第49話 大商会の慇懃な罠と、張り巡らされる手配網
「祝『魔獣の窟』攻略の宴」が狂乱のうちに幕を閉じた、その翌朝。
まだ夜の静寂が完全には明けきらない薄明の刻、俺は執拗に響く規則正しいノックの音によって、強制的に眠りから引き戻された。
コンコン、コンコン。
高級宿とは違う、やや建付けの悪い木扉が震える音が耳障りに鼓膜を突く。
(うう……頭が重い……。昨日あんなに早く抜け出したのに、やっぱり疲れが取れてないな……)
俺は寝ぼけ眼のまま、ベッドの中でモゾモゾと身をよじった。しかしいつまでも居留守を決め込むわけにもいかない。重い身体をどうにか起こし、冷えた床に足を下ろす。手早くズボンをはき、心許ない寝間着の上に上着を羽織って身形を整えた。
ふとベッドの横に目をやると、漆黒の毛並みを持つブラックドッグ――クロドが、大きな身体を丸めて床に寝そべっていた。チラリとこちらを見たものの、耳をピクつかせるだけで全く警戒している様子は無い。
(クロドが動かないってことは、刺客や敵の類じゃないな。なら、問題は無さそうだ)
相棒の優秀な探知能力に信頼を寄せつつ、俺はドアに向かって声をかけた。
「はーい、どうぞ」
まだ少し霞む瞼を指先で擦りながら、入室を了承する。
ゆっくりと開いたドアの向こうから姿を現したのは、見慣れたこの宿の従業員だった。しかし、その顔にはいつになく緊張の色が浮かんでいる。
「お早う御座います、ユウマ様。朝早くから大変申し訳ありません。実は、どうしても今すぐユウマ様にお目にかかりたいと、『シミツコ商会』の使いの者がお見えになっております。現在は一階の応接室に通しておりますが……如何致しましょうか?」
「お早う。……えっと、シミツコ商会? ごめん、聞いたことがない名前だな。何かの間違いじゃないの?」
俺が首を傾げると、従業員は慌てて首を横に振った。
「いえ、滅相もございません! 先方はハッキリと『Cランク冒険者のユウマ様』とお呼びでしたので、間違いありません」
「ええ!? ちょっと待って、俺がCランクになったのって、昨日の夕方だよ? なんでそんなこと、もう知ってるの?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。ギルドでの手続きからまだ半日も経っていないのだ。いくらなんでも耳が早すぎる。
すると、従業員は得心がいったように、はははと声を立てて笑った。
「ユウマ様、ご自身に自覚が無いのですか? あの未踏破だった『魔獣の窟』を最速で攻略されたユウマ様の偉業は、すでに昨晩のうちに街中の噂になっていますよ。今やギルド関係者だけでなく、商人たちもこぞってその名を口にしています」
「うひゃぁ……」
嬉しいような、気恥ずかしいような、なんとも言えない複雑な感情が込み上げてきて、思わず顔をしかめてしまう。目立ちたくなくて宴を抜け出したというのに、これでは意味が無い。
「それにしても、そのシミツコ商会って、一体どんなところなの?」
俺の問いに、従業員は途端に声を潜め、どこか畏怖を込めた口調で説明を始めた。
「この街における、名実ともに『最大』の総合商会ですよ。市民の日用品から貴族御用達の高級品、さらには冒険者向けの強力な武器や高純度の回復薬に至るまで、ありとあらゆる流通を牛耳っています。貴族街の一画に、お城のような大きな本店を構えている、泣く子も黙る大組織です」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で、冷たい不快感が澱のように広がった。
(うはぁ……一番関わりたくない、最も苦手な手合いだ……)
俺の脳裏に、かつての忌まわしい記憶が蘇る。まだ冒険者になる前、俺は商人の元で、それこそ言葉通りに「奴隷」のように擦り切れるまで働かされていた。だからこそ、身に染みてよく分かるのだ。
あんな風に巨大化を遂げた大商会には、ろくな人間がいない。綺麗な綺麗事だけであそこまでの規模になるはずがないのだ。普通は、他者を蹴落とし、相当あくどい事を平然とやってのけないと、街一番の大商会になんて上り詰められない。
(絶対に面倒なことに巻き込まれる。……でも、ここで俺が『会いたくない』って突っぱねたら、どうなる?)
