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# 第一話 鏡の中の魔王


その朝、ノアは鏡に映らなかった。


王都の屋根裏部屋。ユッケが寝ぼけたまま顔を洗っていると、隣に立つノアの姿だけが鏡から消えた。


代わりに黒いドレスの少女が映る。


顔はノアと同じ。だが瞳は冷たく、額の角は長い。


『見つけたぞ、日本人』


鏡の少女が笑った。


『余の肉体を奪った偽物め』


ノアが鏡へ手を伸ばす。


「お前は誰だ」


『魔王ノア・エクリプス。五百年間、魔族を統べた本物のノアだ』


鏡が砕ける。


破片から黒い手が伸び、ノアを引きずり込もうとした。


ユッケは彼女の腰をつかむ。


「離せ!」


『返せ!』


二人のノアが同時に叫ぶ。


《第五観測杭による魂魄分離を確認》


《個体ノア・エクリプスの人格情報が二分されています》


《一方を討伐すれば、残る一方を安定化できます》


「却下だ」


ユッケは召喚録を閉じ、鏡へ頭突きした。


鏡面が完全に割れ、黒い手が消える。


ノアが床へ倒れ込んだ。


「今、迷わなかったな」


「どっちかを殺せと言われて、選べるわけないだろ」


ノアは胸を押さえた。


「だが、あれも余だ。怒りも、憎しみも、知っている気がする」


窓の外で警鐘が鳴る。


東門へ魔族の使者が現れた。


黒い旗には、ノアの紋章が刻まれている。


使者は王都中へ宣言した。


「七日以内に偽王ノアを引き渡せ。拒めば、魔族軍十万が王国へ進軍する」


ノアは青ざめていた。


「余一人を渡せば済む」


「前巻でも似た話を聞いた気がする」


「前巻?」


「何でもない。今回は一人で行かせない」


ユッケは旅支度を始めた。


「本物か偽物か、本人に会って確かめよう」


---


# 第二話 魔族の国


魔族領エクリプシアは、夜が明けない国だった。


空には紫色の月。黒い城の周囲を、角や翼を持つ魔族が暮らしている。


ユッケたちはアルベルトの使節として入国した。


同行者はノア、ミア、リリアナ、レオン、セレス。そして魔王の腹心だった吸血鬼将軍ヴァルガス。


「私は、あなたをノア様とは認めない」


ヴァルガスは道中、ノアへ一度も頭を下げなかった。


「五百年前の陛下は冷酷で、強く、決して人間と笑い合う方ではなかった」


「余は今も強いぞ」


「昨夜、辛いスープを飲んで泣いていたと聞きました」


「あれは目から汗が出ただけだ」


ユッケが笑うと、ノアに脇腹をつねられた。


ヴァルガスはさらに不機嫌になる。


「陛下の顔で、人間の少年と戯れるな」


ノアが立ち止まった。


「顔だけではない」


その声に、かつての魔王の威厳が戻る。


「余は民の名を覚えている。お前が初陣で恐怖を隠すため、右手だけ鎧を二重にしたこともな」


ヴァルガスの目が揺れた。


「なぜ、それを……」


「記憶は欠けても、共に生きた事実は消えぬ」


城下町では、もう一人のノアが民衆の支持を集めていた。


彼女は《黒ノア》と呼ばれている。


人間に奪われた土地を取り戻し、魔族だけの帝国を作ると約束していた。


一方、長い戦争に疲れた民は和平を望んでいる。


「魔族にも、いろいろいるんだな」とレオン。


「人間を一種類だと思われたら嫌だろ」とユッケ。


「ニキビという種族は一人だけだと思うけどな」


「日本に家族が三人いる」


魔王城の門が開く。


玉座には黒ノアが座っていた。


二人のノアが、初めて同じ場所で向き合った。


「余の偽物よ」と黒ノア。


「その言葉、そのまま返す」とノア。


声まで同じだった。


---


# 第三話 五百年分の記憶


黒ノアは戦わず、一つの提案をした。


「三日間、余の記憶を見よ。その後で、どちらが本物か民に選ばせる」


彼女が指を鳴らすと、魔王城が五百年前の姿へ変わった。


ユッケたちは記憶の世界へ引き込まれる。


最初の記憶。


観測施設の床で、十四歳の少女が目覚める。


白衣の男たちは彼女を名前で呼ばず、《第一世界魂魄試料N》と呼んだ。


少女は日本語で泣き叫んだ。


――お母さん。家に帰して。


魔王核を埋め込まれ、角と翼が生える。


痛みに耐えるため、少女は日本の記憶を心の奥へ封じた。


自分をノアと名づけ、観測施設を破壊して逃げた。


次の記憶。


人間の国に追われた魔族の子どもたちを守るため、ノアは初めて軍を率いた。


村を焼いた。


兵士を殺した。


救えなかった者の名を、夜ごと一人で読み上げた。


次の記憶。


終焉竜アポカリプスと戦い、やがて観測者という共通の敵に気づく。二人は第五観測杭を封じるが、ノア自身も棺へ閉じ込められた。


「余は、こんなに多くを殺したのか」


