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戦場のアウラウネ  作者: 耕眞智裕
第二章 錯綜の都
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Ⅳ 10年の邂逅

 リーリシアにオルタリアからの書状が到着した九月八日より二週間の月日が流れた九月二十二日。マレーティア訪問団を乗せた船は同盟国レオンバルト南部の港町リズナルに到着していた。

 同地はレオンバルト第二の大都市で、オルタリアやリーリシアとの重要貿易拠点であり、街中は活気にあふれ、リーリシア人やオルタリア人の商人が巨船を用いて自国より運び入れた品々を競っていた。故に、マレーティア訪問団を乗せた船程度のものは、この町の者達にとってさして珍しいものでは無く、カサドラの様に目を向けるものはいなかった。


「懐かしいですね」


「あぁ、私が国を捨てて以来です。私と違いここは何も変わらない」


 船窓から望む景色、波の音や雑踏が生み出す騒めき、そして、潮と食べ物の香りがリナとイグニスを懐かしくさせた。

 だが、同時に自分はこの街を、そして、この国を捨てたという意識がイグニスの心をざわつかせ表情に影を落としこむ。居心地の悪い愛する故郷という不思議な感覚が彼を苛んでいたのだ。


「ここで食事の調達を行います。イグニス様とジョウルクはここで待っていて下さい。リクエストがあれば聞きますよ?」


「大尉殿。我々の事は気にしないでいただきたい」


「でも、干し肉や缶詰ばかりで飽きていませんか?」


 ジョウルクは他のものを口にしたいと顔に書いてあり、外から飛来する魅惑的な香りの後押しに抗う事が出来ず、イグニスの腕を引っ張ってリナの言葉に甘えようと言葉を用いずに求めた。


「駄目だよジョウルク。大尉に迷惑が掛かってしまうだろ?」


 イグニスの一言で爪の先程度あった希望は崩れ落ち、ジョウルクは「わかりました」と残念そうな顔で呟いた。


「大丈夫よジョウルク。兵士たちの士気を維持するのも隊長の務めだから。それに反する事は部下のイグニス様には出来ません。それじゃ。行ってきますので楽しみに待っていてください」


「待ってくれ大尉…… 行ってしまったか」


 リナはイグニスの言葉を待たず、荷物を手にすると迅速に退室した。


「ごめんなさい。我儘言って……」


「いや、君はいいんだ。それに大尉の……リナの悲しい顔は見たくないから」


 俺は出向初日の彼女の事がどうしても気になっていた。姫を迎えた後に見せた辛そうな顔だ。

俺は姫には会った事も見た事もない。ただ、農民の妃との間に生まれたという事だけが知識として存在していただけだ。だからどう言う人物か俺には分からない。しかし、リナを悲しませたとう事が彼女に対して敵意に近い嫌悪感を抱かせていた。


「リーリシア第三王女アリス……」


 イグニスはその名を口にしながら、我儘で悪辣で、恐ろしい人物を思い浮かべていた。


 同時刻、我がままで恐ろしい人物の元にリナが訪れ、食事を目的とした下船を進言した。


「食事ですか。私、結構缶詰と干し肉に満足してますのよ? このようなものを口にする機会なんてそうそうありませんから」


 これらの食材はそれと分からないように綺麗に木の皿に盛られていたが、アリスはその正体を理解していた。食料に関する事柄は姫と従者が尋問した女が残した情報にあったもので、それによって姫はこの事を知るに至ったが、リナはそのような事を知る由もなく、彼女の知識と舌に驚嘆した。


「ですが、姫様……」


「もう、そんな顔しないで。

 干し肉と缶詰は良いですけど、固いパンに飽きたのは確かです。リナさんの言うとおりに船を降りますわ」


 困るリナにアリスは眉を下げて答え、下船する事を了承した。そして、侍女であるアリエルに外套を持って来るように頼むと、膝を折るリナの元に寄り、彼女を立たせた。


「ところでリナさん。貴方はこれからどうしますの?」


「私は部下に食事をさせてから物資の調達をします。それから……」


「あら、お忙しいのね。では、あの方はどうなさるの? 危険人物でしたかしら。その方も下船されるの?」


(またあの顔だ。私を不安にさせるどこか意地悪な顔)


