ⅩⅣ 錯綜の都 Ⅱ
マレーティアの国章の下、二つの大国の代表とその騎士たちが大理石のテーブルを囲う。この出来事は歴史に残らず、後世の者どもの誰もが口にする事はない。
戦中における当事国間の会合を知るのは当事者とマレーティア女王のみであった。
「貴方ほどのお方からこの様な場を提案して頂けるとは思いませんでしたわ。クローヴィス王子」
「他の誰にも任せる事が出来ない。それだけ、状況は危険な段階に入っているという事ですよ。アリス姫」
茶も置かれていない盤上を跨いで、両国の王族は対峙する。そしてそれと同様に、彼らの傍に立つ騎士たちも、相手を牽制するように、互いを鋭くにらんだ。
この時、互いを睨む兵士二人がインフェクテッドであろうとは、二人とも知る由もなかった。
「それでしたらお早く降伏する事を提案いたします。我が国は野蛮国と違い、敗者に対しても尊敬の念を以って扱う事をリーリシアの名に懸けてお誓いしますわ」
「ふふふ。姫もお分かりなのでしょう? この戦争の辿り着く場所には勝者も敗者もいない。既に理性的な争いの段階を超えているのです」
アリスの挑発的な言葉をクローヴィスは一笑に帰し、穏やかな表情で諭す様に言葉を返す。
「我々は一片の土地を争うには血を流し過ぎた。長きに渡る死の連鎖は憎しみの連鎖へと昇格し、それは敵国の文化、人間への完全な破壊へと至る」
「わ、私たちはそのような蛮行は行いません!!」
「ええ。姫はそうお思いかもしれない。だが、父母を失った者達はどうだろう? 夫を失った未亡人はどうだろう? 仲間を失った者達はどうだろう? 貴方に彼らの憎しみを制御できるのか?」
「うっ…… それは……」
箱の中の姫君でも、帝国への憎しみを糧に生きている者達がいるという話は幾度と耳にしていた。彼らが憎しみの果てに、最悪のヴァンダリズムを行ってしまうのを、自分が止められるかは、アリスには分からない。彼女は止める術を知らない。
「我が国にも憎悪の渦が存在している。大陸の平和を目指すのであれば、我々が取るべきは勝者無き和睦であろう」
「…………」
対等な立場の二人であるが、その様子はまるで大人と子供だ。
だがそれは是非も無き事。帝国の皇子はかの国の長子として、帝国の未来を担う者として教育を受け、経験を積んでいる一方、王国の姫は王家を継ぐ事なき外交の道具としか扱われていなかったのだから。
「これは姫、そして、王国の未来を担う者のお心に入れておいてください」
アリスの頭の中には、彼に返す言葉など無い。結局のところ、この場はクローヴィスの考えを述べるだけに終始した。
「さて…… 君」
クローヴィスは捨てるようにアリスから目を離すと、彼女の隣に立つ青年に目を向け、声をかけた。
「確か、ラッシュフォード少尉と言ったね。君はかの有名な剣家ラッシュフォード家の者かい?」
「…………」
クローヴィスの言葉にイグニスは無言のまま視線も合わせない。自分は本来ここにいるべき者ではなく、透明な人間としての自覚がそうさせているのだ。
「少尉。クローヴィス王子の問いに答える事を許可します」
会話の止まった静寂に耐え兼ね、アリス姫はイグニスに透明な人間ではなく、そこにいる者として発言する事を許可した。それは許可というより、「言葉を返せ」という命令であり、それを承知したイグニスは一瞬視線を地に移した後、敵国の皇子の姿に視線を合わせた。
「王子殿下のお考えの通りでございます」
余計な事を口にせぬよう、簡潔に。イグニスはそれだけ述べると、再度口を堅く噤んで視線を不機嫌そうな面持ちの女性士官に向けた。
「ふふふ。そうか。
私も帝国の貴族として剣を学んだのだ。レオンバルトのラッシュフォード――剣を学ぶ上でその名を聞かぬ者はいない。
大佐。そちらの甲冑から剣を二本持ってきてくれ」
好奇心旺盛な少年の様に声を弾ませ、クローヴィスは後方に飾られた甲冑の両手に握られた一対の剣に目を向けた。
