第8話 従魔契約
「クロド、待たせたね。さあ、行こうか」
俺は腰をかがめ、ブラックドッグのクロドのふかふかとした漆黒の頭を優しく撫でながら、静かに部屋を出ることを告げた。半日もの間、嫌な顔一つせず俺のレベリングに付き合ってくれた、最高に頼もしい相棒への合図だった。
「今から時間的に、地上は夜になると思うが……寝なくても良いのかワン? 儂は魔獣で夜行性だから何時間でも問題ないがなワン」
クロドは大きな耳をパタパタと動かし、燃えるような赤い瞳に本気の心配をにじませて俺を見つめてくる。ハァハァと舌を覗かせるその仕草は、大型犬らしい愛嬌に満ちていた。
「大丈夫、1日くらい徹夜しても平気さ。何より、あの連中がうろついているかもしれないこんな薄暗いダンジョンからは、一刻も早くおさらばしたいからね」俺は後頭部の鈍い痛みを指先で確かめながら、自嘲気味に微笑んだ。戦えないからと丸腰で奈落に突き落とされたあの屈辱と恐怖は、そう簡単に消えるものではない。一刻も早く力をつけ、ここを脱出する。それが今の俺のすべてだった。
「ふむ、なるほどワン。ならば出発する前に、儂から一つ素晴らしい恩恵を与えてやるワン。ユウマは見るからにレベルが低くて危なっかしいから、儂と『従魔契約』を結ぶのだワン。これをしておけば、儂が敵を屠っても、その経験値がすべてユウマの血肉になるのだワン!」
「えっ、そんなことまで出来るのか!? 今の俺にはこれ以上ない救いだ。ぜひ、お願いするよ」
俺が歓喜に目を見開くと、クロドは満足そうに鼻を鳴らし、その大きな胸を誇らしげに張った。
刹那、クロドの巨体が淡く幻想的な白い光を放ち始めた。光の粒子が周囲の闇を払い、そこから一本の輝く光の糸が伸びて、俺の胸へと吸い込まれていく。同時に、視界の右上に前世のゲームを彷彿とさせる半透明のシステムウィンドウが展開され、頭の中に無機質なアナウンスが響いた。
《ブラックドッグ(クロド)が仲間になりたそうにこちらを見ている。従魔契約を締結しますか? [Yes] / [No]》
前世の国民的ゲームのような既視感に苦笑しつつ、俺は脳内で迷わず [Yes] の文字を強く選択した。
《従魔契約が正常に締結されました。個体名『クロド』が従魔として登録されます》
「……すごいな、本当に契約が成立した。テイマーの職業を授かっていなくても、こんな奇跡みたいなことが起こるんだね」俺は自分の胸に手を当て、クロドの魂と細いラインで繋がったかのような、不思議な一体感に酔いしれていた。
「テイマーの職業持ちはシステムを介して強制的に契約を迫れるが、モンスター側から自発的に主を選ぶ場合は、相手の職業など関係ないのだワン。儂がユウマを相棒と認めたからこそ成せる業だワン!」
「そうか、選んでくれて光栄だよ、クロド。よし、それじゃあ行こう!」
「おうだワン! 儂の背に乗るが良いぞワン。走りの速度には自信があるワン!」
クロドは流れるような動作でその場に伏せ、俺が跨りやすいように背を差し出してくれた。
「ありがたく甘えさせてもらうよ」
俺はクロドの頑強な背中に跨り、衣服の上からその漆黒の長い被毛を両手でしっかりと掴んだ。最高級の絨毯を思わせる、圧倒的なモフモフの密度。
部屋を後にすると同時に、俺はレベル3で覚えた新スキル『空間把握(小)』を脳内で発動させた。現在地を中心とした三次元的な構造マップが、青い光のグリッド線となって脳裏に鮮明にダウンロードされていく。
「道は分かるかワン?」
クロドが大きな頭部を少しだけ巡らせ、低い声で問いかけてきた。
「ああ、完璧だ。『空間把握』のレーダーがあるから、この階の構造も、敵の配置もすべて視えているよ。迷路なんて、今の俺たちにはただの直線道路と同じさ」
「頼もしいワン! ならばナビゲーションはすべて任せたワン。儂は全力で駆けるワン!」
「よし、それじゃあ最初の分岐を右だ、頼む!」
「了解だワン!!」
クロドが太い四肢で岩の床を爆発的に蹴り上げた。凄まじい加速。G(重力)が身体を圧し、周囲の景色がまたたく間に後ろへと置き去りにされていく。俺は落とされまいと、必死にその長い毛にしがみついた。
しばらく通路を猛スピードで突っ切っていると、脳内レーダーの数十メートル先に、不気味に蠢く『2つの赤い光』が感知された。
「クロド、この先の角を曲がってすぐに、リビングアーマーが2体待ち伏せしている! いけるかい?」
「問題ないワン! 儂は長年この穴でスライムを捕食し続けてきたからな、そこいらの有象無象とはレベルの桁が違うのだワン!」
獰猛な笑みを浮かべたクロドは、速度を一切緩めることなく、直角の曲がり角を鮮やかに駆け抜けた。
カシャイン、カシャイン!
