを受け取った。
「汝イグニス・ラッシュフォード。王家の守護たる騎士として、高貴な血を守護し…… ああ堅苦しいですわ。とりあえず、貴方を私の騎士とします。さぁ、誓いの口づけを――」
そう言うと、契約に用いられる剣の半分もないナイフをアリスは差し出した。イグニスは短い剣先に届くよう、身体を立てると、白銀の剣に口を当てた。
「では騎士イグニス・ラッシュフォード。リーリシア王国第三王女アリス・ミリア・リーリシアが命ず。王国の臣民を害したリーディア旅団なる蛮族に誅罰を下し、朋友を救え!!」
「はっ!!」
契約の剣を託されたイグニスは頭を地に着け、姫への忠を示すと、船着き場にある木製のポールを切りつけ、ジョウルクを伴って船着き場を出発した。
(俺は……いや、私に彼らは従ってくれるだろうか)
向かう先は船着き場から望める最も高い場所――クレストの教会だ。
そこで、俺は彼らと交渉する。いや、交渉ではないな。こちらには何の手土産も無い。これはお願いだ。
誰もいない月明かりだけの暗がりで、イグニスとジョウルクは器用に建物の屋根へと飛び、目的地である教会に飛び移ると、外から登っていく。そして、最上部にある鐘の舌に手を当てて待ち人が来るのを静かに待った。
「これはこれは、イグニス様。お久しゅうございます。この様な場所でお目にかかれるとは」
どこからか不気味な女の声が聞こえる。だが、イグニスにとってその声は懐かしく、心休まる声であった。
「アインス。久しいな」
イグニスが女の名を口にすると、黒いローブを纏った何者かが夜の暗闇より、月明かりの元に姿を見せた。
「はい。イグニス様もジョウルク様もお元気そうで」
安定しない屋根の上である事を忘れるように、アインスは平然と二人の元へ歩み寄ると、深々と頭を下げた。
「畏まらないでくれ、もう俺はロイゼン王家の人間ではない。だが、一つ頼みを聞いてほしいのだ」
ロイゼン王家の持つ暗殺部隊『氷の剣』。その中心が彼女アインスであり、王家に忠を誓う僕であった。リナとコックスを救うために、イグニスが考えた最良の手段は『氷の剣』に協力してもらう事であったが、今の彼の立場で彼らが動いてくれるかは分からない。
「頼みですか…… なるほど港に付けられた印はイグニス様が付けられたのですね」
船着き場のポールに付けられた傷は、『氷の剣』とロイゼン兄妹だけが分かる秘密の暗号だった。イグニスはここに来る前に、『召集報告』を意味する印を残していたのだ。
その甲斐もあって、イグニスはアインスとの再会を果たす事が出来たわけであるが、ここは異国の地。その様な場所に彼らがいるのは、ロイゼン王、或いはシルフィー姫の命令で重要な任を受けているという事はイグニスも分かっていて、自分がやろうとしている事は任務の邪魔に他ならない事を理解している。だが、今頼れるのは彼らしかいない。
「お願いだ……」
そう何度も言っては頭を下げ、必死に懇願するイグニスと真似をするように頭を低くするジョウルクの姿に、アインスは競うように彼らより低く頭を下げた。
「イグニス様! どうかお止め下さい。
我々はレオンバルト王国やロイゼン家ではなく、カトリーヌ様。そして、その後継者に忠誠を誓う者であります。故に、私はいかなることがあろうと、イグニス様の僕でございます」
彼女の言葉は、事実上シルフィー姫一人が彼らを動かしている事を暗に意味していたが、イグニスは敢えてそれを無視した。彼にとって最も重要な事は二人の救出であり、彼らがその為に働いてくれるかどうかが重要であった。
「そう言ってくれると助かる。
実は王国軍の仲間がリーディア旅団によって拐かされた。我々の力だけでは彼らを救えないのだ。だからどうか君たち『氷の剣』の力を貸してほしい」
「リーディア旅団……」
顎に指を当て、世界に暗躍する武装した人さらい集団の名を口にするアインスの顔を、イグニスとジョウルクは静かに見つめた。
「確かに、セイレンに彼らが入っているとの情報はありました」
「ああ、奴らは人が少ないこの機会に下劣な商売をしている。せめて奴らが何処を拠点しているか分かれば……」
イグニスは怒りで歯を噛みしめ、握った拳を震えさせた。その姿はまるで檻に入れられた獣のようで、解放したら目的に向かって突っ走りそうだ。
