第75話 剣姫の覚醒あるいは国境なき逃亡者
王家専属騎士隊の副隊長デミツヒが、アスカの一刀のもとに文字通りの肉塊と化し、崩壊したアジトの前には非現実的な静寂が広がっていた。あまりの惨劇に、周囲を取り囲んでいた大勢の騎士たちは完全に恐怖で硬直したが、すぐに我に返ったように一斉に剣を抜き、アスカを幾重にも包囲した。
「おい、アスカ……なんてことを……」
ベーマタ騎士団長が、悲痛な声を漏らしながら歩み出た。彼は持っていた槍をあえて地面に深く突き刺すと、両手を大きく広げて見せ、自分に戦う意思がないことをアピールする。
「アスカ、頼むからもう剣を引いてくれ。今ならまだ、俺が国王陛下に直接謁見して事の顛末を釈明してやる。お前が嵌められたのだと、全力で弁護するから……一緒に王都へ行こう」
それは、騎士団長としての義務を捨てた、一人の大人としてのアスカへの懇願だった。しかし、大剣を再び右肩へと無造作に乗せたアスカは、半身の構えを崩さないまま、冷徹なまでに冷え切った瞳で首を横に振った。
「無駄だよ、団長さん。いくらワタシが嵌められたんだとしても、王家専属の副隊長をこうして大勢の目の前で殺してしまったんだもの。流石にそこまでいったら、もうどんな釈明も通用しない。……それくらいのことは、ワタシにだって分かるよ」
アスカの声には、いつもの無邪気さは微塵もなかった。彼女自身、自分が一線を越えてしまったことを誰よりも理解していたのだ。
「むむ……。どうしても、俺と一緒に来るのは無理か?」
「無理だね。ワタシはもう、この国にはいられない。おとなしく捕まって、地下牢で言い訳を並べるなんてワタシらしうないもの」
アスカの固い決意を察したベーマタ騎士団長は、深い不条理に対する怒りを押し殺すように顔を歪めると、スッと視線を俺の方へと向けた。その瞳に宿る光を見て、俺は彼の意図を察する。
「ユウマ……。すまないが、いつか君と交わした、あの『依頼』をここで果たしてくれ」
いつかの依頼──すなわち、もしアスカが暴走し、誰の手にも負えなくなった時は、俺の特殊な空間魔法で彼女の身柄を安全に確保してほしい、という約束だ。
「……分かりました」
俺は小さく頷くと、アスカに向けて即座にスキルを発動した。
──『封印』。
彼女の全身を囲む空間そのものを強固に固定し、いかなる物理的・魔術的干渉も受け付けない檻へと閉じ込める。アスカは俺の動きを警戒してか、いつの間にか大剣を頭上高くに振りかぶっていたが、まさにその攻撃の姿勢のままでピきりと完全に固まった。
「ふぅ……。ひとまず固定は完了しました。団長さん、このままアスカを連れて王都に行くのですか? それとも……」
俺の問いかけに、ベーマタ騎士団長は苦しげに目を伏せ、冷酷な現実を口にした。
「いや、これほどの国家反逆だ。生かして連れて行けば、王都の広場でどれほど惨めな見せしめにされるか分からん。……いっそ、ここで殺してから、遺体として王都へ連れていくべきだろうな。それが、せめてもの情けだ」
「……本気ですか?」
俺は息を呑んだ。いくら彼女が危険な暴走者だとしても、昨日まで一緒に笑ってダンジョンを攻略していた仲間なのだ。
「俺は依頼通り『捕獲』まではしますが、彼女を自分の手で殺すつもりはありません。ベーマタさんが本当に彼女をここで殺すというのなら……俺の『封印』を一旦解除しなきゃいけませんね。封印された空間の中には、外部からの攻撃が一切届きませんから」
俺の心の中で、前世の一般人としてのヘタレの虫が激しく自己主張を始めていた。いくらこの世界の理不尽さに慣れてきたとはいえ、ついさっきまで背中を預け合っていた女の子を無抵抗な状態で殺すなんて、やっぱりどうしても激しい抵抗感がある。
「うむ……。そうだな、君にアスカの命を奪うことまで押し付けるのは申し訳ない。これは我が国の不始末だ。やむを得ない、俺がここで彼女を始末しよう」
ベーマタ騎士団長は意を決したように、地面に突き刺していた槍をゆっくりと引き抜いた。その刃先が、夕闇の中で鋭く煌めく。
◇◇
「──危ないワンッ!!」
その瞬間、俺の足元にいたクロドが突如として狂ったように吠え、俺の服の襟元を鋭い牙でガッとしがみついて、猛烈な勢いで後ろへと引っ張った。
ズガッ!!!!
