【下剋上の結末編】第三段 三好政権の絶頂、久秀の大和侵出
【下剋上の結末編】第三段 三好政権の絶頂、久秀の大和侵出
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長慶という男、ついに将軍すら凌ぐ権勢を手にするに至った。そしてその権勢を大和にまで押し広げる先鋒となったのが、他でもないあの久秀だった。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
天文十八年の江口の一戦より十年、長慶、畿内にてその権勢いよいよ盛んに相成り候。永禄二年八月、河内国にて守護・畠山高政と安見宗房との内訌起こり候折、長慶これに介入し、宗房を大和国へと追い払い候。この追討を名目に、長慶、重臣・久秀を大和へ差し向け~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
天文18年(1549年)の江口の戦いから10年、長慶は畿内でますます権勢を強め、今や将軍・義輝すら凌ぐほどの力を持つに至りました。永禄2年(1559年)8月、河内国で守護の畠山高政と安見宗房という者の内輪揉めが起きた際、長慶はこれに介入して守護方につき、宗房を大和国へと追い払いました。この宗房追討を名目として、長慶は重臣の久秀を大和へ差し向けました。
久秀はこれを機に、宗房と手を結んでいた筒井氏とその配下の国人たちへの侵攻を開始しました。筒井方の居城・筒井城はほどなく陥落し、当主の筒井順慶(当時はまだ藤勝という幼名で、少年でした)は東山中の椿尾上城まで追われて、以後は国中に戻れず、山中に潜んでは奇襲を仕掛ける戦を続けるほかない有様になっています。
久秀はこの侵攻の拠点として、かつて木沢長政が築き、その敗死とともに焼け落ちていた信貴山城を大々的に修築し、四重の天守を構えました。さらに翌永禄3年(1560年)には、大和で長く力を持ってきた興福寺への抑えとして、新たに多聞山城という城まで築いています。
一介の右筆であった男が、今や一国の城持ちとなり、しかも大和随一の寺社勢力である興福寺にまで手を伸ばしている。この変わりようを見ていると、私は改めて、この乱世というものの恐ろしさを思い知らされます。
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之長の代からこれまでを見てきた身として言わせてもらえば、この一族(いや、久秀は之長の血筋ではないが)の伸し上がり方には、共通する型があるように思う。まず主家の内側で信を得て、次に実務を任され、そして機が来れば、外へと兵を伸ばす。久秀もまた、この型をなぞるように、大和という新たな領国を切り取ってみせた。ただ、之長・元長・長慶と続いた三好の血筋とは違い、久秀という男には、そもそも守るべき「家」というものが、まだない。この男が、この先何を守り、何を奪っていくのか、我には見当もつかない。




