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# 第一話 世界最弱の特訓


古代魔導兵の襲撃から一週間。


灰組の四人は、学院裏手の森にいた。


「ミア、あと十歩下がってくれ」


ミアが不満そうに猫耳を伏せた。


「遠い」


「召喚できないんだから仕方ないだろ」


「十一歩は嫌」


「十歩でいい」


ミアがきっちり十歩下がる。


ユッケが《万象召喚録》を開いた。


「来い、ロクメ!」


黒い魔法陣から六つ目の巨狼が飛び出す。完全に実体化したのを確認し、ミアが駆け戻った。


ロクメの姿は消えない。


ミアは満足そうに首へ抱きついた。


「なぜ狼は平気で、我は消えるのだ」


ユッケの頭上で、幼い終焉竜アポカリプスが文句を言った。


「ロクメは肉体を持つ実体召喚。お前は本体から切り離された影だから、魔力がないと形を保てない」


「我も乗せて」


ミアがアポカリプスへ手を伸ばす。


「待て、近づくな!」


幼竜は黒い煙となって消えた。


『だから嫌だと言ったのだ!』


召喚録の中から怒鳴り声だけが聞こえた。


「実証終了じゃな」


担任のグレゴールが杖で地面へ二つの円を描いた。


「ユッケの召喚には二種類ある。肉体を完成させる《実体召喚》と、魔力で存在を投影する《霊体召喚》。ミアの近くで前者は残り、後者は消える」


「なら、全部実体召喚にすればいいんじゃないか?」とレオン。


「実体召喚は遅く、魔力消費が大きい。倒されれば再召喚にも時間がかかる。霊体召喚は速く、傷ついても送り返せばよい。それぞれ利点がある」


グレゴールは四人へ木札を投げた。


《学院地下迷宮・第一層通行証》


「一か月後、クラス対抗迷宮実習が行われる。魔物を倒し、核を集めた数で順位を競う」


「灰組も参加するんですか?」とセレス。


「当然じゃ。最下位なら、来年度を待たず灰組は廃止される」


レオンが木札を裏返した。


「俺たちは四人。白塔は三十人だぞ」


「だから面白い」


グレゴールは笑った。


「世界最弱の四人で、一位を取ってこい」



訓練後、ユッケはリリアナに呼び出された。


王家の書庫から持ち出した古文書には、日本列島と黒い杭が描かれていた。


「《観測者》は五百年前、この世界へ七本の杭を打ち込みました」


「終焉竜や古代兵器に刺さっていたものか」


「ええ。杭は生物の力や魂を吸収し、どこか別の世界へ送っていたようです」


日本がこの世界を侵略したのか。


ユッケの胸が重くなる。


だが古文書の端に、小さな日本語があった。


――被験世界との接続に失敗。第一世界への帰還不能。


「観測者も、日本へ帰れなかった?」


ユッケが触れた瞬間、召喚録が反応した。


《同郷者の残留思念を検知》


《検知位置:学院地下迷宮・第十三層》


実習で許されているのは第三層まで。


そのはるか下で、日本へつながる何かがユッケを待っていた。


---


# 第二話 クラス対抗迷宮実習


実習当日、迷宮入口は祭りのような騒ぎだった。


白塔三十二名、赤塔六十四名、灰組四名。


生徒たちは灰組を見るたび、気の毒そうな顔をした。


「四人では核を運ぶだけでも大変だろう」


ヴィクトルが言った。


「棄権すればいい。退学後の働き口なら、父の騎士団で紹介できる」


善意なのだろう。だから余計に腹が立つ。


「心配してくれてありがとう。でも俺たち、一位を取りに来たんだ」


ヴィクトルの後ろで笑いが起きた。


リリアナだけは真顔だった。


「油断なさらないで。迷宮の魔力循環が、昨日から乱れています」


開始の鐘が鳴った。


各クラスが一斉に地下へ進む。


灰組は急がなかった。


ユッケは入口の外でロクメとオルドを実体召喚した。ミアが近くにいる迷宮内では呼び出せないからだ。


黒い巨狼と三メートルの甲冑が現れ、周囲の生徒が道をあけた。