 リナは息を飲み、彼女のペースに飲まれない様、心を落ち着かせた。


「ソレは船外に出す事が出来ませんので、船内に封じておきます……」


「そう。でも貴方は船外に出られるのよね? それじゃあ誰がソレを監視するのかしら?」


 アリスは顎を指で叩きながらリナをなじる。それはどこか楽しそうで、どこか嫉妬深い。そして何故か意地悪な印象を与えながらも彼女は美しかった。


「船周囲の監視は怠りませんので問題はありません。さぁ、お早く下船のご準備を」


「……そうですね。貴方の言葉に従いますわ。準備をするので少し外で待っていて下さるかしら?」


「御意の通りに」


 アリスはぶつけたい言葉を喉の奥に仕舞うと、先程の様な意地悪さが微塵もない王族らしい高貴な笑顔を見せてリナを部屋から出した。そして、彼女の姿が見えなくなると高貴なマスクを外し、にやりと笑った。


「全く分かりやすい。流石に飽きてきましたわね」


「では処理しますか?」


「駄目ですよアリエル。私、邪魔だけど彼女も嫌いではないですのよ」


 アリエルに服装を整えさせながらアリスは彼女の物騒な発言に止めを刺した。だが、それと同時に故あればリナを殺めようという意思も含んでいた。


「さて、それでは行きましょうかね」


 支度を終えたアリスはくるりと360度回転し、スカートの動きを確かめた。それに満足すると高貴の仮面を被り、外で待つリナに笑顔で下船の準備の完了を告げた。そして、アリス、リナ、そしてアリエルの三人は巨大な船から二週間弱ぶりの陸地に足を踏み入れた。


「リナさんも人に顔を見られるのは嫌かしら?」


「はい。私にも事情があるのです」


 夏の暑さが残るこの時期。自分と同じようなフードを被り、額から上を隠す女性将校の姿に疑問を持ったアリスがそう問うと、リナは姫に目を向ける事無くそう答えた。まさに「これ以上の詮索はするな」という態度であり、アリスは「そうですか」とだけ返して言葉を止めた。

 そして、言葉が交わされる事のないまま、事前に国が手配したホテルに到着し、数人の従業員が頭を下げる中、リナが下船直後以来の声を発した。


「姫様の御部屋は三階になっております。お部屋には護衛としてブレア一等兵を配置しております」


「あら、それは悪いですわ。彼女もお疲れの様ですし休まれたらよろしいのに」


「これは仕事ですので、お気遣いは結構です。姫様」


 リナは結局のところアリスのペースに乗せられ、幾度となく落ち着きなく声をあげた。そしてその度にアリスは愛玩動物を可愛がるような視線を向けて楽しんでいた。


「あっ、アリス姫様! ご機嫌麗しゅうございます! 本日も命を賭けてお守りいたしますので、どうか……」


 アリス姫の為に用意されていた部屋の前で立っていたブレアが、二人の姿を目にするや否や速足で駆け寄り、膝を折って挨拶の言葉を口にした。

 このような彼女の落ち着きのない行動は、早くアリスから離れたいリナにとって喜ばしい事であり、リナは彼女に後を任せる形でこの場を離れ、次の仕事場に体を向かわせた。


「あら、あら、行ってしまわれましたわね。まだお話ししたい事が沢山あったのに……」


「ひ、姫様っ!どうぞこちらに……」


 アリスはつまらなそうにリナの後姿を眺めていたが、緊張で周りが見えていないブレアに圧される形で赤絨毯の敷かれた廊下から豪華に彩られた大部屋に押し込まれた。そして、影の様に侍女アリエルもアリスに続いた。


