【下剋上の結末編】第十七段 信長、駆け足の天下取り
【下剋上の結末編】第十七段 信長、駆け足の天下取り
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久秀ばかりを追いかけているうちに、信長自身の歩みについては、ずいぶんと端折って書いてきてしまった。ここらで一度、この男の歩みをまとめて振り返っておこうと思う。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
永禄三年、信長、桶狭間にて今川義元を討ち取り、その名を一躍高め候。永禄十年には美濃の斎藤氏を逐い、稲葉山を「岐阜」と改め、「天下布武」の印を用い始め候。翌年の上洛は、すでに書き記し候通りにて~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の合戦で今川義元を討ち取り、その名を一躍高めました。永禄10年(1567年)には美濃の斎藤氏を逐って、稲葉山城を「岐阜」と改め、「天下布武」の印判を用い始めました。翌年の上洛については、すでに久秀の話の中で書いた通りです。
その後の信長の歩みも、駆け足で記しておきます。元亀元年(1570年)、姉川で浅井・朝倉の連合軍を破りました(金ヶ崎からの退却の直後のことです)。翌元亀2年(1571年)には、反信長の勢力をかくまっていた比叡山延暦寺を焼き討ちにし、下界を大いに驚かせました。天正3年(1575年)には、長篠の合戦で武田勝頼の軍勢を、大量の鉄砲をもって打ち破りました。
天正4年(1576年)からは、近江の安土に壮大な城を築き始め、政治の中心をここに移しました。天正8年(1580年)には、長年争ってきた石山本願寺との和議がついに成り、本願寺は大坂の地を明け渡しました。
一つ言えるのは、久秀のような一代の梟雄がその生涯を懸けて成し得たことを、信長という男は、まるで幾つも並行してやってのけているように見える、ということです。
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之長や早雲が一つの城、一つの国を奪うのに何十年もかけたのに対し、この信長という男は、駆け足で幾つもの国を切り取っていく。もはや下剋上という言葉さえ、この男の前では小さく見えてしまう。だが、これほどの速さで駆け上がった者には、それだけ多くの恨みも溜まっていくものだ。この先、この男の天下取りがどこまで続くのか、我にはまだ見当もつかない。




