【下剋上の結末編】第十段 堺という町、紹鴎という男
【下剋上の結末編】第十段 堺という町、紹鴎という男
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珠光の蒔いた種が、その後どうなったのか。気になって、堺という町をもう少し詳しく見てみることにした。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
堺の町、応仁の乱の頃より、公家・僧侶らの逃避先として賑わい始め候由、かねてより見てきた通りなれど、近頃はさらに商いの町として栄え、武野紹鴎と申す豪商、茶の湯にも深く通じ候由に候~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
堺の町は、以前にも書いた通り、応仁の乱の頃から公家や僧侶たちの逃避先として賑わい始めていましたが、近頃はさらに商いの町として大きく栄えているようです。この堺に、武野紹鴎という豪商がいて、商いの傍ら茶の湯にも深く通じているという評判を耳にしました。
紹鴎は、侘び茶を提唱した村田珠光の教えを汲む者たちから茶を学び、唐物の華やかさよりも、簡素な道具立ての中に心の在り方を見出す、という考え方をさらに推し進めているそうです。連歌や和歌に通じる「余情」――言い切らずに余韻を残す味わい――を茶の湯にも持ち込んでいるとも聞きます。
同じ堺には、北向道陳という茶人もいて、こちらも紹鴎に劣らぬ茶の湯者として名が知られています。
堺という町自体が、商人たちの力によって、京とはまた違う独自の文化を育てつつあるように、私には見受けられます。
かつて公家や僧侶たちが都を逃れてこの地に流れ着いたことが、思わぬところで実を結んでいます。
私が京の乱に見入ってしまい、堺の文化を見落としてしまっておりました。村田珠光は一休宗純と親しく交わり、禅の心を茶に映さんとして、「心の文」なる書き付けを遺しました。唐物の華やかさをひけらかすのではなく、質素な道具の中にこそ深い味わいを見出す。この考え方が侘び茶というものの根になりました。
都の雅な作法と、堺という商人町の実利的な気風とが混ざり合って、珠光の蒔いた種が、こうして違う形の花を咲かせようとしているのかもしれません。
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京の政変ばかりを追いかけていた我の目には、これまで堺という町は、ただの「都を逃れた者たちの避難先」としか映っていなかった。だが、こうして改めて見てみると、この町そのものが、独自の力を蓄えつつある。武力ではなく、商いと文化の力で。これもまた、下剋上とは違う種類の「下からの力の伸長」なのかもしれない。珠光を見逃した我の轍を、二度は踏むまい。この紹鴎という男、そして道陳という男、しばらく目を離さずに見ていこうと思う。