「それ、反則じゃないのか?」


試験官が規則を確認する。


「召喚士が契約個体を使うことは禁止されていない」


ユッケたちはロクメの背へ荷袋を載せ、迷宮へ入った。


第一層の魔物は弱かった。


ミアが術式を止め、レオンが急所を切り、セレスが傷と武器を元に戻す。オルドは盾となって仲間を守った。


ユッケは、とどめを自分だけで刺そうとはしなかった。


倒した魔物をすべて登録できれば強くなる。しかし仲間を経験させなければ、灰組は昇級できない。


昼までに集めた核は、白塔の半分ほど。


四人としては驚異的な数だった。


「このままなら三位以内に入れます」


セレスがうれしそうに数える。


そのとき、迷宮全体が揺れた。


床に巨大な魔法陣が現れる。


「全員、壁際へ!」


ユッケが叫ぶ。


だが白塔と赤塔の先行部隊は、魔法陣の中央にいた。


光が弾ける。


ヴィクトル、リリアナ、セドリックを含む四十人以上が、一瞬で消えた。


《緊急転送術式の作動を確認》


《転送先:第十三層》


ユッケの召喚録に文字が浮かぶ。


教師たちが入口を封鎖し始めた。


「実習を中止する! 残った生徒は地上へ戻れ!」


「第十三層に転送された人は?」


「教師団が救出する。生徒は従え!」


しかしグレゴールが険しい顔で首を振った。


「無理じゃ。迷宮は侵入者を選別しておる。成人の魔力を拒絶している」


教師が中へ入ろうとするたび、入口へ押し戻された。


入れるのは生徒だけ。


それでも学院長は命じた。


「救助は禁止する。さらなる犠牲を出すわけにはいかない」


地下深くから、かすかな爆発音が響いた。


セドリックの炎かもしれない。


ユッケはロクメの背へ乗った。


「灰組は実習を続けます」


「命令違反で退学になるぞ!」


「行かなくても最下位で退学です」


ミア、セレス、レオンも並ぶ。


グレゴールは止めなかった。


ただ一本の鍵を投げた。


「第十層の封印扉に使え。生きて帰れ。それが課題じゃ」


世界最弱の四人は、四十人の上級生を救うため、誰も戻ったことのない深層へ向かった。


---


# 第三話 救助を禁じられた者たち


第五層から、迷宮は牙をむいた。


壁そのものが動き、道を変える。天井から毒虫が降り、倒した魔物は黒い泥となって再生した。


「倒しても切りがない!」


レオンが剣を振る。


ユッケは泥へ召喚録を向けた。


《魔物の魂は外部から遠隔操作されています》


《支配を解除すれば登録可能です》


「誰かが迷宮全体の魔物を召喚している」


「ユッケみたいな召喚士?」とミア。


「俺とは違う。こいつらは嫌がっている」


魔物の感情が流れ込む。


痛い。眠りたい。命令に逆らえない。


ユッケは支配の糸を視認した。すべて地下へ伸びている。


「ミア、触れてくれ」


ミアが黒い泥へ手を置く。


支配魔法が消え、泥の中から小さな洞窟ネズミが現れた。凶暴化させられる前の姿だった。


《つながりを確認》


《迷宮鼠を登録しました》


同じ方法で毒蝙蝠、鎧蟲、岩蜥蜴を解放していく。


登録数は三十、五十、百と増えた。


だがミアのそばでは召喚できない。


「私、邪魔?」


ミアが立ち止まった。


「逆だ。君がいなければ、こいつらを助けられなかった」


ユッケは屈み、目線を合わせる。


「俺一人では召喚できるだけだ。支配を断てるのはミアだけだ」


猫耳がゆっくり立った。


「なら、もっと助ける」


第八層で、崩落した通路を見つけた。


向こう側から人の声がする。


セレスが瓦礫へ杖を向けた。


「崩れる前まで、戻します」


時間逆行により石が元の天井へ戻る。


閉じ込められていた赤塔の生徒十人が現れた。


全員傷つき、魔力を失っていた。


「灰組……?」


「どうしてお前たちがここに」


「助けに来た」


