【下剋上の結末編】第十五段 久秀、信貴山にて果てること
【下剋上の結末編】第十五段 久秀、信貴山にて果てること
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ついにこの日が来た。久秀という男の、長きにわたる乱世遊泳の、最後だ。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
天正五年八月、石山本願寺を囲みおりし久秀、突如天王寺の砦を焼き払い、子・久通とともに信貴山城へ籠城いたし候。本願寺・毛利・上杉、反信長の機運高まる折を見計らいての離反にて候。信長、使者・松井友閑を遣わし、その真意を問わせ候えども、久秀ついに会おうとせず~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
天正5年(1577年)8月、石山本願寺を包囲していた久秀は、突如天王寺の砦を焼き払い、息子の久通とともに信貴山城に籠城しました。石山本願寺、毛利、そして上杉謙信と、反信長の機運が高まっているのを見計らっての離反だったようです。信長は使者の松井友閑を送って、その真意を尋ねさせましたが、久秀はついに会おうともしなかったそうです。
信長は、久秀が所持する名物茶釜「平蜘蛛」を差し出せば命は助けると伝えたとも聞きました。しかし久秀は、これに対してこう答えたそうです。「蜘蛛の釜と我らの首、この二つだけは、信長公にお目にかけるつもりはない」。これを聞いた信長は激怒し、京都に人質としていた久秀の孫2人を、見せしめとして六条河原で斬首してしまいました。
9月27日、信長の嫡男・信忠を総大将とする4万の大軍が出陣し、10月5日には信貴山城への攻撃が始まりました。城方は久秀・久通父子の指揮のもとよく防いでいましたが、8日夜、味方から離反者が出て、10日未明、ついに総攻撃が始まりました。城内に忍び込んだ筒井勢が火を放ち、混乱の中、久秀は天守に登って自ら火を放ち、平蜘蛛の茶釜を粉々に打ち砕いた後、久通とともに自害しました。
孫の命と引き換えにしてまで、茶釜一つを渡すことを拒む。これまで見てきた久秀という男の、損得ずくの身の処し方からすれば、あまりに不合理な選択に見えます。かつて茶器一つで信長に頭を下げ、命を長らえさせてきた同じ男が、最期には、茶器を渡すくらいなら死を選んだのです。
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我は、この男をずっと「損得だけで動く、武家の作法を信じない男」だと見てきた。だが、この最期を見て、少し考えが変わった。久秀は、義理や面目という武家の作法は確かに信じていなかったのだろう。だが、それは「何も信じていなかった」ということとは違う。この男が最後まで守ろうとしたのは、家の誇りでも、主への忠義でもない。「己の値打ちを、他人に勝手に決めさせない」という、久秀独自の一線だったのではないか。
信長は、久秀を最後まで「使える道具」として扱った。命を助ける条件として、名物の茶器を差し出せと言う。それはまるで、久秀という男自身を、茶器と同じ「モノ」として値踏みするような仕打ちだ。之長や早雲のように、武家の作法に殉じて死んだ者たちとは、久秀の最期はまるで違う。この男は、武家の美学に殉じたのではない。むしろ、それを最後まで小馬鹿にし続けた男が、それでも譲れなかった、たった一つの意地を通して死んでいったのだ。そんな気が、我にはしてならない。
之長の代から数えて、三代にわたる三好の一族を見てきた。そして最後に、その一族の外側から現れた、この素性の知れない男を見届けた。久秀の生涯は、武家の物語の中に、まったく違う理屈で生きた者の記録として、我の中に長く残ることだろう。




