【下剋上の結末編】第九段 兼好、見逃していたものに気づくこと
【下剋上の結末編】第九段 兼好、見逃していたものに気づくこと
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久秀と信長の話を書き進めていた折、堺の茶人たちの記録を辿っていて、ふと目に留まった名があった。村田珠光という。我は思わず筆を止めてしまった。
これは篁様への正式な報告というより、我自身の恥を晒すような話になるが、書いておかねばなるまいと思う。
珠光、応永三十年の生まれにて、文亀二年に身罷り候由。ちょうどあの義政公の御代、東山にて銀閣の建ちし頃を生きた人物である。一休宗純と親しく交わり、禅の心を茶に映さんとして、「心の文」なる書き付けを遺したという。
「和漢のさかいをまぎらかす」――唐物の華やかさをひけらかすのではなく、質素な道具の中にこそ深い味わいを見出す。この考え方は、堺の武野紹鴎という商人にも受け継がれているという噂を、どこかで耳にした覚えがある。紹鴎の弟子筋に、まだ年若い茶人が何人かいるとも聞くが、その者たちがこの先どうなっていくのかは、我にはまだ分からない。
我は、この珠光という男の生きていた時期を思い返して、愕然とした。義政公の御代といえば、まさに我がずっと見張っていた時代ではないか。あの頃、我は畠山家の内紛だ、斯波家の内紛だ、宗全と勝元の対立だと、京の政変ばかりを追いかけていた。義政公の建てた銀閣についても、如拙・周文という画僧たちの水墨の技については、確かに一段を割いて書いた覚えがある。だが、この珠光という男については、我の報告書のどこにも、その名すら記した覚えがない。
同じ時代、同じ京の空の下で、これほど静かに、しかし深く、後の世にまで続く何かを始めていた者がいたというのに、我はまるで気づかなかった。政の派手な出来事にばかり目を奪われて、すぐ足元で芽吹いていたものを、見事に見逃していたわけだ。
思えば、あの頃の我は「こういう静かで地味な動きというのは、政の派手な出来事に比べると見落としがちなのだが、我の性分として、こういう小さな萌芽にこそ目が向いてしまう」などと、水墨画の段でしたり顔に書いていた。だが、まさにその「見落としがちなもの」の最たるものを、我自身が見落としていたというのだから、我ながら情けない話だ。
篁様への役目を賜ってから、これまで何百年と下界を見てきたつもりだった。だが、こうして後から知る話がまだあるというのは、正直、我の目というものが、思っていたよりずっと節穴だったのだと思い知らされる。政の大事件を追いかけることに気を取られて、地味な文化の芽吹きを見逃す。この癖は、我という男に染み付いた、直しようのない性分なのかもしれない。
もっとも、見逃していたことに気づけただけ、まだましなのだろう。珠光の蒔いた種は、紹鴎という男に受け継がれ、堺の地でさらに育った。