「分かりました。奴らの拠点を調べます。
ですが、我々にできる事はこれだけ。後はご自分の手で幕を下ろして下さい」
「ありがたい。それだけしてもらったら大助かりだ」
イグニスの感謝の言葉を聞くと、アインスはローブの内ポケットから小さな笛を取り出した。そして、それにリズムをつけて数回息を吹き込む。
音色は無く、ただ、犬笛のように空気が金属の短い筒を通る音だけが聞こえる。それは特殊な訓練を受けた『氷の剣』だけが聞く事の出来る音であり、モールス信号のように音の長短を点ける事でメッセージを送っているのだ。
「…………セントキア通りとファルキア通りの交差点を北に行くと、レイヌ川と海を結ぶ水路があります。
そして、水路の中間より少し東に、現在使われていない帝国への物資を一時保管する為の倉庫群。仲間の情報では、そこが彼らの拠点の様です」
アインスの説明を聞きながら、ジョウルクはスカートのポケットから地図を取り出して指先でなぞり、そして倉庫群と思しき場所で指を止めた。
「イグニス様!! ここです!!」
イグニスが地図を覗き込むと、ジョウルクの指はさほど遠くない、ここから倉庫の屋根が見える場所を指していた。
「ありがとうアイン……」
活路を開いてくれた恩人に改めて感謝の意を伝えようと、イグニスは地図から目を離したが、恩人の姿はどこにもなく、美しい星空だけが彼の目前に広がっていた。
「よし。行こうか」
「はい!!」
心の中でアインスへの感謝の言葉を述べると、イグニスは教会から見える倉庫の屋根を睨みつけた。そして、獣のようにお供を引き連れ、狩場へと疾走する。
その頃、倉庫群を我が物顔で占拠するリーディア旅団たちにざわめきが広がっていた。わいろで懐柔した役人から、アリス姫捕獲失敗と、王国軍に自分たちの存在が知られてしまった事が報告されたのだ。
「ったくツイてないな。折角の大物だったっていうのに……
まぁ、失敗は失敗だ。さっさと荷物をまとめてずらかるか。
全員、撤退の準備をしろ」
リゼドールは後ろ髪を引かれた様な表情で部下たちに撤退命令を下した。王国軍に出国ルートを感知される前に、商品を乗せた運搬船を出す必要があり、時間との勝負だった。
「外が騒がしいですね…… もしかして助けが!!」
重い扉の先で、人の騒ぎ声が響いている事にコックスは希望に満ちた笑顔を浮かべた。だが、その中に鞭を打つ音や叫び声が混じっている事に気付くと、途端に絶望の形相へ変わる。
「捕まった人々を移動させているみたいですね」
リナは聞こえてくる音から冷静に状況を分析する。そして、二人の元にもジャラジャラという不愉快な鎖の音が近づいてきた。
「お待たせ子猫ちゃんたち。お前たちが一番高値で取引されそうだから、俺が直々に連れて行ってやる。誇りに思えよ」
扉が開いて現れたのは、義手の男リゼドール。彼は二人に近づくと、手にした鎖を首輪と手枷に繋いだ。そして、嬉しそうな顔で二人を立たせる。
「おとなしくしておけよ。そうすれば綺麗な体で御主人様の元に届けてやる」
腰に付けた細剣を見せびらかし、リゼドールは繋いだ鎖を引いた。その力に無気力になったコックスは抗う事無く従ったが、リナは立ったままその場で堪え、最後の抵抗を見せた。
「行動と同じように、言葉も下品ですね。全く、あなたの育ちが透けて見えるようです」
「ああっ!? お前自分の立場が分かっていっているのか?」
リナの挑発にリゼドールは眉間に皺を作って、憤る。そして彼女に近づくと、その整った顔を睨みつけた。
「ふぅん…… まぁ、少しは痛めつけてもいいだろう。図に乗った家畜には躾が必要だからな」
そう言うと、リゼドールは下卑た顔で自由を奪われたリナの黒髪を触り、次いで頬に左手を這わす。
「た、大尉……」
コックスは上官が汚い手で触れられているにも拘らず、自分が何の行動も出来ない事に自己嫌悪していた。
「ふふふいい目だ。ダークレオンバルトとかいうレオンバルト人特有の黒い瞳か。
さて、ここを触ってもお前はそのすまし顔でいられるかな?」
頬を撫でるリゼドールの左手は、さらに下に伸び、首を介してリナの胸へと至ろうとしていた。
“ぎゃあああああ!!!!”
