第拾陸巡 私はずっと……あなたを待っていたんですから。
翔と別れた俺は、火照った身体を冷ますため寮を出た。
夜風は心地よく、温泉でのぼせた頭をゆっくりと冷ましてくれる。
「ふぅ……。この世界にも夜があるんだな。」
(時間は流れていないはずなのに……こんな所まで現世の世界を模してあるとかすげぇな。)
昼間は賑やかだった街も、夜になるとどこか静かだった。
街灯が柔らかな光を落とし、遠くには夜景が広がっている。
「まぁ、いいや。せっかくだし、少し散歩してから戻るかな」
あてもなく歩いていると、小高い丘の上に休めるような開けた場所を見つけた。
「へぇ~こんな所に公園があるとは…」
展望台のようになっているらしく、街全体が一望できる。
死後の世界とは思えないほど綺麗な景色だ。
「いい眺めだな……」
思わず感心しながら階段を上る。
その時だった。
「……ん?」
ベンチの近くに人影があることに気付く。
夜景を眺めていた少女は、足音に気付いたのかゆっくりと振り返った。
「……あなたは……?」
月明かりに照らされたその姿に、俺は一瞬目を奪われる。
白と赤茶色が混じった長い髪の制服姿の少女。
どこか儚げなのに、不思議と温かい笑顔。
「あっ……もしかして……」
俺の姿を見た少女は目を丸くしながらも、次の瞬間ぱあっと花が咲くように笑う。
「空君?」
「……いや、確かに俺は空だが……どうして俺の名を?」
俺は思わず自分を指差した。
「やっぱり空君なんですね!懐かしいな~。」
少女は嬉しそうに何度も頷く。
「……悪い。どこかで会った気はするんだけど……思い出せない。」
俺は首を傾げた。
同じ学校ではなく、制服も見覚えがない。
もちろん恋人なんていた記憶もない。
(こんな可愛い子を忘れるとも思えないし……。)
「もしかして……忘れちゃったんですか?」
少女はぷくっと頬を膨らませた。
「いや、……本当に悪い。」
「もう…私ですよ。」
少し拗ねたように腕を組むと一歩近付いてきて、小さく笑う。
「夢乃紫音です。」
「紫音……?」
その名前を聞いた瞬間、頭の奥で、何かが引っ掛かった。
「……あ。」
ぼんやりとした記憶が少しずつ形になる。
小さ頃に一緒に遊んだ子を思い出す。
「……ああっ!紫音か!」
俺は思わず声を上げた。
「やっと思い出してくれましたね。危うく本気で泣くところでした。」
彼女は胸に手を当て、大げさにため息をついた。
「悪い悪い。小学生の頃以来だろ? あの時引っ越してから一度も会ってなかったし。」
俺は苦笑する。
「そりゃ分からないって。」
あの頃は背も低くて、髪はもっと短くかったはずだが、
目の前にいる少女は、その面影を残しながらもすっかり大人びていた。
「……ずいぶん変わったな。綺麗になったというか……」
「え?」
「あっ…いや、その……!」
思わず口をついて出た言葉――しまった、と言った瞬間に気付く。
「そ、そういうことを急に言うのは反則です……」
俺の言葉に紫音の頬がほんのり赤く染まった。
「ああ、いや違う! その!…深い意味はなくて!」
慌てて手を振る。
「ふふっ。…」
俺の慌てた様子を見ながら紫音は口元を押さえて笑った。
「空君、昔と変わりませんね。」
「くそ、からかわれてたのか……。」
「少しだけです。」
くすくす笑う姿は、どこか懐かしく俺もつられて笑ってしまう。
「それにしても…」
俺は改めて紫音を見る。
「なんで、俺だってすぐ分かったんだ?俺なんて昔と結構変わってるだろ。」
紫音は少しだけ目を伏せ、夜風が長い髪を揺らす。
そして、優しく微笑んだ。
「……そんなの。」
一歩だけ近付く。
「決まってるじゃないですか。」
その瞳は、まるで長い時間を越えてきた人のようだった。
「私はずっと……、あなたを待っていたんですから。」
「…………え?」
俺を……待っていた?
その言葉が胸の奥に静かに沈んでいく。
紫音は夜風に揺れる長い髪をそっと押さえながら、ゆっくりとこちらへ向き直った。
月明かりを浴びたその横顔は、どこか儚くそれでいて誰よりも優しく微笑んでいる。
「あなたとの約束を胸に秘めて……ずっと待っていました。」
一度言葉を区切り、小さく目を伏せる。
「もっとも……空君は、もう忘れてしまっているのかもしれませんけど。」
「約束……」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。
頭の中に霞がかかったような景色が浮かぶ。
夕焼けの小さな公園で、交わした言葉――
『約束だからね』
『ああ、約束だ。絶対に────』
そこから先が、どうしても思い出せない。
まるで、その記憶だけ誰かに鍵を掛けられてしまったかのように。
「くっ……」
思い出そうとするたび、頭の奥が締め付けられる。
「……すまない。思い出せない。」
俺は悔しさを押し殺すように小さく呟いた。
「……いいんですよ。」
紫音は静かに首を横へ振る。
その声は責めるものではなく、どこまでも穏やかだった。
「子どもの頃の約束なんですから。忘れてしまうのも当然です。」
そう言って微笑む。
けれど、その笑顔はどこか寂しかった。
「それに……」
少しだけ空を見上げる。
「もう、意味のない約束ですから。」
「そんなことない。」
思わず言葉が口をついた。
紫音が驚いたように俺を見る。
「忘れた俺が言う資格なんてないのかもしれない。」
それでも――
「でも、その約束をずっと待っていてくれたんだろ?」
俺は紫音の目を真っ直ぐ見つめる。
「だから、必ず思い出す。」
今度は俺が約束を果たす番だった。
一歩前へ踏み出す。
「俺が思い出すまで……もう少しだけ待っていてくれないか?」
紫音は目を丸くしたまま、しばらく何も言わなかったが
やがて、小さく吹き出すように笑う。
「ふふっ……本当に……変わっていませんね、空君は。」
その笑顔は、さっきまでより少しだけ温かかった。
そして、優しく頷く。
「はい。待っています。」
夜風が二人の間を静かに吹き抜ける。
「……いつまでも。」
紫音は月を見上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「……ありがとう。」
その言葉しか出てこなかった。
約束の内容は思い出せない、それでも一つだけ確かなことがある。
――この笑顔だけは、もう曇らせたくない。
その想いだけが、不思議なくらい胸の奥にはっきりと刻まれていた。