セレスは負傷した時刻を一人ずつ確かめる。傷を負う直前まで時間を戻せば、古傷を悪化させずに治療できる。


レオンは震える手で剣を握り、周囲を警戒した。


一人の生徒がその震えを見た。


「怖いなら、無理するなよ」


「怖いから握ってるんだ。怖くない奴には、守る覚悟なんて必要ない」


レオンの言葉に、生徒は黙った。


救助した十人をオルドに護衛させ、地上へ戻す。


少年の魂を持つ古代甲冑は、うれしそうに胸を鳴らした。


《おうち、つれていく》


「頼んだぞ、オルド」


実体召喚されたオルドは、ミアの近くでも消えない。しかしユッケから離れるほど動きが鈍くなる。


これで盾役を失った。


「まだ三十人以上、下にいる」とミア。


「行こう」


第十層の封印扉へ鍵を差し込む。


扉の向こうから、日本語の歌が聞こえてきた。


子どものころ、母が歌っていた童謡だった。


---


# 第四話 もう一人の転生者


第十層は、日本の学校だった。


夕暮れの教室。並んだ机。黒板。廊下の水道。


ただし窓の外には空がなく、黒い肉の壁が脈打っている。


「ここがユッケの世界?」


ミアが上履きを珍しそうに見る。


「似ている。でも偽物だ」


黒板には日本語で書かれていた。


――ニキビ・ユッケ君。放課後、視聴覚室へ来なさい。


「名字を知られてる」


レオンには文字が読めない。それでも嫌な内容だと察したらしい。


視聴覚室には一人の男がいた。


黒い学生服。白髪。年齢は十六歳ほど。


「初めまして、後輩」


男は日本語で話した。


「僕はシドウ・レン。君より五百年前に、この世界へ転生した日本人だ」


「五百年前?」


「こちらではね。日本では、僕が死んでから三年しか経っていない」


時間の流れが違う。


ユッケの心臓が跳ねた。


家族はまだ生きている。


レンが指を鳴らすと、空中に映像が現れた。


ユッケの家。食卓には父と母とカワセミがいる。


ユッケの席だけが空いていた。


「日本へ帰りたいだろう?」


「方法を知っているのか」


「もちろん。君の《万象召喚録》を僕に渡せばいい」


レンの背後に、鎖で縛られた魔物の軍勢が現れる。


「僕の《強制隷属録》は、相手の同意を必要としない。だが世界を越える力がない。君の能力と合わせれば、日本をこちらへ引き寄せられる」


「引き寄せたら、どうなる?」


「二つの世界は衝突する。多くの人が死ぬかもしれない。でも僕たちは帰れる」


ユッケは映像を見た。


母が無理に笑い、父はほとんど話さない。カワセミは夕食を急いで食べ、ユッケの部屋へ上がっていく。


会いたい。


今すぐ抱きしめたい。


そのために、この世界の人々を犠牲にできるか。


答えは初めから決まっていた。


「断る」


「家族を捨てるのか?」


「捨てない。誰も殺さずに会う方法を探す」


「理想論だ!」


レンの表情が崩れた。


「僕は五百年探した! 父も母も、僕のことを忘れ始めている! 時間がないんだ!」


鎖につながれた魔物が襲ってくる。


ミアが一歩前へ出た。


魔断ちの領域が広がり、教室も映像も魔物も消える。


ただしレン自身は消えなかった。


彼もユッケと同じ、肉体を持つ転生者だった。


「君が魔断ちの末裔か」


レンは笑みを取り戻す。


「だから最初に殺すよう命じたのに」


床が割れる。


ユッケたちは第十一層へ落下した。


落ちながら、レンの声が響く。


「最深部へ来い、ユッケ。君にも僕と同じ絶望を教えてやる」


---


# 第五話 S級とF級


ユッケたちが落ちた先には、ヴィクトルたちがいた。


白塔の生徒は結界の中で魔物の大群に囲まれている。リリアナが結界を維持し、セドリックは魔力切れ寸前だった。


「ユッケ?」


セドリックが目を疑う。


「どうしてお前がここに!」


「助けに来た」


「F級に助けられるほど落ちぶれてない!」