「何をなさるというのですか!!」
この状況に危険を感じたアリス姫は、立ち上がると、声を荒くして叫んだ。
「心配なさることは無いですよ姫。
これはただの戯れ。命を賭けたものではない」
ガレルから剣を受け取りながら、クローヴィスは気を立てるアリスにそう答えた。
「ラッシュフォード少尉。貴方なら無論分かっていると思うが、試合において相手を害するは剣の道を外れる事だ。だから私は剣士としての君を信じる。君も私を信じてくれるな?」
これはクローヴィスからの「決して相手を傷つけない」との宣言であった。
だが、それでもイグニスは目前に差し出された剣に触れようとしない。
「ラッシュフォード少尉。剣を取る事を許可します。王子に貴方の力を見せて差し上げなさい」
イグニスに剣を取らせたのは、意外にも先ほどまで皇子の提案を危険視していたアリス姫であった。
勿論、彼女の心にある不安は消えていない。だが、それ以上に彼女は見たかった。自分が恋した男の美しい舞を。あの幼き日に見たあの舞を。
「お付き合い感謝する。ラッシュフォード少尉」
剣を持った二人はテーブルから距離を取り、その前に広がる空間で対峙すると、互いに剣を構える。
クローヴィスは地面に垂直に剣を目の前に立て、剣先を天井に向ける。対して、イグニスは地面と平行に剣を握り、剣先を後方に向けた。
「銀剣皇流の構え……」
「ご明察。いや、私がいかなる流派かは、私が皇子である以上、誰でも分かるか」
イグニスはクローヴィスの構えに覚えがあった。
古き帝国の皇族たちは、重い銀のロングソードを身の宝とし、それを用いて国土を守り、蛮族を誅したという。その時代の流れを汲むのが銀剣皇流だ。
イグニスは修行の過程において、師からかの流派についても教えられていた。まさかこのような形で対峙する事になろうとは、ゆめゆめ思わなかったわけであるが。
「では、始めよう。
大佐。銀貨を一枚投げてくれ。それが地に落ちた時を開始の合図とする」
「御意のままに」
ガレルは懐より大陸で流通しているクレスト教の紋章が描かれた銀貨を取り出し、親指をバネにして、宙にそれを弾く。
舞った白銀の円盤は勢いよく回転し、ただ一人、アリスのみがそれを目で追っていた。ガレルはその時まで目を瞑り、イグニスとクローヴィスは耳を澄ませつつ、鋭い瞳で対峙者を観察していた。
“チリーン”
コインは地面を覆う白い石畳とぶつかり、鈴の様な音が部屋の中で反響した。そして、その瞬間にクローヴィスは剣を掬うように前へと突き出し、一瞬にイグニスとの間を詰めた。イグニスは突き出された相手の刃を、高速の横一閃によってはじき返すと、今度は返す刀でがら空きになった相手の胸部に剣先を滑らせた。だが、それはクローヴィスの軽々としたバックステップによって躱されると、再度二人の間に間が出来る。
「なるほど、強い……」
互いに、最初の接触は相手の力を測るためのもので、その一度の攻防によって二人は相手の力量を知り、そして本気になれる相手であると確信した。
「戦いの最中に悪いが君の名を聞いておきたい。ラッシュフォード少尉」
目前で剣を構え、明鏡止水の面持ちで自分と対峙する強者。クローヴィスは彼の名前を自らの記憶に刻みたいと思った。
「イグニス。イグニス・ラッシュフォードです。王子殿下」
「イグニスか。その名、しかと刻んだ」
会話の為の小休止の後、クローヴィスは剣を構えると、再度イグニスの懐に接近する。今度は突くと見せかけて、敢えて相手の攻撃を誘い、その隙にこちらから攻撃を加える算段だ。だが、イグニスはクローヴィスの微かな腕の動き、足回り、剣先の流れによってそのブラフを看破し、それを好機に接近した。
「ぐっ!」
だが、その攻撃は剣の位置を力ずくで戻したクローヴィスに辛うじて防がれた。
その様子に、平静を保っていたガレルの表情は不安に歪み始める。彼女が今まで見て来た皇子の剣は何人をも打倒してきた。それは優雅で、一切の迷いも焦燥も無く常に余裕の強者であり続けてきた。だが、今回は違う。ガレルの目には皇子の焦燥や恐れが見て取れたのだ。
