【下剋上の結末編】第十六段 信長、茶の湯をもって政をなすこと
【下剋上の結末編】第十六段 信長、茶の湯をもって政をなすこと
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久秀が命と引き換えにしてまで守ろうとした、あの名物茶器。思えば、この信長という男、茶器というものに、我が思っていた以上の重みを与えていたようだ。少し詳しく調べてみようと思う。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
信長、永禄十一年の入京以来、「名物狩り」と称して、京・堺の名物道具を次々と集め候。かの久秀より献上されし「九十九髪茄子」も、その最初の一つにて候。あわせて千宗易・今井宗久・津田宗及ら、堺の茶人どもを茶頭として召し抱え~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
信長は、永禄11年(1568年)の入京以来、「名物狩り」と称して、京都や堺にある名物の茶道具を次々と集めてきました。以前書いた、久秀が献上した「九十九髪茄子」も、その最初の一つだったようです。あわせて、千宗易、今井宗久、津田宗及といった堺の茶人たちを茶頭として召し抱えました。
千宗易は、以前書いた武野紹鴎という堺の茶人に学んだ者だそうです。あの珠光から紹鴎へと受け継がれた侘び茶の心を汲む者が、こうして信長のもとに召し抱えられているのを見ると、私が見逃していたあの一件も、こうして時を経て、下界の表舞台に繋がっていたのだと、感慨深いものがあります。
信長にとって、茶の湯とは、ただの風雅の道ではなかったようです。功のあった家臣に、土地の代わりに名物の茶器を、褒美として与える。あるいは、特に信頼する家臣にだけ「茶の湯を催してよい」という許しを与える。
家臣たちにとっては、名物の茶器を賜ることも、茶会を催す許しを得ることも、この上ない誉れとなっているようです。刀や城ではなく、一椀の茶碗、一つの茶入れが、武功の証となる。これもまた、信長という男が生み出した、新しい形の政のあり方だと思いました。
久秀が最後に守ろうとした「平蜘蛛」も、思えばこの信長の茶の湯政道の中でこそ、あれほどの重みを持つに至ったものなのでしょう。茶器一つで人の忠誠を測り、茶器一つで人を動かす。刀ではなく、茶碗で天下を治めようとする。これもまた、下剋上の時代がたどり着いた、一つの奇妙な果てなのかもしれません。
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珠光が蒔いた種を、我は一度は見逃した。だが、こうして紹鴎を経て、堺の商人町を経て、ついには天下人の政の道具にまでなっていったのを見ると、地味な文化の芽吹きというものが、いかに長い時をかけて、思わぬところに実を結ぶものか、改めて思い知らされる。政の大事件ばかりを追いかけていた我の目には、この流れの全貌は、ついぞ見えていなかった。だが、こうして最後にその行き着く先を見届けられたことは、我にとって、いくらかの慰めになる。