叫んだ直後、セドリックの炎が消えた。


魔物が飛びかかる。


レオンの剣がその牙を受け止めた。手は震えているが、足は退かなかった。


ミアが支配魔法を断ち、魔物たちを元の姿へ戻していく。


セレスが負傷者を治療する。


灰組の三人が、白塔と赤塔の前へ立った。


ヴィクトルは唇をかんだ。


「僕たちはS級だ。それなのに、なぜ……」


「得意なことだけで戦ってきたからだ」


ユッケは答えた。


「魔法が効かなければ、別の方法を使えばいい。俺たちは最初から、得意なことなんて一つもなかった」


リリアナが結界を解いた。


「指揮をお願いします、ユッケさん」


「リリアナ!」


「階級より、今この場で最善の判断ができる方に従います」


ヴィクトルはしばらく黙り、やがて剣を収めた。


「……分かった。指示をくれ」


ユッケは状況を整理する。


三十人の生徒。大半は魔力を失っている。出口は魔物の群れの向こう。


ロクメ一体では突破できない。


召喚録には百を超える魔物が登録されている。しかしミアの領域内では呼べない。


「ミア。魔断ちを、一方向だけ止められるか?」


「やったことない」


「できそう?」


ミアは目を閉じた。


彼女の能力は壁ではなく、自分が拒絶する魔力を消す力だ。拒絶しない方向を作ればいい。


「三秒なら」


「十分だ」


ユッケは全員を背後へ下げる。


ミアが両手を広げた。


目の前だけに、魔力の通り道が生まれる。


「万象召喚録――百体同時召喚!」


百の魔法陣が迷宮を埋めた。


迷宮鼠、毒蝙蝠、鎧蟲、岩蜥蜴。


どれも弱い魔物だ。


だが彼らは隷属させられていない。自らユッケとのつながりを選んだ仲間だった。


「みんなを地上へ帰す。力を貸してくれ!」


百の鳴き声が応えた。


魔物たちは敵へ突撃するのではなく、道を作った。鼠が罠を見つけ、蝙蝠が暗闇を探り、鎧蟲が盾となる。


ヴィクトルが息をのむ。


「これが、召喚……」


「違う」


リリアナが微笑んだ。


「これは、信頼です」


一行は第十二層まで到達した。


地上へ続く転送陣がある。


「全員、先に戻れ」とユッケ。


「あなたは?」


「レンを止める。最深部に日本へつながる装置がある」


セドリックが腕をつかんだ。


「死ぬぞ」


「一回経験してる」


「笑えないんだよ!」


セドリックの声が震えた。


「お前が消えたとき……叔父さんたちが、俺のせいにすると思った。だから心配しただけだ。別に、お前自身を心配したわけじゃない」


「分かった。帰ったら魔法を教えてくれ」


「絶対に帰ってこい。俺より弱いまま死ぬのは許さない」


それがセドリックなりの激励だった。


ユッケが最深部へ向かうと、ミア、セレス、レオン、リリアナもついてきた。


「帰れと言っただろ」


「聞いてない」とミア。


「灰組は四人です」とセレス。


「ここまで来て主人公だけ行かせる奴がいるか?」とレオン。


リリアナが首をかしげる。


「主人公?」


「何となく、そんな気がした」


五人は最後の扉を開いた。


中央には、日本へ向けて回転する巨大な門。


その前に、黒い棺が置かれていた。


---


# 第六話 棺の中の魔王


シドウ・レンは門の前に立っていた。


彼の体には黒い杭が何本も刺さっている。


「ようやく来たね」


人間らしい温かさは消え、瞳が赤黒く染まっていた。


「その杭を抜け、レン。お前も利用されている」


「利用? 違う。僕は五百年を耐えるため、力を借りたんだ」


レンが手を掲げる。


迷宮全体から吸い上げた魂が、黒い棺へ注ぎ込まれた。


「この世界の魔王を隷属させる。彼女の力と君の召喚録があれば、門は完成する」


棺が開く。


黒髪の少女が目を覚ました。


年齢はユッケたちと変わらない。白い肌に黒いドレス。額には小さな角が二本ある。