今のノアが膝をつく。


「お前はその罪を捨て、黒瀬奈緒として逃げるつもりだ」


黒ノアの声が響く。


「余こそが、罪も記憶も背負う本物だ」


ユッケも言葉を失っていた。


ノアが人を殺した事実は消せない。


正しかったとも言えない。


それでも十四歳の少女一人へ、五百年分の罪を押しつけてよいはずがない。


「逃げてもいい」


ユッケはノアの隣へ座った。


「苦しくて逃げる日があってもいい。でも、戻って向き合うなら俺も一緒にいる」


「お前に何ができる」


「話を聞く。名前を覚える。間違えたら止める」


「それだけか?」


「一人で背負わせない」


ノアは顔を覆い、初めて魔王としてではなく、黒瀬奈緒として泣いた。


黒ノアはその姿を、憎しみと羨望の混じった目で見ていた。


---


# 第四話 日本からの返事


現代日本。


カワセミはユッケから届いた手紙を何度も読み返していた。


異世界へ返事を送りたい。


しかしプルの分身は、文字を届けたあと水滴へ戻った。


黒瀬奈緒の病室には、異世界とつながった紙が残っている。


カワセミは紙へ、ユッケの限定ゲームを載せてみた。


何も起きない。


ユッケの母が握ったおにぎりを置く。


紙が淡く光った。


「どうして、これは反応する?」


父が考える。


「召喚には、つながりが必要だと手紙に書いてある。物そのものではなく、そこへ込めた気持ちなのかもしれない」


四人は一枚の紙へ返事を書いた。


> ユッケへ。

>

> 手紙、読んだよ。生きていてくれてありがとう。

>

> 父さんも母さんもカワセミも、ずっと待っています。

>

> 奈緒さんのお母さんとも会いました。奈緒さんの体はこちらで生きています。必ず一緒に帰してあげてください。

>

> 世界を救うのも大事だけれど、無茶をしすぎないように。

>

> 追伸。ゲームはまだ開けていません。早く帰ってこないと、カワセミが先にクリアします。


母がおにぎりを包み、手紙と一緒に紙へ置く。


「ユッケ。届いて」


紙が白く輝いた。


おにぎりと手紙が消える。


同じ瞬間、魔王城の記憶世界で、ユッケの目の前に見慣れた食品用ラップが落ちてきた。


「これは……」


震える手で包みを開く。


少し形の崩れた、母のおにぎりだった。


一口食べる。


塩加減が薄い。母はいつも、ユッケの健康を気にして塩を少なくする。


間違えようがなかった。


「母さんの味だ」


ユッケは泣きながら笑った。


半分をノアへ渡す。


「一緒に帰ってこいって」


ノアは「いただきます」と言い、おにぎりを食べた。


「温かい」


とっくに冷めているはずだった。


それでも、確かに温かかった。


---


# 第五話 仲間を失う召喚


三日目、黒ノアは約束を破った。


第五観測杭が彼女の人格を侵食し、魔族軍へ王国侵攻を命じた。


「余は、もう誰にも奪われぬ!」


黒い魔力が魔王城を覆う。


ユッケはロクメ、プル、オルド、フェンリルを実体召喚した。


ミアが支配された兵士の魔法を消し、リリアナが防壁を張る。レオンとセレスは市民を避難させた。


戦場の中央で、巨大な杭が地面から現れる。


杭は召喚録そのものへ鎖を伸ばした。


《登録個体の強制削除を開始》


最初に捕らえられたのはオルドだった。


古代甲冑の体が崩れ、内部の少年の魂が杭へ引かれていく。


「オルドを離せ!」


ユッケが鎖をつかむ。


手の皮膚が焼ける。


《警告:登録個体を保護する場合、召喚者の生命情報を代償として要求されます》


《推定消費寿命:二十年》


ユッケは迷わず承認しようとした。


オルドが首を振った。


《ぼく、まもる》


「仲間を捨てて助かるつもりはない!」


《ユッケ、おうち、かえる》


オルドが自ら鎖を抱え、杭の中へ飛び込もうとする。


その前にプルが鎖へ張りついた。


スライムの体が百に分裂し、一体分の登録情報を百の偽物へ分散させる。


杭の処理が止まった。


「今だ、ミア!」


ミアの魔断ちが鎖を消す。


オルドの魂が召喚録へ戻った。


無事ではない。頁は灰色になり、しばらく召喚できない。


それでも、つながりは残っている。


ユッケは初めて理解した。


召喚録は仲間を不死にする力ではない。


どんなつながりにも、永遠の保証はない。


だからこそ、今一緒にいる時間を大切にしなければならない。


---


# 第六話 本物を決める戦い


魔王城の最上階で、二人のノアが向き合った。


黒ノアの胸には第五観測杭。


今のノアの胸には、ユッケからもらった日本の手紙が入っている。


「決着をつけよう」と黒ノア。


「余が勝てば、黒瀬奈緒の魂を食らう」


「私が勝てば?」


今のノアは、自分を「私」と呼んだ。