指先が彼女の胸部へと至らんとしたその時。倉庫の外から断末魔の叫びが聞こえた。そして、それは一つではなく、幾度と繰り返され、苦しみの声を通す倉庫の入口は地獄の門の様であった。
「何だ? 何が起こっている?」
異常な事態に、リナから手を離したリゼドールはそう叫ぶと、倉庫入口へ振り返る。
だが、もうすでに音はない。際程まで聞こえていた人の命が失われる音は止み、不気味な静寂がそこにあった。
「おい! 一体どうしたというんだ!? 誰か返事をしろ!!」
仲間に応答を求めたが、空しくリゼドールの声だけが響く。
そして、額の汗を袖で拭うとリゼドールはゆっくりと闇夜に向かって足を進めた。
「ひっ!!」
その瞬間、彼の足元にスイカほどの丸い物体が転がってきた。その正体が分かると、彼は顔を引きつらせ、声にならない声をあげて尻もちをついた。
スイカのような物体は切断されたリーディア旅団員の頭部だった。一瞬で絶命したのだろう。その顔に苦しみは無く、まるで蝋人形のように無表情に虚空を見つめていた。
「…………」
誰もがその状況に声を出せない。リゼドールとコックスは怯え、リナは月を見つめる狼のように、倉庫の外にある闇を見つめていた。
“キィーン……”
そして、更に恐怖を煽るかのように、倉庫の壁を金属でする音が聞こえると、この地を地獄へと変えた者の姿が三人の瞳に映った。
リーリシア王国の軍服。漆黒の髪と瞳。血濡れたナイフ。更に不気味な事に彼の得物は血に濡れているにも関わらず、彼の軍服には一滴の血もついていなかった。
「イグニス様。お待ち申し上げておりました」
リナはそう言うと、現れた男の前で膝を折った。
「イグニス? ラッシュフォード特尉?」
待ち望んだ救助にも関わらず、コックスの瞳には恐怖が浮かんでいた。今のイグニスは怒りに支配され、その表情からは感情を感じられない。まるで人を斬る機械のようにコックスには見えた。
「大尉……ここが当たりでしたか。さて、その男はリーディア旅団の人間か? なら斬らなくてはいけないな」
殺した団員から剥ぎ取った布でナイフの血を拭くと、冷たい表情でイグニスはリゼドールを見下ろす。
「させるかよ!!」
強烈な殺意に晒され、生存本能に駆り立てられたのか、リゼドールは地面を転がってイグニスから離れると、腰に付けた細剣を引き抜き、鉄の拳に握る。
「仲間を殺ってくれたようだな。だが、ここまでだ。お前には代償を払ってもらうぞ」
水を得た魚のように覇気を取り戻し、リゼドールは剣を構えた。
イグニスの得物は刃渡りの短いナイフ。誰の目から見てもリゼドールが有利だった。
「ほう珍しい。ミルドレッド貴族に伝わる構えか」
武器の差など気にせず、イグニスはリゼドールの取った構えを分析し、自分の母親の祖国、ミルドレッドのものであると見抜いた。
「へぇ、よくわかったな。嬉しいぜ。だが、残念だ。お前はここで終わりっ」
言葉の終わりにリゼドールは突進し、細剣をイグニスに突き立てる。だが、イグニスは身体を捻らせてそれを躱すと、ナイフでリゼドールの太ももを裂いた。
「ぐっ」
(なんだコイツ!! 動きが速すぎる!!)
自分の“突く”という一つの行動に対し、“避ける”“裂く”“後退する”の三行動をとったイグニスにリゼドールは戦慄する。
「すごい……」
始めてイグニスの戦いを見たコックスは彼の剣捌きに感動し、思わず声を漏らす。先ほどまで恐怖に支配されたコックスの心は、知らぬ間に芸術を目の当たりにした様な歓喜に包まれていた。
「ふん。そんな武器で大したものだ。だがなぁ!! 男の価値はブツの長さで決まるんだよ!!」
だが、まだ戦いはリゼドールが有利。槍のように細剣で突く事に終始する、武器のリーチを最大限に生かした戦術に彼は移行した。
「なるほど、正しい行動だ」
リゼドールの臆病な戦い方に対し、イグニスはそう言うと、全ての突きをナイフで払って避ける。だが、先と違い、リゼドールの体にダメージを与える隙を見つけられない。
「お前の負けだぁ!! はやく串刺しになりやがれ!!」
勝利を確信し、リゼドールの刺突は勢いを増していく。
それに対し、イグニスは速度を上げる彼の攻撃に順応し、表情を変える事無く、今まで通りに細剣を払って猛攻を凌いだ。
(なぜ俺の攻撃が当たらねぇ。このままじゃ、俺の体力が……)
リゼドールはイグニスに反撃の機会を与えず、攻勢を維持しているが、運動量の差は歴然であり、動きが鈍ったところで形勢を逆転される可能性があった。
(汗の一滴も流していねぇ…… こいつバケモノか!!)