一方でアリスは剣術という芸術に目を輝かせ、興奮の様なものまで感じていた。彼女には華麗に剣を振るうイグニスの姿しか映っていなかったのだ。
「参る」
今度はイグニスから攻撃をしかけ、相手の防御を削ぎ落とす為に、幾度とクローヴィスの握る剣に連撃を加えた。それはあまりに早く、クローヴィスは攻撃に転じる事を許されない。
繰り返される攻撃はその見た目よりも力強く、それは一切ブレの無い的確な場所への適当な攻撃、つまり、力ではなく技量によってもたらされているものだ。それに気が付いたクローヴィスは圧倒的な能力の差に戦慄した。
(強すぎる。彼に比べると、まるで私が今まで相手にしてきた者達が子供の様だ。
いや、違う。彼にとっては私さえも子供なのだろう。決して努力や経験では埋める事の出来ない圧倒的な才能…… これが天才という事か」
防戦一方のクローヴィスは無防備な状態で一歩後ろへと下がった。イグニスはその好機を見逃さず、追撃を加えようと剣を振ったが、その瞬間、クローヴィスの手から剣がこぼれた。
“カラン”
剣が地面に転がる音と共にイグニスの剣も止まる。勝敗は決したのだ。
「私の負けだ少尉。君ほどの強者は初めてだ」
両手を解放し、クローヴィスは敗北の姿勢と共にそう宣言した。
「私も皇子殿下の強さに感服いたしました」
緊張が解けた事で、クローヴィスの額に汗が流れる。それを見たガレルが皇子に駆け寄ると手に持った白いハンカチで彼の額に触れた。
「君は世辞が下手だな。だが、感服ついでに私から一つ言っておきたい事がある。
帝国の将として私につく気は無いか? 君の望む地位を与えよう」
「なっ!? それは許されません!! ラッシュフォード少尉は私の…… わたくしの……」
冗談か本気か分からないクローヴィスの突然のスカウトにアリスは顔を紅潮させた。
「身に余る光栄ですが、私はその申し出を飲むことが出来ません。私は既に王国の剣なのです。これは私が決めた事」
イグニスが発したこの言葉に、不安そうなアリスの表情はパッと明るくなった。彼女にとって彼は特別な存在。仮に剣の腕が無かったとしても、アリスは彼を手放す事はしないだろう。
「そうか。君は剣士としてではなく、武人としても誇り高いようだ。
だが、いよいよ私は君が欲しくなってきた。君の気が変わったら帝国に亡命するが良い。私はいつでも君を歓迎しよう。そう、来たる真の敵との決戦の為に……」
「真なる敵?」
クローヴィスの発した不穏な言葉をアリスは看過できなかった。彼の言い方は、まるで王国が彼の野望の通過点でしかないように聞こえるもので、我慢がならないのだ。
「殿下!! それは!!」
「構わんよ。彼らには私の考えを知っておいてほしいからね」
そう言って傍にいるガレルを引き離すと、クローヴィスは探るように敵国の姫の顔を睥睨した後、己が考えを話し始める。
「先も申し上げたが、この戦いの先に光は無い。ただ、残るのは憎しみと廃墟だけ。
この戦いにはもはや義など無いのだよ」
「あなたにとって、この戦は無意味なものだと仰るのですか? 死した英霊たちは無駄死にだったと……」
クローヴィスの言っている事は納得できる。だが、既に多くのものを失ってきた諍いはもはや容易に止める事は出来ず、一国の重責を担っている彼の発言は、どこか無責任なものにアリスは感じた。
「無駄死ににさせないのが戦場に赴かない我々の務めだ。私は真の敵と対峙した時、彼らの魂が永遠の安らぎが得られると信じている」
「真の敵…… 真の敵とは一体何なのですか!?」
半世紀近くにも及ぶこの戦を矮小化するほどの敵が世界に存在するというのだろうか。クローヴィスの胸の中には確かにそれが存在していた。
「我々は一つの土地を巡って争いを始めた。それはあの場所に有益な資源があったからだ。
