【下剋上の結末編】第五段 三悪、その一 ―― 将軍暗殺の実相
【下剋上の結末編】第五段 三悪、その一 ―― 将軍暗殺の実相
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久秀の悪名の中でも、最も重く語られるのが、あの将軍・義輝を弑した一件だ。だが、実際に下界の様子を見ていた感じでは、いささか違う姿が見えていた。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
永禄六年十二月、久秀、嫡男・久通に家督を譲り、大和多聞山城にて隠居の身となり候。永禄八年五月十九日、三好義継・三好三人衆・久通ら、京二条御所を襲い、将軍・義輝を討ち取り候えども、この当日、久秀自身は大和国に在り候て~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
永禄6年(1563年)12月、久秀は嫡男の久通に家督を譲り、大和の多聞山城で隠居の身になっていました。永禄8年(1565年)5月19日、三好義継・三好三人衆・久通らが京都の二条御所を襲撃し、将軍・義輝を討ち取りましたが、この当日、久秀自身は大和国にいて、直接この場に立ち会ってはいませんでした。
下界では「将軍を殺したのは久秀だ」と噂になりましたが、実際に手を下したのは息子の久通、そして三好義継や三好三人衆でした。しかも、当初の狙いは義輝を殺すことではなく、「御所巻」と呼ばれる、大軍で御所を取り囲んで要求を呑ませるという手法でした。
将軍・義輝が自ら剣を取って刺客数名を斬り伏せるほど奮戦したそうですから、事が思わぬ方向に転がり、殺害にまで至ってしまいました。
ただ、久秀が本当に何も知らなかったのかといえば、それも疑わしいところがあります。隠居してなお、多聞山城という京にも近い堅固な城にあって、京の情勢を逐一知らぬはずはなく、息子や甥の動きを止めた形跡も見当たりません。私の見るところ、久秀は自ら手を下しはしなかったものの、事の成り行きを黙って見ていた、というのが実のところではないかと思います。
「将軍を殺した男」という悪名は、どうやら息子の罪を父がまるごと背負わされた形のようです。
ただ、手を下さなかったからといって、まったくの無関係だったとも言い切れない。この曖昧さこそが、久秀という男の食えないところなのかもしれません。
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我はこれまで、権力を握った者が別の誰かに罪をなすりつけられる話を、幾度となく見てきた。だが今回は逆だ。実際に手を下したのは息子でありながら、悪名はすべて父の久秀に集まっている。これはこれで、また違う種類の理不尽だと思う。もっとも、久秀自身がその悪名を、あえて否定せず黙って引き受けていた節もある。汚名を被ることさえ、この男にとっては一つの処世術だったのかもしれない。