動くたびに髪先から汗の飛沫が飛び散り、リゼドールの体力も限界に近づいていた。もし動きを鈍らせれば、反撃の機会を許し、勝利の女神はそっぽを向くことになる。だから彼は膠着状態を脱し、勝負に出る必要があった。
(次の一撃で決める!!)
勝敗を賭けた渾身の一突きに、義手の剣士は残った力を込める。
だが、その攻撃は金属同士が接触する高い音と共に弾かれた。
「まだまだぁ!! これで終わりよぉ!!」
リゼドールは初めから攻撃が弾かれる事を想定し、二段構えの横振り攻撃に派生させた。突然『突』から『斬』へ攻撃の属性を変える事で、相手の混乱を誘ったのだ。
「……剣技はまぁまぁ」
リゼドールの会心の一撃は、金属が悲鳴を上げるような音を伴った。一閃は弾かれる事無く、振り切る事が出来たことに、リゼドールは勝利の笑みを浮かべた。
「だけど、観察眼は落第点」
「え?」
一閃し、真二つにしたはずの男の胴は繋がっていた。それどころか、彼の体には一切のダメージは無く、まるで戦いなんてなかったかのような状態だ。
「どうなってやがる…… はっ!!」
剣の半分あたりから先が無くなっている愛剣の無残な姿を見て、リゼドールはやっと状況を把握した。彼の剣は一閃を防がれた際に破壊されていたのだ。
「ミルドレッドの剣技の淵源は二刀だ。長く、重い細剣では取り回しが悪い為、受け流し用の短剣を用いていた。だが、時代は進み、剣による戦いが廃れると、剣技は成金貴族の箔押しや娯楽と変わっていった。その結果、短剣の存在は忘れられ、ミルドレッドでは戦いの為ではなく、見世物としての剣技が残ったのです」
「お前……何を言って……」
「分からないのか? 君が握っていた剣は戦闘用のものでは無い。児戯や鑑賞の為の見栄えだけの剣だ。だから簡単に折れた」
「なっ!!」
「ミルドレッドの民主化革命で排除された元低級貴族という所か。全く落ちぶれたものだ」
イグニスの目は最初から彼の武器に集中していた。母の国の珍しい武器への好奇心もあったが、歴史の堆積に埋もれた剣が今なお残っているのかという疑問があった。
最初の構えの際、リゼドールが受け流し用の短剣を装備していなかった事から、イグニスは彼を“お遊びの剣士”と断定し、細剣も古い戦闘用のものでは無く、観賞用の剣だと看破していた。
「俺は低級貴族なんかじゃない!! れっきとした王家の……」
折れた剣を離すと、リゼドールは狼狽しイグニスから距離を取るために後退する。
「では、散ってもらおう」
殺意を放ち、イグニスはナイフを持ち直すと、敗者に死を与える為に悠然と歩みだした。
「くっ、仕方ねぇ!!!」
だが、リゼドールには奥の手があった。
彼は右腕の義手の中指を折ると、イグニスにそれを向けて生身の左腕を添えた。そして、イグニスが攻撃の姿勢に入る前に、義手は大きな音と共に火薬のにおいと黒い煙を発生させた。
「くっ……」
イグニスは義手の正体を看破すると、転がるように回避行動をとる。その判断は正しく、もし、回避が遅れていたら彼の体に鉛の弾が撃ちこまれていただろう。
「剣士の端くれとしてこれは使いたくなかったんだがな。まぁ、最初からこうしておけばよかったぜ」
リゼドールの義手は銃が内蔵されたオルタリアの特別製だった。銃として使う場合、腕としての機能は失われ、ピンと伸びた中指が銃口となる。
「形勢逆転だな。お前の言う通り剣の時代は終わった。今はこれよ」
そう言うと、リゼドールは二発目の弾丸を放つ。
だが、距離が近すぎた。撃った瞬間には既にイグニスに懐に入られ、彼は手にしたナイフで斬りかかろうとしていた。
「させるかぁ!!」
イグニスの鋭い斬撃を、義手を盾に間一髪で弾き、リゼドールは距離を取る。
(もし生身の腕だったら今頃切断されていたぜ)
だが、リゼドールは危機的状況を脱せていない。近距離において銃は不利で、狙いをつけている間に接近されてしまう。それを何とかしようと距離を取ろうとするが、敵はそれを許さない。
(クッソ!! 何だコイツ!! まるで親ガモから離れない子ガモみてぇだ。
こうなりゃやけだ!! 一発くらい当たれや!!)
