【下剋上の結末編】第十八段 光秀という男
【下剋上の結末編】第十八段 光秀という男
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信長のもとには、様々な出自の家臣が集まっていた。素性の知れぬ久秀もいれば、この明智光秀のように、由緒ある家柄から浪々の身を経て仕えた者もいる。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
光秀、美濃の明智氏の出にて、清和源氏の流れを汲む土岐氏の一族と伝え候。弘治二年、主家たる美濃の斎藤氏、長良川の戦いにて父・道三敗死いたし候折、明智の城もまた攻め落とされ、光秀、浪々の身と相成り候。以来十年ほど、越前の朝倉義景を頼り~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
明智光秀は、美濃の明智氏の出だそうで、清和源氏の流れを汲む土岐氏の一族と伝えられています。弘治2年(1556年)、美濃の斎藤家中で内訌が起き、斎藤道三が息子の義龍に敗れて討死した際、道三方についていた明智の城も攻め落とされ、光秀は浪々の身となりました。以来10年ほど、越前の朝倉義景を頼り、称念寺という寺の門前に暮らしていたそうです。この頃、医術の心得も身につけました。
その後、光秀は将軍・義輝の弟である足利義昭に仕えるようになりました。永禄11年(1568年)、義昭が信長を頼って上洛を目指した際、光秀はこの交渉に深く関わり、義昭の家臣でありながら、同時に信長の家臣としての性格も帯びるようになっていきました。ひとりの武士が二人の主君に仕えるというのは珍しいことですが、光秀はしばらくこの微妙な立場を保っていました。
信長と義昭の間に不和が生じた際、光秀は迷わず信長の側につきました。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちにも功を挙げ、坂本城の城主となり、天正元年(1573年)の朝倉攻めにも加わりました。その後は丹波国の攻略という難事業を任され、これを粘り強くやり遂げています。一国の攻略を任されるのは、柴田勝家や羽柴秀吉といった重臣に限られていたそうですから、光秀もまた、この頃には信長の重臣の一人に数えられていました。
由緒正しい家柄に生まれながら、一度は城も家も失い、浪人としての雌伏の時を経て、実力によって再び武門の座に返り咲く。之長や久秀のような、素性の知れぬ者たちの成り上がりとはまた違う、いわば「没落した名家の再興」とでも呼ぶべき道のりを、この男は歩んできました。
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我はこれまで、素性の知れぬ者たちが実力でのし上がっていく様を、数えきれぬほど見てきた。だが、この光秀という男は、それとは少し違う。もとより家柄はある。それを一度失い、浪々の身で耐え忍び、そして今、信長という主君のもとで、再びその家柄にふさわしい地位を取り戻しつつある。ただ、家柄を重んじる者ほど、時に己の来し方に強いこだわりを持つものだ。この男が、いつまでも信長という、家柄も血筋も顧みぬ主に、大人しく仕え続けられるものかどうか、我にはいささか気にかかるところがある。




