第39話 血の洗礼と非情の理、その裏の呑気な強者たち
「今すぐ、4人を殺しなさい!」
カノンさんの鋭い声が、薄暗い洞窟の壁に反響して、俺の鼓膜を激しく叩いた。
「え……?」
耳を疑った。今、この人はなんて言った?
「殺しなさい」? 残りの4人を、動けなくなっている彼らを、今ここで、俺の手で?
「それが、ユウマくんが今後も冒険者としてやっていく為には、絶対必要で大事な事よ!」
カノンさんの両手に込められた力が強くなる。ガタガタと震える俺の肩を通じて、彼女の強い決意と、どこか必死な思いが伝わってくる。
だけど、俺の頭の中はそれどころではなかった。視線が、どうしても地面に横たわる弓使いの男の死体へと吸い寄せられてしまう。
見た目は、死ぬ前と何ら変わらない。血が派手に流れているわけでも、五体が損なわれているわけでもない。なぜなら、俺が彼の脳を空間魔法で『亜空間に収納』し、息絶えたのを確認してから頭の中に戻したからだ。外傷はない。
だけど、確実に死んでいる。魂の抜けたただの肉塊が、そこにあった。
(俺が、殺したんだ……)
初めて、人の命を奪った。
手が、足が、体の芯が、自分の意志とは関係なくガタガタと震え続ける。
これまで何度も戦ってきたモンスターを殺した時とは、文字通り『訳が違う』。
(この男にだって……)
ぐるぐると、黒い思考が頭を支配していく。
もし俺が殺さなければ、この男はこの後に改心して、真面目な冒険者に戻ったかもしれない。実家には、彼の帰りを待つ年老いた両親や、小さな弟妹がいたかもしれない。
俺はこの男のことを何も知らない。今日、この場所で、敵として初めて会っただけなのだ。その、何も知らない人間の未来を、俺のこの手が断ち切ってしまった。
その時、脳裏にどっと溢れ出してきたのは、転生前の『日本人としての記憶』だった。
あっちの世界では、どんな理由があろうと、例え相手が極悪非道な殺人者であったとしても、私刑で殺してしまえばそれは重大な犯罪だった。命は地球より重いと教わり、人を殺してはならないと刷り込まれて生きてきた。
転生前はもちろん、転生した後にだって、泥々した人間の血で手を汚したことなんて一度もなかったのだ。
「ユウマくん! ユウマくんってば!」
はっと我に返ると、カノンさんが俺の顔を覗き込んでいた。彼女の綺麗な瞳に、顔面蒼白になってガタガタと震えている情けない俺の顔が映っている。
「は、はい……っ」
「初めて人を殺したのね」
「は、はい……」
喉の奥がカラカラに乾いて、まともな声が出ない。
そんな俺の様子を見て、カノンさんはふっと表情を和らげ、優しく、だけど拒絶を許さないトーンで諭すように語りかけてきた。
「その男の右手を見てごらん。太い針に、紫色の液体が塗られているでしょう? ……それ、猛毒が塗られている武器だわ。もしユウマくんが躊躇して、その男を殺さずに様子を見ていたら……今頃、カエデが殺されていたのよ」
「ユウマくん、本当に有難う。貴方は、私の命の恩人よ……っ」
その言葉と同時に、正面から柔らかい感触が俺を包み込んだ。カエデさんが、涙を浮かべながら俺の胸に強く抱き着いてきたのだ。
彼女の服はナイフで斬られて破れており、そこから豊かな胸元がちらりと見えていた。支給された回復薬の効果で、傷口自体はピタリと塞がっているものの、痛々しい赤い傷痕は生々しく残っている。
もしあの時、俺の行動が数秒遅れていたら、この温もりは冷たい骸に変わっていた。
カノンさんはカエデをそっと抱きしめ直しながら、冷徹な現実をさらに言葉に乗せる。
「ユウマくん。武器を構えた敵はね、躊躇しないで、殺さなければダメよ。……ユウマくんは特別に強いから、わざわざ殺さなくたって、生け捕りにしたり制圧したり出来るって思っているでしょう?」
「……っ」
図星だった。俺の持つ空間魔法の力なら、殺さずとも手足を縛るように空間に固定することだってできたはずだ。
「でもね、もし今後、ユウマくんに大切な仲間や、守るべき家族が出来た時……ユウマくんが『敵を殺さない選択』をしたせいで、その人達が代わりに傷付けられたり、殺されたりするのよ。その覚悟がある?」
「それは……」
言葉が詰まる。
確かにカノンさんの言う通りだ。前回の依頼で、アユムたちに襲撃されたあの時、もし彼らを確実に殺していれば。あるいは、今回だって、ここに姿を現す前に空間魔法で盗賊たちを全員あらかじめ仕留めていれば、カエデさんがこんなに怯え、傷付けられることもなかったはずだ。
綺麗なままでいようとした俺の甘さが、結果的に彼女たちを危険に晒した。
でも、だからと言って、本当に『全員殺す』のが正解なのだろうか?