少女は周囲を見回し、威厳ある声で言った。


「余を目覚めさせたのは誰だ」


お腹が大きく鳴った。


「……今のは忘れよ」


「神話級って、みんな腹を減らしてるのか?」


ユッケの召喚録が反応する。


《個体名:魔王ノア・エクリプス》


《危険度:国家滅亡級》


《状態:記憶欠損、極度の空腹》


レンの鎖がノアへ巻きついた。


「命じる。ニキビ・ユッケを殺せ」


「嫌だ」


ノアは即答した。


「なぜ効かない?」


「余は誰にも従わぬ。それに、その者は食べ物を持っていそうだ」


全員がユッケを見る。


鞄には昼食用の黒パンが一つ残っていた。


ユッケが差し出すと、ノアは警戒しながら受け取った。


「いただきます」


彼女は、ごく自然にそう言った。


ユッケの動きが止まる。


この世界では、食事の前に神へ祈りを捧げる者はいても、その言葉を使う者はいない。


「今、何て言った?」


「何のことだ?」


ノア自身も気づいていないようだった。


「食べる前に、何か……」


「知らぬ。勝手に口から出ただけだ」


黒パンを持つノアの手が、わずかに震えた。


脳裏を横切ったのは、白い部屋。規則正しく鳴る電子音。そして誰かが自分を呼ぶ、遠い声だった。


――奈緒。


だが次の瞬間には、その記憶も霧の向こうへ消えた。


ノアは黒パンを一口かじった。


目が輝く。


「うまい」


「ただの黒パンだけど」


「五百年ぶりの食事ぞ」


ノアの目から涙がこぼれた。


《特殊条件を達成しました》


《国家滅亡級個体を“感動により泣かせる”ことに成功》


《戦意喪失を討伐として判定します》


「判定が雑すぎないか?」


《魔王ノアを登録可能です》


「登録しない」


ノアがパンを食べる手を止めた。


「なぜだ。余を従えられるのだぞ」


「まだ何も知らない相手を登録できない。まず、君がどうしたいか聞く」


ノアは長い間、ユッケを見つめた。


「余には、何もない。名前以外、思い出せぬ」


「なら、一緒に記憶を探そう」


「対価は?」


「とりあえず、夕飯くらいなら」


「肉は出るか?」


「叔母さん次第だな」


ノアはユッケの手を取った。


《対象とのつながりを確認》


《魔王ノア・エクリプスが一時契約を申し出ています》


《受諾しますか?》


「受諾する」


《登録完了》


レンが絶叫した。


「まただ! 君は何も失わず、すべてを手に入れる!」


黒い杭が彼の体を完全に覆う。


《強制隷属録・全解放》


迷宮で倒れた無数の魔物の魂が融合し、巨大な黒い人型となった。


《個体名:帰郷者シドウ・レン》


《危険度:世界崩壊級》


日本への門が開き始めた。


向こう側に、夜の東京が見えた。


---


# 第七話 帰るために、帰らない


門の向こうは日本だった。


自動車の音。コンビニの光。信号機。


ユッケが一歩踏み出せば、届く距離に見えた。


「行けよ」


レンの声が黒い巨人の中から響く。


「君も帰りたいんだろう!」


門の映像が切り替わる。


ニキビ家の玄関。


父が仕事から帰ってくる。母が夕食を作っている。カワセミが階段を降りてくる。


ユッケは手を伸ばした。


指先が、門の表面に触れる。


《警告》


《門の通過により、二世界の衝突が開始されます》


《推定死者数:算出不能》


背後では仲間たちが黒い巨人と戦っている。


ミアが杭の魔力を消し、リリアナが崩れる天井を支え、レオンが恐怖に耐えて剣を振るう。セレスは何度も傷を巻き戻していた。


ノアが叫ぶ。


「行きたければ行け! 余は契約で縛られておらぬ。お前がいなくとも戦う!」


だからこそ、行けなかった。


彼らは命令されたから戦っているのではない。


ユッケを信じ、自分で残ることを選んだ。


ユッケは門から手を離した。


「今は帰らない」


日本の光景が遠のく。