前方に、錆びついた大剣を構えた鋼鉄の巨躯が2体。だが、それらが動くよりも早く、クロドが漆黒の弾丸と化して激突した。圧倒的な衝撃波と共に、2体のリビングアーマーをまとめて岩壁へと叩きつけ、力ずくで押し潰す。
「ユウマ、今だワン!」
「――『収納』ッ!」
クロドの背から、俺は2メートル以内に固定された鎧の胸元へ向けて手をかざした。狙うは、装甲の隙間で怪しく明滅する魔石。
進化した『空間収納(小)』が発動し、非接触のまま、リビングアーマーの核である魔石だけが、空間を無視して俺の『亜空間』へとシュートされた。
ガラガラガラッ……!!
動力源を物理的に消し去られた鎧たちは、ただの重い鉄の塊へと成り果て、一言の断末魔もなく床へと崩れ落ちた。
《リビングアーマーの討伐を確認。経験値を獲得しました》
《レベルアップしました》
脳内に心地よい通知音が響き渡る。
やはり深層の魔物は経験値の効率が段違いだ。これなら爆速で強くなれる。
「んんっ!? 儂、まだ一噛みもしていないのに、敵が勝手に崩壊して死んだワン……」
クロドは前足で鉄の残骸を小突きながら、信じられないものを見たと言わんばかりに、その理知的な眼を丸くしている。
「ふふん、これが俺の新しいスキルさ。半径2メートル以内なら、触れなくても魔石だけを直接『収納』して倒せるようになったんだよ」
俺が少し不敵に笑って種明かしをすると、クロドは「ワン!」と歓喜の声を上げた。
「おお……! なんという恐ろしくも美しいスキルだワン! 儂が捕らえ、ユウマが消し去る。完璧な連携だワン!」
「さっきレベルが上がって覚えたばかりだけどね。これならどんな敵が来ても怖くないさ」
俺は床に散らばるリビングアーマーの死骸(鉄屑)を、今後の資金源として『空間収納』で手際よく回収していく。ただ、その内の1体が所持していた、最も手入れの行き届いた鋼鉄の長剣だけは収納せず、護身用として自分の腰のベルトへとしっかりと固定した。冷たい柄の感触が、俺に冒険者としての新たな覚醒を自覚させる。
その後も、俺たちの進撃は止まらなかった。孤立したリビングアーマーを見つけては、クロドの俊足からの『非接触・魔石抜き取り』で一瞬でスクラップに変え、複数体の集団がいる場合は、脳内マップで事前に察知してスマートに迂回した。
安全を最優先にしたまま、俺たちは上の階層へと続く堅牢な石の階段へと辿り着いた。
階段を軽快に駆け上がり、新たな階層へと足を踏み入れた瞬間、俺はすぐに『空間把握』を再展開した。
すると、脳内マップの少し離れた大部屋の中に、激しく乱高下する『4つの青い光』と『大量の赤い光』が映し出された。
点たちの動きからして、間違いない。あの4人――『焔の剣』が、モンスターの群れに囲まれて絶望的な戦いを強いられている。
「……ハッ」
胸の奥から冷たい嘲笑が漏れ出た。
今さらあの裏切り者どもを助けてやる義理など、微塵もない。思うところは山ほどあるが、今は完全無視が正解だ。自業自得の末路を、その身でたっぷりと味わえばいい。
「この階のモンスターは、ゾンビとグールだね」
俺はクロドに告げ、先ほどと同様の戦術を徹底した。
単独の個体に狙いを定め、クロドのスピードで肉薄。相手が気づくよりも早く、進化した空間収納で胸の魔石を抜き去る。