「え……っ!?」
直後、鼓膜を震わせるような凄まじい衝撃音が響き渡る。俺が間一髪で引きずり倒されたその場所には、大地を深く抉り取るほどの凶悪な斬撃の痕跡が刻まれていた。
「ハァアアア、ハァ……ッ! ワタシに、斬れないモノは、無い……っ!」
もうもうと立ち込める土煙の向こう側。そこには、大剣を深く振り下ろした姿勢のアスカが、肩を激しく上下させながら立っていた。その全身からは、血を流さんばかりの凄まじい闘気が吹き荒れている。
嘘だろ……? 俺の『封印』を、自力の剣気だけで力任せに斬り裂いて脱出したというのか!?
ゾワッ、と全身の毛穴が逆立ち、背筋に冷たい汗が止めどなく流れ落ちる。これが、本物のSランク冒険者の底力。理屈やスキルを超越した、圧倒的な暴力の化身がそこにいた。
「う、うわあああ! 構えろ! 剣を抜け!」
周囲の騎士たちが、パニックを起こしながら一斉に剣を構え直す。ベーマタ騎士団長も信じられないものを見る目で槍を握り直した。しかし、アスカの視線は、周囲の雑魚には一切向いていない。彼女は大剣を再び上段へと無造作に振りかぶると、ただ一人、俺の存在だけをその狂気的な瞳で凝視していた。
ヤバい。完全に本気だ。俺の空間魔法を最大の障害と見なして、最初に排除するつもりだ。
「ユウマ、危ない! そこから逃げろ!」
騎士団長の叫び声が遠く聞こえる。
「ワタシに斬れぬ物は無い。ワタシに斬れぬ物は無い。ワタシに斬れぬ物は無い。ワタシに斬れぬ物は無い。ワタシに斬れぬ物は無い……!」
アスカは壊れた人形のように不気味な独り言をぶつぶつと呟きながら、俺との間合いを一瞬で詰めてくる。その一歩一歩が、周囲の空気を歪めるほどの重圧を放っていた。
俺は生存本能のままに、自身の全身に絶対不可侵の『亜空間』の鎧を纏わせると同時に、迫り来るアスカの目の前の空間へ、最大出力の『亜空間の防壁』を幾重にも展開した。
瞬間、彼女の大剣が目にも留まらぬ速さで振り下ろされる。
「駄目だワン! 防げないワン!」
クロドが叫びながら、俺の身体に決死の体当たりを敢行した。俺はその勢いで無様に地面を転がり、クロドもまたその横へと激しく転がっていく。
パリーン!!!
ズシャッ!! 「ぎゃああああああっ!?」
まるでガラスが割れるような美しい音が響き、俺がアスカの前に展開したはずの『亜空間の防壁』が、まるでただの薄紙のように真っ二つに切断された。それだけにとどまらず、その刃から放たれた目に見えない凄まじい斬撃の余波は、俺の遥か後方に控えていた不運な騎士たちの身体を、甲冑ごと一瞬で両断して血の海を作っていた。
嘘だろ……世界の理である亜空間そのものを切断するなんて、そんなのもう魔法とか剣技の域を超えている!