「みんなを犠牲にして帰ったら、家族に会わせる顔がない」


「きれいごとを!」


「そうだよ。俺はまだ、きれいごとを諦めてない」


ユッケは召喚録を開く。


百体の魔物は、生徒の避難に使っている。オルドも地上へ向かった。ロクメだけが残っていた。


「ミア、五秒だけ道を作ってくれ!」


「三秒しか無理」


「じゃあ三秒でやる!」


ミアが魔断ちの領域を絞る。


ユッケはノアを実体召喚へ切り替えようとした。


《警告:国家滅亡級個体の実体化には、現在魔力の三百倍が必要です》


足りない。


そのとき、リリアナが後ろからユッケを抱きしめた。


「わたくしの魔力を使ってください」


「そんなことができるのか?」


「賢者は魔力の道を作れます。あなたとの間になら、きっと」


銀色の光がユッケへ流れ込む。


リリアナの鼓動が背中越しに伝わった。


「近い」


ミアが不満そうに言う。


「今はそれどころじゃない!」


「わたくしも、少し恥ずかしいのですから黙ってください!」


三秒。


万象召喚録の頁が光る。


「ノア! 本当の姿で来い!」


黒い翼が迷宮を覆った。


少女の背後に、夜そのもののような魔王の巨影が現れる。


これは魔力だけの投影ではない。ノア自身が選び、肉体を伴って現れた実体召喚。


ミアの領域が戻っても消えなかった。


「余の最初の命令を許す、ユッケ」


「レンを殺すな。杭だけを壊せ」


「甘い男よ」


ノアは笑った。


「だが、嫌いではない!」


魔王の翼が黒い巨人を包む。


ロクメが脚へ噛みつき、レオンが杭を切り、ミアが支配を消す。リリアナが魔力の流れを逆転させ、セレスがレンの肉体だけを杭に刺される前へ巻き戻す。


最後の杭を、ユッケが錆びた短剣で砕いた。


黒い巨人が崩れる。


中から、十六歳の少年が落ちてきた。


ユッケはその体を受け止めた。


「なぜ、助けた」


レンが弱々しく尋ねる。


「同じ日本人だから、じゃない」


ユッケは閉じていく門を見る。


「帰りたい気持ちを、知ってるからだ」


門が消える直前、カワセミがこちらを振り向いた。


目が合った気がした。


ユッケは叫ぶ。


「兄ちゃん! 待ってて!」


声が届いたかは分からない。


日本への門は完全に閉じた。


---


# 第八話 魔王少女は居候


迷宮から全員が生還した。


公式記録では、白塔と赤塔の生徒を救出したのは学院教師団ということになった。


だが救われた生徒たちは、真実を知っている。


実習の成績発表の日。


一位として呼ばれたのは白塔ではなかった。


「灰組。救助した生徒四十三名、解放した魔物百二十七体。特別加点を含め、首位とする」


講堂が静まり返り、やがて大きな拍手が起きた。


最初に拍手したのはヴィクトルだった。


「今回は負けた」


彼はユッケへ手を差し出した。


「だが次は、聖騎士として正面から勝つ」


「俺も次までに、名前以外で笑わせる方法を考えておく」


ヴィクトルは一瞬迷い、吹き出した。


セドリックは拍手をしなかった。


しかし帰宅後、屋根裏部屋へ分厚い魔法入門書を持ってきた。


「約束したからな。文字も読めない奴に教えるつもりで説明してやる」


「そこまで馬鹿じゃない」


「俺の授業についてこられたら認めてやる」


以前と同じ偉そうな口調だったが、机の横に椅子を二つ並べていた。


もう一つの椅子には、黒髪の少女が座っている。


「腹が減った」


ノアは当然のように言った。


「さっき三人分食べただろ」


「五百年分の空腹を甘く見るな」


叔母には、遠い親戚の娘だと説明した。なぜか叔母はノアを見ると逆らえず、屋根裏部屋の隣を空けてくれた。


アポカリプスが召喚録から顔を出す。


『魔王よ。その菓子を我にもよこせ』


「断る。これは余のものだ」


『世界を焼くぞ』


「やってみよ。返り討ちにしてくれる」