「余を消せばよい」


「断る」


「なぜだ!」


「あなたは、私が捨てた痛みだ。憎しみも罪も、私のもの。消して楽になったら、また同じ過ちを繰り返す」


黒ノアが炎を放つ。


ノアは受け止めた。


二人の記憶が衝突する。


日本の病室。


魔族の戦場。


母の声。


死んだ兵士の声。


ユッケと食べた黒パン。


五百年間、一人で泣いた夜。


「私は黒瀬奈緒」


ノアが一歩進む。


「そして魔王ノア・エクリプス」


もう一歩。


「どちらも、私が生きた人生だ!」


二人が抱き合う。


黒ノアの体が光へ変わり、今のノアへ溶け込んでいく。


「ずるい」と黒ノアがつぶやいた。


「余にも、その少年と会わせろ」


「一緒に会おう」


「おにぎりも、もう一口食べたい」


「それも一緒に」


二つの人格が、一つの魂へ戻った。


《個体情報の完全統合を確認》


《真名:黒瀬奈緒/ノア・エクリプス》


《第五観測杭が露出しました》


胸元から黒い杭が飛び出す。


ユッケが錆びた短剣を投げた。


ノアが受け取り、自分の手で杭を貫く。


「私の人生を、もう誰にも分けさせない!」


第五観測杭が砕けた。


《残存数:二》


夜明けのない魔族領に、五百年ぶりの朝日が昇った。


---


# 第七話 魔王の告白


戦いのあと、魔族の代表者たちはノアへ再び王位に就くよう求めた。


「断る」


ノアは即答した。


「余は……私は、魔族だけの王にはならない。人間も獣人も日本人も含め、世界をつなぐ者になる」


ヴァルガスが片膝をつく。


「ならば我々も、その道をお供します」


「辛いスープは出すなよ」


「それはお約束できません」



夜、ユッケとノアは魔王城の屋上にいた。


空には、初めて見る青い星が輝いている。


「記憶が全部戻った」


ノアが言った。


「黒瀬奈緒だったころ、好きな人はいなかった。魔王になってからも、誰かを好きになる余裕はなかった」


「急にどうした?」


「だから、これは二つの人生で初めての気持ちだ」


ノアはユッケの制服をつかんだ。


「私は、お前が好きだ」


今度は「仲間として」と付け足さなかった。


ユッケの顔が熱くなる。


「俺も……ノアが好きだ」


「奈緒は?」


「同じ人だろ」


「正解だ」


二人の顔が近づく。


今度は誰も扉を開けなかった。


唇が触れる直前、プルが空から落ちてきた。


二人の間で、ぷるんと跳ねる。


「なぜお前は毎回!」


ユッケが叫ぶ。


ノアは腹を抱えて笑った。


「続きは日本でよい」


「ずいぶん先だぞ」


「待つのには慣れている。五百年よりは短かろう」


二人は小指を結んだ。


---


# 第八話 残る二本


第五観測杭の破壊により、日本との接続率は10%へ上昇した。


手紙だけでなく、短時間なら声も届く。


ユッケは召喚録の最終頁を開いた。


日本の居間が映る。


父、母、カワセミ、黒瀬真紀がこちらを見ていた。


映像はぼやけ、声は途切れている。


それでも母がユッケの名を呼ぶ。


『ユッケ……本当に、ユッケなの?』


「母さん。俺だよ」


『痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?』


再会して最初の言葉がそれだった。


「食べてるよ」


ノアが横から顔を出す。


「半分ほど余がもらっている」


『あなたが奈緒さん?』


「はい。こちらではノアと呼ばれています」


魔王が丁寧語を使い、ユッケは驚いた。


真紀が画面へ近づく。


『奈緒……聞こえる? お母さんよ』


ノアの唇が震えた。


「お母さん」


五百年ぶりに呼ぶ言葉だった。


映像が大きく乱れる。


接続時間が終わろうとしている。


カワセミが前へ出た。


『ユッケ! ゲームはまだ開けてないからな!』


「だから遊んでいいって!」


『うるさい! 一緒にやるんだよ!』


画面が消えた。


ユッケとノアは、しばらく何も話せなかった。


泣いている顔を互いに見て、最後には笑った。


《第六観測杭の位置を特定》


《所在地:世界樹上層・神界》


《第七観測杭:検知不能》


残る二本。


一つは、神々の住む世界樹の頂上。


もう一つは、どこにあるかさえ分からない。


アポカリプスが低い声で言った。


『第七の杭には心当たりがある』


「どこだ?」


『おそらく第一世界――日本だ』


最後の観測杭は、ユッケたちが帰ろうとしている世界に存在する。


そして日本では、黒瀬奈緒の心電図の機械に黒い紋章が浮かび始めていた。


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