だが、その資源が必要なのは、ある存在によって商業活動が制限され、自ら獲得せざるを得なくなったからだ。加えて、この戦争において最も経済的利益を得たのもその存在」
「まさか……」
「ああ、もう姫にもお判りでしょう。我らが真の敵は、まるで観劇のように戦争を捉え、我々を支配するオルトリアとクレスト教だ」
クローヴィスの言葉にアリスとイグニスは唖然とした。それは誰もが思いながらも口に出す事を慎んでいた事。それをこの皇子ははっきりと言葉にしてしまったのだ。
「そう仰られても私は…… 言葉がありません……」
アリスは狼狽した。皇子の言葉に答えを出すのには自分は不相応だと分かっていた。
きっと彼女ではなく、王位継承を争う彼女の兄達であっても、同じ態度をとったであろう。オルトリアとクレスト教は倫理と金融で大陸を支配しつつ、懲罰部隊を代表とした恐怖で為政者たちの反抗心を刈り取っていた。王国にとってオルトリアは別格の存在であり、それは帝国にとっても同様だった。
「そうだろう。私が言っているのは神々への反逆に等しいものかもしれない。答えはいずれ正式な場で聞くとしよう」
「殿下。そろそろ」
「ああ、もうそんな時間か。
アリス姫。そしてラッシュフォード少尉。本日の素晴らしい邂逅に感謝する。だが、時というのは何人も支配できず、身勝手なものだ。私も時間には従わなくてはならぬ」
奇妙な言い回しで、残された時間がない事をクローヴィスは告げた。
「そうですね。私達、人類の本当の敵は時間なのかもしれない。
私と少尉はこれで失礼します。我々も時間に逆らう事は出来ないので」
アリスがクローヴィスにそう返した事で、この非公式の会談は幕を閉じた。
「次に会う時は友人同士でありたいですね」
「同感ですわ皇子」
善き未来を想いながら、二人は握手を交わす。だが、二人にはそれが叶わざる夢であるという事も分かっていた。暴走し始めた列車は一人二人の努力では止められないのだ。
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応接室を出たアリス姫は緊張が解れ、イグニスの逞しい腕に身体を押し当てた。本来であれば、インフェクテッドが王族と肌を合わせるなどあってはならない事だが、アリスの弱々しい表情が、その行動を拒むことを許さない。
「私は弱いです。
帝国の皇子の前ではまるで赤子でした。貴方も呆れたでしょう?」
「いえ、滅相もございません。姫様は王国の代表として立派にされていました。国王殿下も王子様方も姫様のご活躍を誇りに思うでしょう」
確かに、アリス姫はクローヴィス皇子を前に単なる聴衆の一人になっていたかもしれない。だがそれは、経験とそこから得られる自信の差によってなされたもので、彼女が自分の能力を低く評価する理由にはならない。クローヴィス皇子はある意味異質なのだ。
「ふふふ、皇子も言っていましたけど、世辞が下手ですね。
では行きましょう少尉」
「私は少尉では…… ちょっと姫様っ」
いつもの調子を取り戻したアリスはイグニスの腕を掴んだまま城の通路を進み始め、腕に触れた彼女の胸から伝わる温度に、イグニスは戸惑いながらも、全身の主導権を彼女に預け、引きずられるように共に通路を進んだ。
「ふふふ、でも私、貴方がいてくれたから頑張れたのですよ。
だから私決めたんです。私は貴方を」
二人がエントランスに踏み出した時、アリスの言葉と共に足が止まった。そこには物言わぬマレーティア臣民たちが祈りを捧げており、その異様さに絶句したのだ。
「案ずることはありません。堂々と進みましょう」
耳元で聞こえたイグニスの囁きに従い、アリスは彼の腕を離し、胸を張って群衆の間を進む。彼らはまるで石像のように動かないが、考える脳と物を見る目を持っており、アリスは王族として軽んじられる事のない態度を取る必要があるのだ。
「これがマレーティアですか。城も王女も美しいですが、この光景は好きになれませんね」