クロドが必死に体勢を立て直し、鋭い牙を剥き出しにしながら俺の前に立った。
「ユウマ、あいつの剣気は異常だワン! さっきの『封印』が切断された時点で気づくべきだったワン、今のあいつにかかれば、どんな『亜空間』の壁だろうと全て文字通りに斬られるワン!」
「……分かってる。そうだね、まともに防御を考えてたら、こっちの命がいくつあっても足りないや」
俺は立ち上がり、泥まみれになりながらもアスカを鋭く睨み据えた。アスカは振り下ろした大剣を、今度は地面スレスレの『下段』へと滑らかに構え直す。
「ワタシに斬れぬ物は無い。ワタシに斬れぬ物は無い。ワタシに斬れぬ物は無い。ワタシに斬れぬ物は無い……」
◇◇
「──そこまでだ、二人とも剣を引け!!」
激突の直前、ベーマタ騎士団長がこれまでにない大音量で、地を揺るがすような怒号を響かせた。
その圧倒的な覇気に、アスカの動きが一瞬だけピタリと止まる。騎士団長は槍をゆっくりと下ろし、完全に戦意を喪失した表情でアスカを見つめた。その目には、すべてを諦め、受け入れた大人の覚悟が宿っていた。
「……もう、やめよう。アスカ、俺の負けだ。お前をこの国に縛り付けることも、ここで命を奪うことも、今の俺たちにはできん。これ以上の流血は無意味だ」
「団長さん……?」
アスカの瞳から、次第に狂気の色が薄れ、困惑の表情へと変わっていく。
「デミツヒの件は、すべて俺の目の前で起きた『事故』だ。奴が我々の静止を無視して暴走し、崩落に巻き込まれて命を落とした。……そういうことにして、俺が上の連中を丸め込んでやる」
騎士団長は静かにアスカの後方に広がる暗い夜の森へと視線を向けた。
「アスカ、今すぐここから去れ。この国の誰も手が届かない、遥か遠くの他国へ逃げるんだ。お前ほどの腕があれば、どこの国に行ってもたくましく生きていけるだろう」
「……いいの? ワタシを逃がしたら、団長さん、ただじゃ済まないよ?」
アスカが痛ましそうに声を潜める。しかし、騎士団長はフッと自嘲気味に笑ってみせた。
「元より、身内の不始末を止められなかった責任は俺にある。……さあ、行くんだ! 俺の気が変わらないうちにな!」
アスカはしばらくじっとベーマタ騎士団長を見つめていたが、やがて大剣を静かに背中へと収めた。そして、隣で泥まみれになっていた俺の顔を見て、いつもの不敵で悪戯っぽい、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。
「……ありがと、ユウマ。団長さんも、元気でね! みんな、ワタシがいなくなっても寂しがっちゃダメだからね!」
アスカは最後にそう言い残すと、驚異的な脚力で地面を強く蹴り上げた。
その身体は夜風を切り裂き、包囲していた騎士たちの頭上を軽々と飛び越え、深い闇が広がる国境沿いの森の中へと、またたく間に消え去っていった。その引き際の鮮やかさは、まさに一陣の疾風のようだった。
「……行ってしまったな」
ベーマタ騎士団長が、ぽつりと呟く。
「よかったんですか、団長さん」
俺が問いかけると、騎士団長は深く、深くため息をつきながら槍を完全に収めた。
「ああ。これでいい。大罪人『剣姫アスカ』は、我が騎士団の手を逃れ、そのまま行方不明となった……そういう報告書を上げることにしよう。恩に着るぞ、ユウマ。君が彼女の標的にならずに済んで、本当に胸をなでおろしている」
「いえ、俺も彼女を殺さずに済んで、正直ホッとしています」
俺は苦笑いしながら、相棒のクロドの頭を撫でた。こうして、王都を揺るがした最強の剣士は、一人の国境なき逃亡者として新天地へと旅立っていった。俺達の目の前には、まだ解決すべき『蜘蛛の牙』の残党と、黒幕の存在が残されている。俺達は気持ちを切り替え、次なる目的地へと歩みを進めるのだった。




