【下剋上の結末編】第七段 三悪、その三 ―― 大仏殿焼失の実相
【下剋上の結末編】第七段 三悪、その三 ―― 大仏殿焼失の実相
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久秀の悪名の中でも、最も重く、最も痛ましいのが、この大仏殿焼失の一件だ。ただ、これもまた、単純な「悪逆非道」の一言では片付けられない話だった。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
永禄十年四月、三好三人衆、東大寺に陣を布き、これに久秀・義継方、多聞山城・戒壇院にて対陣いたし候。両陣、わずか二十町ばかりの近さにて、以来半年、決着つかざる攻防続き候えども、同年十月十日夜、久秀方、夜討ちを敢行いたし候折~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
永禄10年(1567年)4月、三好三人衆は東大寺に陣を敷き、これに対して久秀・義継方は多聞山城と戒壇院に陣取りました。両陣はわずか2キロほどしか離れておらず、以来半年にわたって決着のつかない攻防が続きました。兵力では三人衆・筒井順慶・池田勝正らの連合軍が上回っていて、久秀方はやや劣勢だったようです。
同年10月10日の夜、久秀方はついに夜討ちを敢行しました。夜間の戦いでは鉄砲は使いにくいため、火矢が主に用いられました。この戦いの最中、火の手が上がり、瞬く間に燃え広がって、あの大仏殿までも焼き尽くしてしまいました。大仏の御頭も焼け落ちてしまったそうです。焼け残ったのは二月堂・法華堂・南大門など、ごくわずかでした。
火元は三人衆方の陣地だったと言うものが多く、久秀が大仏殿そのものを狙って火を放ったという証拠は見当たりませんでした。ただ、私が思うに、乾いた秋の夜、木造の堂宇が立ち並ぶ場所で火矢を用いれば、どうなるかは戦をする者なら誰でも予想がつくはずです。狙って焼いたのではないとしても、こうなることをまるで想定していなかったとは、私には思えません。
なお、興味深いことに、東大寺のすぐ近くにある興福寺は、子院の一部が焼けたのみで、伽藍そのものは焼失を免れています。久秀がこの寺には何らかの配慮をしていた、あるいは水面下で話がついていたのかもしれません。
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聖なる大仏を灰にしてしまったことに、言い逃れの余地はあるまい。だが、久秀が憎しみをもって大仏を焼いたのではなく、あくまで敵を討つための火が、たまたま御堂に燃え移った、というのが実のところに近いようだ。意図してやったことと、やむを得ず招いてしまったこと、その間には大きな隔たりがあるはずなのに、後の世では両方とも同じ「悪行」として、一括りに語られてしまうものらしい。
将軍暗殺、主家乗っ取り、そして大仏殿焼失。この三つの悪名、こうして一つずつ確かめてみると、どれも「久秀が自ら望んで為した」というよりは、「事の成り行きの中で、久秀に責めが集まった」という色合いの方が強いように、我には思える。もっとも、だからといって久秀という男が潔白だったとまでは言い切れまい。将軍暗殺では黙認し、主家乗っ取りでは結果として実権を握り、大仏殿焼失では危うい賭けに出た。どの一件にも、久秀という男の食えなさが、確かに滲んでいる。この男、悪人と呼ぶには少し違う。かといって、忠臣と呼ぶにはあまりに食えない。