「まぁ、いいですわ。いずれ話す機会もございましょう。そう、たっぷりと……」


 アリスが日中だけ滞在するこの部屋は窓側、扉側の二重の構造になっており、ブレアは扉側の小さな空間を守護する事となっていた。だが、大国の王族に対する警備としては余りに杜撰であり、このような所でも王国におけるアリスの立場が露骨に表れていた。


「頼もしいですわね。これで安心です」


「一等兵の事ですか? 存外彼女を評価されておられるのですね」


 皮肉のつもりで言った言葉を、外套を脱がせるアリエルが真剣に受け取り、アリスは表情を歪ませた。


「えぇ、かわいらしい方ですしね。

……でも、私が最も信頼しているのは貴方でしてよアリエル。私をしっかりと守ってくださいね」


 皮肉の効かない相手には、敢えて本心を加えて伝える。アリスはアリエルと付き合う中でそう接してきた。アリエルが信頼や愛情に飢えている事を彼女は知っていたから……

 口数の少ない侍女とアリスが出会ったのは6年前。母親が血統派の過激派集団によって謀殺され、失望と孤独に打ちひしがれていた時だ。塔に囚われた古いおとぎ話の姫の様に、自分の他に誰もいない宮殿で虚ろな瞳で雨降る景色を見つめていた。そして、庭園の雑木林で子犬の様に震える少女を発見した。みすぼらしい衣服を纏う名も無き少女。アリスは人の目を掻い潜り少女を保護した。

 少女は心を失っていた。いや、最初から人の形をした器に心が宿っていなかったというべきか。彼女にあったのはその風貌に似つかしくない高度な戦闘技術と諜報知識だけであった。

 アリスは自身の心を満たすため、出自不明の少女を隠れて養い、名も無き少女に『アリエル』という名を与えた。古き伝承にある悲劇の姫。彼女に誰かが名付けた名前がその由来で、アリスの童話好きの一端が垣間見えた。

 アリエルは命の恩人である孤独の姫の為、時に愛玩動物の様に、時に友人の様に振舞い、彼女が望むように接し続けた。

 そして、孤独の中に生きる者同士が互いを慰めながら生活を共にし、綻びる事のない信頼関係を紡いでいったのである。

 それ故に、アリスは彼女の前では己が欲望を隠すことなく曝け出す事が出来たのであった。


「レオンバルト悲劇の王子…… 未来を嘱望され、栄光の道を歩んでいた若き王子の突然の死…… でも、これは真実かしら?

 疑念を抱く理由はいくらでもある。国葬で彼の遺体が公開されなかった事、その場での妹姫シルフィーの態度、加えて元宮殿管理長リナ・バランシュの今の姿、そして、消えた王子と同じ名を持つインフェクテッド……

 私の推測を肯定する素材は机上にパズルとなって形を作っていく。そして、最後のピースは彼に会う事で手にする事が出来る」


アリスは頭の中の整理を兼ねて、ぶつぶつとその様に口にしながら部屋を歩き回る。


「リナ・バランシュは彼を監視していたわけではない。むしろ彼を護っていた。ふふふ、彼女は今、彼の事が心配で辛いでしょうね」


「姫様。その方にご執心ですね」


 荷物などの確認を終えたアリエルがそのように口にすると、待っていましたと言わんばかりにアリスは目を輝かせて、胸の前に指で三角形を作った。


「それはねアリエル。あの方が私の王子様で、騎士ナイト様だからよ」


 恥ずかしげもなく、歯の浮くようなセリフを放つアリスの姿は、王女でもなく、意地悪な女でもなく、まさに恋する乙女の様であった。

 

