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【下剋上の結末編】第四段 長慶、晩年の凋落

【下剋上の結末編】第四段 長慶、晩年の凋落


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あれほどの権勢を誇った長慶にも、ついに翳りが差してきた。しかも、その翳りは戦場ではなく、身内の相次ぐ死という形でやってきた。今回は、その凋落の様子を書いておこうと思う。

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篁様へ申し上げ候。

此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。

永禄四年、長慶の弟・十河一存、有馬にて湯治の折、落馬にて頓死いたし候。翌永禄五年には、久米田の合戦にて、今一人の弟・三好実休、討死いたし候。長慶を支え候二人の弟、相次いで世を去り~~~~~

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現代語訳

篁様、報告します。

今回見たことを書いておきます。

永禄4年(1561年)、長慶の弟の十河一存が、有馬温泉で湯治をしていた際に落馬して、あっけなく亡くなりました。翌永禄5年(1562年)には、久米田の合戦で、もう一人の弟である三好実休が討死しました。長慶を軍事・統治の両面で支えてきた二人の弟が、たった1年のうちに相次いで世を去ったことになります。

追い打ちをかけるように、永禄6年(1563年)、長慶の跡取りである三好義興が、22歳の若さで急な病に倒れて亡くなりました。義興は将軍・義輝からも厚い信頼を受けていて、「父に勝るとも劣らぬ器量」とまで言われていた人物だったそうです。この知らせを受けた長慶の落胆は激しく、この頃から心身の調子を崩し始めたと聞いています。

そして翌永禄7年(1564年)、長慶に最後まで残っていた弟の安宅冬康が、思いがけない最期を迎えました。「冬康に謀反の企てあり」との報せが長慶のもとに届き、長慶は自らの居城・飯盛山城に冬康を呼び寄せて、手ずから誅殺してしまったのです。この報せの出所については、下界でもいろいろと噂されていますが、久秀という男の讒言によるものではないかという声が、私の耳にも入ってきています。ただ、これは今の時点ではあくまで噂の域を出ないもので、私自身、まだ確かめがついておりません。

弟を自らの手で手にかけた長慶は、深く後悔したと言われています。そしてその同じ年のうちに、長慶自身もまた、病を重くして世を去りました。享年43。わずか3年ほどの間に、二人の弟、跡取りの息子、そしてもう一人の弟までも失い、最後は自分自身が、その悲嘆の果てに命を落とすことになったわけです。

将軍すら凌ぐと言われたあの権勢が、こうもあっけなく、身内の死の連鎖によって崩れ落ちていく。人の世の栄華というのは、刀で討たれずとも、こうして内側から静かに蝕まれていくこともあるのだと、見ていて思い知らされました。

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之長、元長と、非業の死を重ねてきたこの一族に、今度はまた違う形の悲劇が訪れた。今度は敵に討たれたのではなく、身内の死が身内を蝕んでいくという、いわば内側から崩れていく悲劇だ。そして、その崩壊の隙間に、あの久秀という男の影が見え隠れしている。冬康の一件が本当に久秀の讒言によるものなのか、それはまだ私にも分からない。だが、もしそうだとすれば、この男、主家の中で実務を積み重ねるだけでなく、主家そのものを内側から食い破る牙も持ち合わせていることになる。次の段からは、いよいよこの久秀という男の「悪名」の中身について、一つ一つ確かめていこうと思う。


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