カノンさんは俺の迷いを見透かすように、決定的な事実を突きつけてきた。
「ユウマくん、冒険者がCランクに昇格する時の条件は知っているわよね? ……そう、国から指定された『盗賊討伐』のクエストを達成すること。つまり、ギルドはあえてその段階で、冒険者に『人を殺す経験』をさせているのよ」
「そ、それは……知っています」
本やギルドの規約で読んだことがあった。Cランクは一人前の証。そして、それは「人の血を浴びた証」でもあるのだと。
「護衛の依頼を受けられる冒険者が、一律でCランク以上になっている理由もそこにあるわ。護衛の最中に敵と出くわして、殺すのを躊躇うようなお坊ちゃんじゃ、依頼者を守れない。依頼者だって、敵を殺せないような腰抜けの護衛なんて、怖くて大金払って雇わないわよ」
「そ、そうですけど……だけど、彼らはもう……」
俺の視線の先には、まだ息のある4人の襲撃者が転がっている。魔法の衝撃で気絶している者、恐怖で腰を抜かして動けない者。彼らはもう、武器すら握っていない。
「ユウマくん、私達を襲った冒険者達が、まだ4人生きてる。彼等がこのまま生き延びて、万が一にもギルドの目を盗んで逃げられたら、次はどんな汚い手を使って来るか分からないのよ? 彼等だって生きる為には何でもやるわ。逆恨みして、夜道で私達の寝首を掻きにくるかもしれない」
「は、はい……」
「だから、今すぐ、4人を殺しなさい!」
カノンさんの声が一段と冷たく、重くなる。それはユウマの『前世の倫理観』を容赦なく踏みつぶす、この世界の絶対的なルールだった。
「それが、ユウマくんが今後も冒険者として生きていく為には、絶対必要で、避けては通れない大事なことよ!」
差し出された非情な選択肢を前に、ユウマはただ、血の気の引いた手元を見つめることしかできなかった。
◇◇
その頃、ダンジョンの別の階層――『焔の剣』が探索を進めるエリアでは、全く異なる緩い空気が流れていた。
「ふあぁ……お腹空いたなぁ。ミナト、そろそろ食事の時間じゃない?」
パーティーの回復士であるユイナが、愛用の杖に体重を預けながら、緊張感の欠片もない声で呟いた。彼女の視線は、すでに頭の中にあるお弁当のメニューへと向いている。
その言葉を聞いた、案内役を務める地元の冒険者は、心の中で激しいツッコミを入れずにはいられなかった。
(……いやいやいや! この人、さっきから移動中もずーっと、懐から干し肉だのクッキーだの取り出して何か食べていたじゃないか!)
とはいえ、相手は圧倒的な格上である。そんな本音を口に出せるわけもなく、ただ顔をひきつらせるのが精一杯だった。
「そうだな、言われてみれば俺も腹が減った。お前等も、そろそろ腹が減っただろう?」
リーダーである剣士のミナトが、後ろを付いてきている地元のCランク冒険者たちを振り返り、爽やかな笑みで同意を求めた。
「ま、まあ、そうですね……。言われてみれば、少し……」
実力者であるミナトに話を振られ、断れるはずもない。Cランク冒険者たちは、引きつった笑みを浮かべながら、ペコペコと頭を下げる。
「じゃあ決まりね! ほら、そこのあなた。この近くで安全に休憩できる場所に案内してよ」
弓使いのヒマリが、案内役の女性冒険者に指を指しながら、当然のような口調でお願いする。
……いや、それはお願いと言うにはあまりにも威圧感があり、実質的には拒絶を許さない『命令』そのものだった。
「は、はいっ! すぐ近くに開けた安全な小部屋がありますので、そちらへご案内します!」
女性冒険者はヒマリの放つプレッシャーに怯え、慌てて歩を速める。
ユウマが今まさに、血塗られた選択の間で魂を削るような葛藤を強いられているとは夢にも思わず、絶対的な強者である『焔の剣』の一行は、今日もマイペースにダンジョンを進んでいくのだった。




