第5話 転生者
無数のスライムがひしめき合う、絶体絶命の底なし沼。
ベチャリと、冷たく重い粘体が俺の顔面に張り付いてきた。
「う、っぷ……!」
鼻と口を完全に塞がれ、呼吸ができない。
パニックになりながら顔から剥がそうとするが、ゼリー状のスライムの身体はヌルヌルと滑り、どうしても上手く掴めなかった。
死の恐怖に襲われ、無我夢中で掴んでは引き剥がす動作を繰り返していた、その時。もがいていた俺の指先に、コリッとした「硬い感触」が触れた。
……魔石……!?
手の中に残ったのは、スライムの核である小さな魔石だ。その瞬間、生真面目にスキルを検証していた記憶が、脳裏を電撃のように駆け巡る。
たしか教会で授かった時、空間魔法の『亜空間』は「触れている物なら何でも収納できる」って説明があったはずだ。魔石だって、立派な『物』だよな……!?
「――『収納』ッ!!」
祈るような思いで手の中の魔石を亜空間へと送り込む。刹那、俺の顔を覆って溶かそうとしていたスライムが、形を保てなくなってバシャリと水へ還った。同時に、視界の端に半透明のログが走り、頭の中に無機質な声が流れる。
《スライムを討伐しました。経験値を10取得しました》
ん……?けいけんち? ログ……?
経験値って、まるでRPGのゲームみたいだ――。
ゲーム? RPG? 異世界?――日本!
俺は、日本人だ!いや、日本人だったんだ……!!
「俺、転生していたのか……っ!?」
あまりにも唐突にすべての理解が追いついた。だが、前世の記憶に浸る余裕なんて一瞬も与えられない。容赦なく次のスライムが、俺の口と鼻を塞ぎにかかってくる。
しかし、明確な『対処法』を知った今の俺は、さっきまでの無力なポーターじゃない。
呼吸を整え、必死に落ち着きを取り戻す。うっすらと目を開け、視界を遮る粘体の中からスライムの魔石を探した。
狙いを定め、核を掴んでは『亜空間』に収納していく作業に全神経を集中させる。
魔石を収納し、スライムを消滅させるたびに、頭の中にアナウンスが響き渡った。
そして、その連呼のなかに、明確に異なるメッセージが混ざる。
《レベルアップしました》
レベルアップ……!よし、きた……ッ!!
身体の奥底から、信じられないほどの活力が湧き上がってくる。ステータスが上昇したのだ。明らかに、さっきよりも筋力が強くなっているのを感じる。
俺は呼吸を奪いに来るスライムの魔石を次々と亜空間へ間引きながら、水底を力強く踏み締め、確実に陸地へと向かって歩を進めることができた。
助かる……これなら、生き残れる……!
安堵の息を漏らした、次の瞬間だった。
ズルッ、踏み出した足が激しく滑る。足元にも、スライムが潜んでいたのだ。
――バシャンッ!!
最悪の形で体勢を崩し、俺は大量のスライムの真っ只中へと背中から転倒してしまった。
ボゴボゴッ、と汚い水が口に入り込む。
全身を恐ろしい重量が押し包む。異変を察知したスライムたちが、捕食のために一斉に集まってきたのだ。立ち上がれない。身体が、びくとも動かない。
あぁ……嘘だろ、ここで終わりなのかよ……
急速に薄れゆく意識の向こうで、洞窟の奥から、歪な形をした『巨大な黒い影』がこちらへ迫ってくるのが、微かに見えた気が……した。遠のいていく意識の中で、走馬灯のように不遇な過去の記憶が浮かんでは消える。
あの地獄のような行商人から命がけで逃亡した後、俺は別の街で冒険者ギルドに登録した。戦うスキルはなかったが、生きていくため、その日の生活費を稼がなければならなかったからだ。薬草の採取や、街のドブさらいのような雑用をこなし、その日暮らしのどん底生活を送っていた。
だが、ある日。空間魔法を使う珍しい冒険者がいると聞きつけたのだろう。一人の傲慢な貴族が、俺の前に現れた。
「お前が空間魔法を使えるという虫ケラだな。荷物持ちとしては使えそうだ。特別に、俺の屋敷の奴隷にしてやる」
俺の意思なんてハナから無視だった。有無を言わさず、暴力と権力で貴族の屋敷へと連行された。
そこでの暮らしもまた、人間の扱いではなかった。給金はゼロ。休憩など存在しない。深夜まで泥水をすするような雑用を強制された。
食事は朝晩の残り物だけ。精神も肉体も限界を迎えた俺は、ある夜、再びすべてを捨ててその貴族の元を命がけで脱出した。
その後、流れ着いた都市で細々とポーターをしていた時に出会ったのが――かつての幼馴染たち、『焔の剣』だったんだ。
◇
一方その頃、ユウマを奈落の底へ突き落とした『焔の剣』の面々は――。
「死ね! この化け物どもがぁあ!!」
ミナトが狂ったように剣を振るい、這い寄るグールの首を撥ね、その胸へと深く剣を突き刺した。
しかし、ゾンビの上位種であるグールには、ただの物理攻撃など生ぬるい。
――バギッ!!
「がはっ……!?」
肉を腐らせたグールの剛腕がミナトの胸強を捉え、彼は無様に地面へと吹き飛ばされた。
「クソがっ!! おいユウマ!! こいつらの弱点はどこだ! 早く教えろ!」
地面を転がりながら、ミナトはいつものように傲慢な怒声を張り上げる。
「だからっ! ユウマならさっきあんたがクビにして置いてきたでしょうがぁあ!!」
後方で必死にヒールを唱えながら、回復士のユイナがヒステリックに絶叫した。
ヒュン、ズシュウウッ!!
弓使いのヒマリが放った渾身の矢が、グールの胸の真ん中を正確に射抜く。だが、グールは不気味な咆哮を上げるだけで、一歩もその歩みを止めない。
「嘘でしょ!? 直撃したのに……っ! どこが弱点なのよぉ!」
「邪魔よ、どいてぇ!! ――ファイアーボール!!」
アオイが絶叫し、巨大な火球をグールの群れへと叩きつける。凄まじい爆炎が巻き起こり、グールたちの身体が激しく炎に包まれた。
だが――炎を纏ったグールたちは、苦しむどころか凶暴性を増し、燃え盛りながら突進してきたのだ!
ゾンビと同じ。足を破壊して機動力を奪う前に火を付ければ、ただの「動く炎の凶器」になるだけ。ダンジョンに入る前、ユウマがあれほど口を酸っぱくして警告していた基本中の基本だった。
「いやああああああああーーーっ!!」
「こっちに来ないでぇええ!!」
燃え盛る不死者の群れを前に、アオイとユイナは武器を放り出して悲鳴を上げた。戦術のすべてをユウマの『弱点看破』と『事前準備』に依存していたSランクパーティー『焔の剣』は、ただのグール数体を前に、命からがら逃げ出すことしかできなかった――。