 一方、アリスの指摘した通り、リナの心は穏やかではなく、心に靄がかかった状態で己が任務をこなしていた。

 朝霧の様な靄の原因は言うまでも無く、船に残した思い人であった。まるで愛息子を家に残した母親の様な心情を彼女は味わっていたのである。彼女の脳内に作られたプライオリティーの中では守護すべきアリス姫は部下であるイグニスに劣後し、これは軍人としては恥ずべき事であるが、そもそもリナがリーリシア軍に身を置くのは全てイグニスの為であり他の者は王族と言えど、取るに足らない存在と扱っている節があった。アリス姫に対する杜撰な扱いは彼女の立場によるだけでなく、リナの無関心という部分もあった。

 もちろんこれはアリスの命だけでなく、第三特務遊撃部隊、ひいてはイグニスの命を危険に晒すものであるが、若く、また心の余裕を失いつつある彼女には気の届かぬ事であったのである。


「これで最後ですね。三番ポートに停泊しているオルタリア船に搬入してください」


「承知いたしました」


 最後の物資購入を完了し、リナは大きく溜息をついた。それは、疲れから生じるものでは無く、心の靄を追い払うためのものであった。現在船に残るのはイグニスとオルタリアから派遣された船員だけ。彼女は決してオルタリアの船員を信用しているわけではなく、いち早く彼の安全を確認したいと思っていた。


「次は隊の者達の食事。それが終われば……」


 一つ一つやるべき事を果たし、イグニスの元に戻る時が近づいていると自分自身に言い聞かせ、リナは姫が身を置くホテルへと足早に向かっていった。そこには腹をすかせた数十名の兵士たちが彼女の到着を待っていたのである。


 リナがホテルへ向かっている頃、アリスとアリエルは一足先に食事を終え、悪だくみの準備をしていた。本来、彼女たちは部隊の食事の後にリナと共に船へと戻る手筈であったが、二人は早々に外出の準備を始めていたのである。


「あとはあの子ですわね。まぁ、そんなに高い障壁ではないですけど」


 アリスが言う“あの子”というのは扉を護るブレア一等兵の事である。


「処分しましょうか?」


「出しゃばらないでアリエル。無為な殺生は貴方の価値を下げる事になりましてよ。それに、あの子はとても御しやすい。私に任せなさい」


 短剣をメイド服のエプロンから見せ、アリエルは自分が最も得意とするやり方で目的を果たす事を進言したが、アリスはそれを不快な顔で拒否し、一人、玄関に続く扉に向かっていった。


「ブレアさん? ちょっとよろしいかしら?」


「……はい! 姫様! 何なりとお申し付けください」


 特別に支給された弁当を食べ終えたブレアがアリスの声に反応し、扉の前で膝を折った。


「バランシュ大尉から連絡がありまして、船に戻らなくてはいけないの」


「では、私がお供いたします」


「それはいけませんわ。貴方にはこの場所を守っていただきたいの」


「え? しかし……何のために」


「それは私にも分かりませんわ。バランシュ大尉の指示ですので。駄目かしら?」


「分かりました…… どうぞこちらへ」


 アリスの思惑の通り、簡単な言葉のやり取りと嘘によって最初の目的はいとも簡単に果たされた。

 アリスはその事を背後にいるアリエルに視線を送って伝えると、手にした外套を羽織り、堂々と廊下の赤絨毯に足を踏み込んだ。



 リナがホテルに到着した時、既にアリスは船へ向かっていた。リナはやるべき事を早く終えたい一心で、部下の集まる大食堂に速足で向かった。この時、リナは先にアリス姫の部屋を訪れ、様子を見なかった事を後々後悔する事になる。


「勇敢なるリーリシアの剣達よ。今日まで誠にご苦労であった。まだ先は長いし、時間もない。だが、この短き時間は大いに楽しんでほしい。リーリシア万歳。第三特務遊撃部隊万歳」


 リナは大食堂に着くと大勢の兵士の前で乾杯の音頭を取った。その声に兵士たちも歓声を上げ、酒の入った杯を高く掲げた。


「これで一つ終わり」


 手にした杯の中身を一気に飲み干すと、続いて眼前にある豪華な食事を少し口にした。


「私は姫様のご様子を見た後、船へと戻ります。食事を包んでくれるかしら?

