第6話 ブラックドッグ
「――ゲホッ、ゴホッ……っ!」
激しく水を吐き出し、俺の意識は覚醒へと引き戻された。胸を苦しめていた窒息感から解放され、貪るように冷たい空気を肺に吸い込む。
……助かった、のか……?
確か、底なしのスライムの沼に沈み、意識を失ったはずだ。混乱する頭を揺らしながら、視線を己の身体へと落とした。その瞬間、硬直する。
「うおっ……!?」
俺の胸の上に、威圧感を放つ黒く頑強な前足が乗せられていた。視線をさらに上げると、そこには一頭の巨大な黒い魔獣が佇んでいた。その瞳は、暗闇の中でらんらんと赤く燃えている。ハァ、ハァ、と荒い息を吐きながら、長い舌を覗かせて俺を覗き込んでいた。
「……ブラックドッグ……!」
ダンジョンの深層に生息する凶悪なモンスター。前世の地球で見た大型犬種『ニューファンドランド』に驚くほど似ている。だが、目の前の個体は体高がゆうに1メートルを超え、骨格も二回りは巨大だ。小さな垂れ耳に、奥まった理知的な眼。ふかふかとした長い漆黒の被毛に包まれたその足元には、水掻きのような組織が見て取れた。
「助かったようだな、ワン」
「――え?」
低くハスキーな声が、目の前の黒い犬の口から漏れ出た。驚愕に目を見開く俺に、彼は当然のように言葉を重ねる。
「儂の名前はクロドだワン」
「お、俺はユウマだ……」
どうやら明確な敵意はないようだ。
クロドは俺の胸から静かに前足を退けると、行儀よくその場に腰を下ろした。
「……君が、俺を水から引き上げてくれたんだね。ありがとう」
「主の遺言だからな、ワン」
「遺言、って……?」
「そうだワン。儂は元々野良のモンスターだったが、前の主はテイマーだったワン。このダンジョンで深手を負った主と儂は、この落とし穴に転落してしまったワン。主は息を引き取る間際、『いつかこの穴に落ちてくる者がいたら、儂の代わりに助けてやってくれ』と遺言を残したのだワン」
「そうだったのか……。本当に命の恩人だよ、ありがとう」
俺はふらつく身体を起こし、周囲を観察した。淡い光に照らされた岩壁の先、このエリアの出口とおぼしき重厚な鉄の扉が目に入る。
「クロドは、ここから出ないの? もし良ければ、俺と一緒に来てほしいんだけど」
「儂の爪ではあの扉を開けられなかったのだワン。開けてもらえるなら、ぜひ同行したいワン!」
「良かった。俺は戦うスキルを持たない無能だから、君がいてくれると本当に心強いよ」
「よろしくワン!」
クロドは弾むような足取りで扉へと歩き出す。
「あ、クロド、少し待ってくれ」
「ワン?」
「今のまま外に出るのは、正直に言って不安なんだ。ここでスライムを狩って、少しでもレベルを上げておきたい」
「分かったワン」
クロドは素直に腰を下ろすと、ふと疑問を口にした。
「しかし、スライムは取得できる経験値が微々たるものだワン。急激なレベルアップは望めないと思うがワン……」
「……経験値? ――クロド、君ももしかして、前世の記憶があるのか!?」
「ん? 儂はただの魔獣だワン。システムについて教えてくれたのは、前の主だワン。主が転生者だったのだワン」
「何だって……!? 主が転生者……! もしかして、日本人だったのか!?」
「おお! 主は生前、自身を日本人だと語っていたワン! ユウマも日本人なのかワン!?」
「そうだ! 俺も転生前は日本人だったんだ!」
「そうかぁ、ワン! 主と同郷の者だったかワン!」
クロドは歓喜に震え、ちぎれんばかりに激しく尻尾を振り回した。その後、クロドにせがまれるまま、俺がこれまで歩んできた不遇な人生について語ると、黒い巨犬は大きな瞳からポロポロと涙を流して貰い泣きしてくれた。
「ユウマは、本当に地獄のような苦労をしてきたんだなぁ……ワォォォーーンッ! 決めたワン、これからは儂が片時も離れず、お前を守ってやるワン!」
◇
一方、ユウマを奈落の底へ突き落とした『焔の剣』は、ダンジョンの別ルートを進んでいた。
「ふぅ……! 死ね、雑魚どもが!」
辛うじて通路を徘徊していたゾンビを切り伏せたミナトが、剣の血を払いながら不機嫌そうに声を張り上げた。
「おいユウマ! さっさと死体を解体して、魔石を剥ぎ取っておけ!」
「だから、ユウマならさっきあんたがクビにして置いてきたでしょ!」
魔法使いのアオイが、苛立ちを隠さずに声を荒らげる。
「……あ、ああ、そうだったな。チッ、じゃあ誰か代わりに解体してくれ」
ミナトが振り返るが、女子メンバーたちは一斉に嫌悪感を露わにした。
「冗談じゃないわ! ゾンビなんて臭くて不潔なもの、触りたくもない!」
ユイナは信じられないものを見るかのように露骨に顔をしかめ、自分の白い神官服の袖をパタパタと振った。まるで、その場に漂う空気すら汚らわしいと言わんばかりの態度だった。
「私も絶対に嫌よ! 服が汚れたらどうするのよ!」アオイはキーキーと甲高い声を張り上げ、激しく足を踏み鳴らした。お気に入りの魔法衣の裾をぎゅっと握りしめ、まるで自分が被害者であるかのように憤慨するその姿は、わがままな子供そのものだった。
「言い出したミナトが自分でやればいいじゃない」
ヒマリはフンと鼻で笑うと、お気に入りの弓を肩に担ぎ直し、冷え切った視線をミナトに投げつけた。幼馴染のユウマを容赦なく切り捨てた彼女の瞳には、今やリーダーであるミナトに対する敬意など、欠片ほども残っていなかった。
「うぐっ……。お、俺だってこんな悪臭の塊、解体したくねえよ」
ミナトは鼻をつまみ、嫌そうに死体から距離を置いた。
「このまま放置して進みましょ」
ヒマリがため息をつき、背を向けて歩き出す。
「そうだな。クエストさえ達成すれば、ギルドから大金が支払われるんだ。魔石の数枚、わざわざ手を汚して拾う価値もねえよな」
ミナトはそう強がってみせたが、彼らは気づいていなかった。
ダンジョン内での貴重な消耗品代や宿代を賄っていたのは、ユウマが裏で泥にまみれて回収していた、こうした地道な『魔石の換金』のおかげだったという事実に。戦術だけでなく、パーティーの財政基盤すら失った4人の破滅は、もう目の前まで迫っていた――。