城外にも石像の大群が並んでいたのを目の当たりにし、アリスは苦笑いを浮かべながらそう言うと、イグニスの左腕の袖を握り、ロータリーに止まる送迎車へと向かった。
「大尉と軍曹の姿が見えませんね。先に城を出たはずなのですが」
二人の仲間の姿が見えない事をイグニスは不審に思い、周囲を見渡した。だが、そこら中に立ち尽くす群衆に阻まれ、十分な捜索が出来ない。
「きっと車の中で待っていらっしゃるのでしょう。さぁ、行きますわよ」
気味の悪い光景を見たくないアリスはイグニスに早急に車に向かう事を促した。それは、まさにリナとコックスが取った行動と同じであり、先にある卑劣な罠に自ら跳び込む行為であった。
「あれ? 誰もいませんわね」
車の中には誰もいなかった。それを確認した二人が不安の表情で車の前で立ちすくんでいると一人の男が運転席から現れる。
「二人の軍人さんなら、先に港までお送りいたしましたよ」
どうやら運転手の男の様であったが、イグニスは彼に違和感を持っていた。送迎車の運転手は良い家柄の者が就くものであるが、衣服は上等にもかかわらず、男の顔色は不健康そうで、ほのかに錆びた金属の匂いを漂わせていたのだ。
「そう。それなら私たちも早く行きましょう」
イグニスの警戒に反して能天気な姫君は、異様な雰囲気の場所から早く脱しようと車に足をかける。その瞬間、車体が大きく揺れ、運転手の男の姿が突然消えた。
「これは一体……」
状況を確認すべく、男がいた運転席付近へと二人が回ると、そこには何者かによって運転席のシートに圧しつけられ、鋭いナイフを突きつけられている男の姿があった。
「アリエル。これはどういうことです?」
男を押さえつける者の正体はアリス姫の侍女アリエルであった。城についた後、彼女は影に溶けるようにパーティから離れると、密かに主を護衛していたのだ。
「この男。この国の人間ではありません。あなたリーディア旅団の人間ですね?」
アリエルは首元を拘束する腕の力を強めると、ナイフの先端を男の青白い肌に当てる。
「リーディア旅団? あの奴隷の売買をやっている時代錯誤の集団ですか」
「そうです。恐らくこの男も元奴隷。己が自由の為に団に身を売ったのでしょう」
アリエルがナイフを突き立てたまま男の顎を上げる。そこには長い間首輪が掛けられた事が誰の目にも分かる痣がくっきりと残されていた。
「わ、わたしはマレーティア王国政府に雇われた者で…… リーディア旅団とは無関係だ!!」
男は喉元に冷たいものを感じつつ、必死に叫びを上げた。だが、アリエルは表情を変えない。
「不勉強ですね。マレーティアにおいて、国賓の送迎を行う者は“雇われる”者ではなく、選出される者である事を知らないのですか?」
もはや男は言い逃れできない。
そして、観念して下卑た笑いを浮かべると、アリエルの冷徹な顔に睨み返した。
「俺は不勉強だったかもしれないが、あんたらは世間知らずだ!!
この世は弱肉強食。強き者が弱き者を導き、弱き者は強き者に服従する。身分も生まれも関係ない。素晴らしい世界じゃないか!! お前らは食われる側なんだよ」
一方的に男は叫ぶと、そのまま舌を突き出す。それを見たアリエルは男の行動を止める為に顎に手をかけるが、時はすでに遅く、ギロチンにかけられたように男の舌は自らの顎によって切断された。
「姫様。申し訳ありません」
「……気にする事はないわ。この男の忠誠はそれだけ強かったという事なのでしょう」
白目を剥いて醜く絶命した男に、アリスは憐みの目を向けた。元は奴隷の身。その男がいかなる経緯で他人を奴隷にする集団に身を落としたのか、考えると苦しくなった。
「それより二人が心配です。早く船に戻りましょう」
「ええ。そうですわね。アリエル。運転を頼みますわ」
三人の中で最も心穏やかでないのはイグニスだった。彼の頭の中はリナの事でいっぱいであり、今にも心臓を吐きだしそうな不安が支配していた。