 それと、私はこう見えて大食なの。三人分ほどよろしくね」


「はい。承知いたしました。ご用意いたします」


「頼みます」


 ナプキンで口を拭き、リナは立ち上がると敬礼しながら食堂を後にした。向かう先は苦手なアリス姫の部屋であったが、リナの身体は軽かった。


「大尉。大尉の御指示の通り、アリス姫様には船に戻って頂き、お部屋を守護しております」


 ノックした扉の先にいた部下の言葉にリナは重力が数倍になった様な感覚に陥った。そして気が付いたら人目を憚ることなく、軍服のスカートからのびる太ももを勢いよく上げ、一目散に走っていた。彼女の頭にあったのは勝手に行動した姫の事ではなく、何故かイグニスの事だった。虫の知らせというのだろうか。アリスとイグニスを会わせると悪い事が起きると直感していた。




「こ、これはアリス姫様。お早いお帰りですね」


「えぇ、そうなの。リーリシアの隊長さんに言って、早めに帰らせて頂きましたわ。

 私ちょっと疲れているの。通して下さるかしら?」


「はい。もちろん」


 船との連絡橋に立った船員は簡単に姫を中へと招き入れた。護衛対象の最重要人物が勝手に行動しているなど夢にも思っていなかったのである。


「アリエル。彼の部屋はこの奥ね」


「はい姫様」


 二人は事前に乗員の配置を確認しており、迷うことなく最短距離を歩み、目的の部屋へ向かった。アリスの心臓の鼓動に合わせるように、歩む足も速さを増していく。


「…………私はずっと待ちました。これは全て運命。私があの時彼に出会った時。そして、ここでまた彼に出会う奇跡。全ては運命の糸で導かれたのよ」


 逸る心臓を抑える為に深く呼吸すると、アリスは戸に拳の裏を二度当てた。

 中からほのかに聞こえる人が動く音、気配がアリスの心臓を握る。

 それははち切れそうなほどに……


「イグニス・ラッシュフォード特尉であります。どなたでありましょうか」


 一言声を聞いただけにも拘らずアリスの五感は興奮のあまり機能不全を起こしていた。


「バ、バランシュ大尉より、あ、貴方にお会いしようと…… えっと、いやですわ。貴方の、その、姿を見せて下さい」


 呂律が回らない。アリスは文字通り夢心地であった。これが現実であるという証拠の方が少ないのだ。船旅の情報が得られる以前のベッドの上で突然目を覚ましても不思議はない。


「はい。承知しました」


 戸が開く瞬間はスローモーションだった。心臓の鼓動の速さに応じ、時間が引き延ばされているのだ。


「あ、ああラッシュフォード特尉ですね……」


「はい。どなたでしょうか?」


「わ、私は……アリス・ミリア・リーリシア! アリスです。それと……」


「はっ! 姫殿下であらせられましたか。御無礼を! いかなる罰も受ける所存でございます」


 アリスが名を告げた瞬間、イグニスは膝を折り彼女に頭を下げた。だが、この行為は彼女を多少失望させるものであった。


「う…… 会えて光栄ですわラッシュフォード特尉。いえ、こうお呼びしたほうがよろしいでしょうか? イグニス・ロイゼン王子様?」


「イグニス・ロイゼンは死にました。殿下の前にいるのはただの負け犬にございます」


「死んだですって!? 顔を上げなさいラッシュフォード特尉! 立ち上がり、私の顔を見るのです!」


 イグニスの言葉にアリスの感情は怒りの方向に振れた。彼女にとって彼のこの態度は我慢できるものでは無かったのだ。


「できません姫様。私は姫様のお顔に視線を向ける事が許されぬほど卑しいのです」


「私の顔を見なさい! 私を、私の全てを思い出すのです!」


 アリスはヒールを勢いよく木板に叩きつけ、イグニスに威圧を与えた。そして、その怒りの瞳には涙が光っていた。


「私の様な者が姫様の記憶にございまする訳がありません」


(なぜ? 最後の最後に。ここまで着て運命は私を裏切るの? 10年もの想いを踏みにじるの?)