「部屋を焼くなよ」


ロクメは二体の国家滅亡級に挟まれ、迷惑そうに六つの目を閉じた。


窓の外には平和な王都が広がっている。


だが《万象召喚録》には、新たな警告が表示されていた。


《七本の観測杭のうち、二本を破壊》


《残存数:五》


《第一世界との接続率:0.001%》


《接続率の上昇により、第一世界側からの観測を検知》


日本の誰かが、こちらを見ている。


それが敵なのか、味方なのかは分からない。


シドウ・レンは学院地下の治療室で眠っている。目覚めれば、五百年前の計画について聞けるだろう。


「ユッケ」


ノアが窓辺に立った。


「余は、魔王だったらしい。記憶が戻れば、お前の敵になるかもしれぬ」


「そのとき決めればいい」


「何を?」


「ノアが、どうしたいかを」


ノアは驚いたあと、小さく笑った。


「ならば今は、ここにいる」


階下から叔母の声が飛んできた。


「ユッケ! 夕食です! お友達の分まで作っていませんよ!」


ノアが真剣な顔になる。


「世界の危機だ」


「ただの夕飯だ」


「余の分がないのだぞ!」


「俺の半分やるよ」


ノアの頬が少し赤くなった。


「それは……半分では足りぬ」


ミアが窓から顔を出した。


「私のも半分あげる」


「どこから入ってきた?」


続いてセレスとレオン、リリアナまで顔を出す。


狭い屋根裏部屋が、仲間でいっぱいになった。


ユッケは日本の自分の部屋を思い出した。


カワセミと二人でゲームをした、小さな部屋。


帰りたい気持ちは変わらない。


それでも、この世界にも失いたくない場所ができ始めていた。


召喚とは、何かをこちらへ引き寄せることではない。


離れていたものの間に、つながりを作ること。


もし本当にそうなら、日本を破壊せず、二つの世界をつなぐ方法もあるはずだ。


ユッケは召喚録の最終頁へ触れた。


一瞬だけ、カワセミの部屋が映る。


兄は未開封のゲームを手に、眠っていた。


その唇が、かすかに動く。


『ユッケ』


今度は、はっきり聞こえた。


《個体間のつながりを検知》


《ニキビ・カワセミとの接続を仮登録しました》


《ただし、生者の強制召喚は禁止されています》


ユッケは笑った。


それでいい。


無理やり連れてくるつもりはない。


いつか兄自身に選んでもらう。


そして父と母も、この世界の仲間たちも、誰一人犠牲にしない道を見つける。


その夜、ノアは夢を見た。


白い病室のベッドに、一人の少女が眠っている。


黒い髪。十四歳ほどの顔。腕には細い管がつながれ、枕元には見慣れない制服と学生鞄が置かれていた。


ベッド脇の名札には、ノアにも読める文字がある。


**黒瀬奈緒。**


「これは……余?」


少女の閉じた瞳から、一筋の涙が流れた。


病室の窓の向こうには、アルディア王国では見たことのない、灰色の建物と電線が並んでいる。


遠くのテレビから聞こえた地名を、ノアの魂だけが覚えていた。


――日本。


ノアが目を覚ますと、ユッケが床で召喚録を抱いたまま眠っていた。


彼女は胸に手を置く。


魔王ノアとは別の鼓動が、はるか遠い世界で今も続いている気がした。


「黒瀬……奈緒」


なぜか懐かしい名前だった。


ノアはまだ、ユッケに話さなかった。


だが日本が召喚される日、魔王ノアと眠り続ける少女・黒瀬奈緒の二つの人生も、再び一つにつながることになる。


「待ってろ、カワセミ」


世界を召喚するには、まだ力が足りない。


残る杭は五本。


魔王の失われた記憶。


日本からこちらを観測する何者か。


そして三か月後には、学院武闘祭が始まる。


F級召喚士ニキビ・ユッケの名が王国中へ知れ渡るのは、もう少し先のことだった。

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