恐怖がリゼドールを支配し、彼は銃の乱射という選択をとった。
ターゲットのない弾丸は倉庫の壁や、中身のない木箱を破壊し、イグニスには向かわないが、暴力的な弾幕により接近も容易ではない。
だが、その一つの弾丸が、彼にとって自分に向かうより耐え難い方向へと直進する。向かう先は後方で繋がれたコックスの体。逃げる事すら叶わない彼は、死の鉛を受け入れる他なかった。
「ぐわぁっ!!! くっ……」
しかし、鉛を受けたのはコックスではなく、イグニスであった。
火薬のにおいを放つ弾丸は彼の右肩に直撃し、骨を裂き、肉を砕きながら体内に潜入していた。
「イグニスさまああああ!!!」
その状況に、イグニスの勝利を確信して静観していたリナが声を張り上げ、鎖を引きずって肩から血を流す彼の元へ駆け寄る。
「大丈夫だ…… コックス軍曹は無事か……」
「何故だ!! なぜお前は俺を!!」
「良かった…… 無事か……」
痛みに顔を歪ませながら、出会って間もない、酷い事を言った自分なんかを命を賭して守ったイグニスにコックスは混乱し、ただ叫んだ。
「ふはははっ。ヤケになってみるもんだなぁ」
そう言うと、リゼドールは止めを刺す為に中指の銃口を手負いのイグニスに向ける。彼の立ち位置は微妙な距離で、鎖に繋がれたコックスとリナが飛び掛かるには遠く、狙いを外さない程度に近かった。
リナは次の一撃は避けられないと判断し、自らの体をイグニスに重ねる事で彼の盾になる。
「いい商品だったんだがな。まぁ、仕方ねぇ」
義手の膝にある引き金をリゼドールが不気味な笑顔をしながら手に掛ける。
だが、出るはずの弾丸は出ず、銃口から何かが潰れる音と煙だけが漏れていた。
「ちっ、ジャムりやがったか。
義手として使えるのは良いが、詰まりやすいのが玉に瑕だな」
イグニスたちは義手の繊細さのお陰で九死に一生を得た。だが、自分たちを殺めようとする敵は健在で、敵はイグニスの落としたナイフを拾うと、三人の前へ近づいてくる。
「待たせたな。商売をぶち壊しにしたお礼に少しずつ刻んでやるぜ」
「イグニス様には触れさせない!!」
ナイフをちらつかせるリゼドールをリナは涙に濡れた瞳で睨みつける。だが、その行為は彼の加虐心を煽るだけだった。
「大丈夫だ大尉……
リーディア旅団の男よ。お前が奥の手を用意しているように、私にも奥の手がある」
「あん? 何言っているんだ? お前この状況が分かんねぇのかよ」
「私は周囲から剣の天才だの何だのと言われ、つけあがっていた。
だが、ある者の力を見て、井の中の蛙だと知った。
彼女は私と共に剣技を修練し、私が数年かけた剣の会得を一年に満たぬ速さで会得した。
今は私の方が上かもしれないが、すぐに抜かされるだろう」
リゼドールはイグニスの意味不明な話が、時間稼ぎの姑息な手に過ぎないと判断し、喉を鳴らしながら笑うとナイフを構えた。
「終わりだな」
「ああ、終わりだ」
振り下ろした腕。だが、その先にナイフの姿は無い。いや、ナイフを持った腕が無くなっていた。
義手は肘から綺麗に切断され、詰まっていた弾丸や部品が周囲に飛散し、霰のように音を立てながら地に落ちた。
そして、理解が追い付かないリゼドールが振り向くと、今度は肩の肩が軽くなり、彼の足元に赤い絨毯を敷き詰めた。
「ぎゃあああああああああ!!!」
一息置いて襲ってきた激痛が咆哮となる。
そして息を使い果たすと、リゼドールは自分の鮮血の上に身体を横たえた。
「よくやったな。ジョウルク」
イグニスが敵の両腕を落とした少女の名を呼ぶと、敵から奪取した剣を床に投げ捨て、彼女は笑顔で答えた。
「はい!! イグニス様!!」