チラリと従業員の怯えたような顔を見る。大商会の威光を背負った使いを追い返したとなれば、その怒りの矛先は、ただの仲介者であるこの宿や、目の前の使いの人に向かうだろう。こっぷどく怒られるか、最悪、職を失うかもしれない。
つくづく、自分のお人好しな性格が嫌になる。だが、他人が理不尽に踏みにじられるのを見過ごすのも寝覚めが悪い。
気は進まないが……行くしかないか。
「はぁ。分かったよ、すぐ行く。……クロド、起きられる? 一緒に行くよ」
「ワン」
クロドはのんびりと目を開けると、大きな身体をのそりと起き上がらせ、俺の足元へ寄り添った。その頼もしい温もりに少しだけ勇気をもらいながら、俺は応接室へと向かった。
◇◇
宿の簡素な応接室の扉を開けると、そこには独特の張り詰めた空気が満ちていた。
部屋の中央には、仕立ての良いピシッとした衣服を纏い、背筋をピンと一文字に伸ばした中年のおじさんが、微動だにせず立って待っていた。
俺が部屋に足を踏み入れた瞬間――男の目が動いた。
ほんの一瞬だけ、その瞳に「訝しげな色」が混じる。そして、頭の先から爪先に至るまで、俺の全身を品定めするように、素早く、冷徹に値踏みした。
その後、何事もなかったかのように平然としたビジネス用の笑顔に戻り、深く頭を下げる。
通常の冒険者なら、その一瞬の視線の動きにすら気づかないだろう。だが、俺はかつて商人の元で、毎日毎日、叩かれ、罵られながら人の顔色を窺うことを教え込まれてきたのだ。そんな獲物を品定めするような「商人の目」を見逃すはずがなかった。
(やっぱりな。外面は一流だけど、中身は傲慢そのものだ)
さらに、俺の後ろからクロドが部屋に入ると、男の完璧な仮面が劇的にひび割れた。
「――っ!」
一瞬、その表情に凄まじい驚愕と恐怖が浮かぶ。すぐにそれを押し殺して元の澄ました顔に戻したが、呼吸の乱れや指先のわずかな震えまでは隠せていない。
日頃の訓練のおかげで、形だけは平然を装っているが、内心ではパニックを起こしているのが手に取るように分かった。
(なるほど。ブラックドッグを連れているという情報は事前に掴んでいたんだろうけど、実際に間近で見るクロドの威圧感が、想像を遥かに超えていてビビったわけだ)
これほどの感情コントロールができる男だ。ただのパシリや下っ端の使い走りなわけがない。間違いなく、商会の中でもそれなりの権力を持つ中堅どころの使用人か、あるいは幹部クラスの商人だろう。
「お早う御座います。ユウマ様。私はシミツコ商会で使いを務めております、マタカシと申します」
男――マタカシは、仕草ひとつとっても洗練された、丁寧な物言いで挨拶をしてきた。
「お早う御座います、ユウマです。……それで、こんなに朝早くから、一体どのようなご用件でしょうか?」
俺が努めて冷淡に問い返すと、マタカシはさらに腰を低くしながらも、どこか威圧感を孕んだ声で本題を切り出した。
「はい。実は当商会の最高責任者であるシミツコ会長が、この度『魔獣の窟』を攻略された偉大な英雄であるユウマ様と、ぜひ直接お会いして親睦を深めたいと仰せでしてな。こうしてお迎えに上がった次第です。……随分と早い時間のご訪問になってしまった自覚はございます。しかし、冒険者の方々は朝早くからギルドの依頼を受け、そのまま街を出てしまうことも多いと聞き及びました。ですので、大変不躾ながら、依頼を受注される前に何としてもお願いしたく、この時間になりましたことを深くお詫び申し上げます。――さあ、馬車を用意しております。ぜひ、今すぐのご同行をお願いしたく存じます」
(ふうん……。なるほどね)
言葉遣いこそ至極丁寧で、平身低頭を装っている。だが、その根底にあるのは「拒否を許さない」という絶対的な傲慢さだ。
本当に相手を上客として敬っているのなら、まずは本人の都合を聞き、後日の日程を調整するのが筋というものだ。それなのに、こちらの都合を一切無視して「今すぐ来い」と迫る。これは、形はお願いであっても、本質は命令だ。暗に、冒険者である俺のことを「大商会より格下の存在」として見下している証拠だった。
だが、ここで感情的に怒鳴り散らしても、かつての無能な商人たちと同じレベルに落ちるだけだ。俺はあえて、大人の、それも「商人の嫌味」を込めた微笑みを浮かべてみせた。
「分かりました、マタカシさん。普通はね、相手の都合を事前に伺って、日程を調整するものだと思いますけど……。本日、私がこのままお伺いしないと、せっかく朝早くから足を運んでくださった使いの『貴方』が、商会に戻ったあと手酷く叱責されて、迷惑が掛かるのでしょう? それは寝覚めが悪い。致し方ありませんので、ご同行いたしましょう」
言葉の裏にある意味は明確だ。
――お前たちの無礼な都合に合わせる義理は無いが、下っ端であるあんたの顔を潰してやるのは可哀想だから、今回だけは哀れんで同行してやる。
そう告げたのだ。
俺の、およそ一般的な荒くれ冒険者らしからぬ落ち着いた体格。そして、商会の裏の事情を完璧に見抜いた上での辛辣な返答。
マタカシの顔が、一瞬だけピキリと凍りついた。その瞳の奥に、明らかな「想定外の怪物に対する警戒」がじわりと滲み出る。
「……お配慮、痛みの至りに存じます。有難う御座います」
マタカシは今度こそ、先ほどよりも一段と深く、本気の恐怖と警戒を込めて頭を下げたのだった。
◇◇
その頃。
ユウマが不穏な大商会との心理戦に足を踏み入れようとしていた、まさにその同時刻。
街の冒険者ギルド本部に設置された広間では、重苦しい空気が漂っていた。
中央の巨大な魔導通信機の台座が淡く発光し、いくつもの複雑な術式が起動している。
「よし、接続完了だ!『焔の剣』の指名手配データ、全地域のギルドへ一斉送信を急げ!」
「了解!――罪状は『強盗殺人』および『ギルド命令違反による逃亡』! 対象はミナト、ヒマリ、アオイ、ユイナの4名!」
ギルド長ソウマの迅速かつ冷徹な決断により、事態は最悪の速度で動いていた。
『焔の剣』を第一級の容疑者として指名手配する手続きは、夜通しで行われた武器屋への聞き込みによって確定していたのだ。彼らが持っていた装備が、行方不明のパーティーのものと完全に一致したという証言が得られたためである。
ギルドが誇る高価な通信魔道具を介して、彼らの人相風体、特徴、そして犯した大罪の記録が、瞬く間に全国津々浦々の冒険者ギルドへと伝播していく。もはやこの国のどこへ逃げようとも、彼らに安住の地など無かった。
しかし――。
この張り巡らされた網の存在を、これから大商会へ向かうユウマも、そして、盗んだ馬を必死に走らせて故郷の村へと逃げ延びようとしているミナトたちも、まだ誰も知る由はなかった。