バシャリ、バタン。
腐敗した化け物どもが、何が起きたかも理解できずにただの肉塊へと還っていく。衣服を汚すことも、悪臭にまみれることもない。これ以上ないほど清潔でスマートな狩りだ。さらに上の階層のスケルトンエリア、そのまた上のゾンビエリアも、俺たちは何一つ問題を起こすことなく、まるでピクニックでもするかのような手軽さで、安全に踏破していった。
◇
――さて、少しだけ時間を巻き戻そう。
ユウマを奈落の底へ突き落とした、高貴なるSランクパーティー『焔の剣』の面々はというと。
夜通し襲いかかった凄絶な下痢と腹痛の嵐がようやく収まり、4人はボロボロの体で交替で見張りを行っていた。
現在は、弓使いのヒマリが不寝番の当番。リーダーのミナト、魔法使いのアオイ、回復士のユイナの3人は、寝不足と腹痛の疲労から、寝袋の中で死んだように泥睡していた。
しかし、肝心のヒマリも、あまりの疲れから岩壁に背中を預けて激しくウトウトと船を漕いでいた。
当然、そんなガバガバな警戒網では、ダンジョンの暗闇から静かに這い寄ってくるゾンビの接近に気づくはずもない。
ピチャ、ピチャ……。
洞窟の奥から、ねっとりとした足音と共に、鼻が曲がるほどの強烈な腐臭が部屋の中に立ち込める。
「……ん、うぅ……なに、この臭い……?」
顔をしかめてようやく目を覚ましたヒマリは、眼前にまで迫っていたゾンビの、腐り落ちた醜悪な顔面と視線がバッチリと合ってしまった。
「う、うああああああああああああーーーっっっ!?」
部屋中に、ヒマリの鼓膜を引き裂くような大絶叫が響き渡る。
「な、なんだ!? 敵襲かっ!?」
ミナトがガバッと寝袋を跳ね除け、慌てて剣を抜いて飛び起きた。
だが、視界に飛び込んできたのは、防衛ラインを完全に突破され、すぐ目の前まで迫っている大量のゾンビの群れだった。
「ちっ!! おいユウマ!! 何やってんだお前は! 敵がこんな近くに来るまで、なんで警告しねえんだよぉお!!」
寝起きの混乱した頭で、ミナトはいつものように理不尽な怒声を張り上げた。
いつもなら、ユウマが野営地の周囲に完璧な防壁を築き、夜間は『魔除けの魔道具』を正確にセットしてくれていたから、こんな不意打ちを喰らうことなど絶対にあり得なかったのだ。
ミナトのアイテムバッグの中には、奪い取ったその魔道具がしっかりと入っている。だが、どれがその魔道具なのか、どうやって起動するのか、ポンコツな彼らには一切分からなかったため、原始的な見張りに頼るしかなかったのだ。
「いやぁあああ! 来ないで! 臭い! 汚い!!」
回復士のユイナは、戦うことすら放棄して真っ先に寝袋から這い出し、部屋の隅へと逃げ惑う。
「ちょっとユウマ、しっかりしなさいよ!! こんな失態犯すなんて、次の給金は無しにするわよぉおおお!!」
アオイも寝癖だらけの頭を抱えながら、ヒステリックに虚空に向かって怒鳴り散らした。
「ユ、ユウマは……ユウマなら、さっきあんたたちがクビにして、ダンジョンに置いてきたでしょぉおおおおお!!」
ゾンビの爪から必死に逃げ回りながら、ヒマリが涙目で真実を絶叫する。
「「「あ……っ!!」」」
その瞬間、3人の脳裏に、自分たちが犯した取り返しのつかない大失態の重さが、ようやくズシリと圧しかかってきたのだった――。