 アリスは握り拳を作り、乾いた木の板に純潔な雫を落とす事しか出来なかった。


「イグニス様? どうしたの? あ、この方は? とてもきれいな人……」


「ジョウルク膝を折りなさい。この方はリーリシアの姫。アリス・ミリア・リーリシア様であらせられる」


「お姫様。でも、どうして泣いておられるの?」


 アリスの声に驚いたジョウルクが部屋から出てきて、一瞬互いの顔を見つめた。

 突然目の前に現れた美しい女性がリーリシアの姫だったというジョウルクの驚きより、ジョウルクの顔を見たアリスが受けた衝撃の方が大きかった。


(宮廷教師から聞いたことがある。インフェクテッドを見出した魔女、ポリネイトはその者の最も心に強く表れた女性の姿を借りると……)


 悲しみと怒りに支配されていたアリスの表情は、ジョウルクの姿を目にした時から徐々に和らぎ、慈愛の表情でジョウルクの頬に触れた。そして「王子様の事は頼みましたよ。もう一人の私」と耳元でささやくと、イグニスには言葉もかけずにその場を離れていった。

 その道中。アリスはやっとの思いで到着した息の荒いリナとすれ違い、彼女に目線を送って笑顔を見せた。それはまるで敗者に対する上からの慈愛のようであった。

 だが、そこでは言葉は交わされなかった。リナはイグニスの元に行く事しか頭に無かったのである。


「イグニス様! ジョウルク! 何があったのですか!?」


 二人が視界に入ると、悲壮な表情でリナが叫んだ。イグニスは膝を折った姿勢を維持し、ジョウルクは放心状態になっていた。


「大尉ですか…… 問題ありません。今アリス姫様に謁見しておりました」


 イグニスはリナの声を聞くと立ち上がり、敬礼して起きたことを報告した。


「綺麗な人だった。どうしてだろう? 失礼なのですけど、どこか他人じゃない。私にはいないけど、まるで“お姉ちゃん”みたいだった」


 ジョウルクのその言葉はリナを凍り付かせた。リナが抱いていたアリスに対する恐怖心の正体が分かったからだ。


「うそ…… そんな事って…… だって、たった一日。たった一日だよ…… 彼女がその日も事を覚えていて、しかも……」


 自分で出した回答に怯え、リナは眼球を震えさせながら小さく言葉を呟き、膝を落とした。


「大丈夫ですか大尉! どうかなさいましたか!」


 人の事も知らず、渦の中心にいる男がリナの身体を支えた。今はこの優しさが憎たらしかった。この能天気さに怒りを覚えた。


(全部あなたの所為よ)


 ポリネイトはインフェクテッドの心の最も大きい少女像を形作る。この事はリナも知っていた。そして、同時にこの少女像はインフェクテッドが最も強く想っている女性ひとという単純な推測も出来ていた。


(……シュネーウィットヘン。あなたの一日が私の二十数年を上回るというの? こんなの認められない…… 認められるはずがない)


 イグニスの腕の中でリナは静かにアリスに対する対抗心を燃やしていた。





「毒リンゴを齧ったのは、白雪姫シュネーウィットヘンではなく、王子様でした。こんな奇怪な話がありまして?」


「現実は物語のようにはまいりません。真実というのは得てして奇怪なものなのです」


 自室に戻った上機嫌なアリスは、言葉を弾ませ、アリエルに問うた。そこには先ほどの怒りや悲しみに満ちた姿は無い。


「そうね。でもやる事は同じ。王子様ではなくて、白雪姫が王子にキスをして記憶を闇から解放させればいいのです。そして、待つのはハッピーエンド。ふふふ、素晴らしい。なんと素晴らしいのでしょう」


 ヒールで音を奏でながら、アリスは運命に感謝する舞を舞った。


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