第玖巡 あなたは亡者ではない
「さぁ、次はあなたですわ」
白に小さく背中を押され、俺は一歩前へ出た。
法廷の中央。
そこには、人の背丈を遥かに超える巨大な鏡が鎮座している。
水晶を思わせる透明な鏡面、その周囲には精巧な装飾が施されているが、
鏡には何も映っていない。
「鏡の前へ立て」
初江王の低い声が響く。
「はっ…はい!」
促されるまま、俺は鏡へ前へ近づく。
(……いよいよか)
胸の奥で、心臓が早鐘を打つ。
(俺の人生にも……判決が下る)
善人だったとは思わない、だからといって極悪人だった覚えもない。
夢も見つけられず、何かに本気になることもなく、ただ流されるように生きてきた。
そんな自分の人生が、この鏡にどう映るのが少しだけ怖かった――
「…………」
だが意を決して鏡の前に立ったのに何も起こらない。
鏡は沈黙したままだ。
「…………」
法廷を包む静寂だけが、じわじわと重くなっていく。
(……まだか?)
どれくらい待ったのか分からない。
一瞬だったのか、それとも永遠だったのか――
「……む?」
初江王が、わずかに眉をひそめた。
「これはどういうことだ?」
隣にいた宋帝王が尋ねる。
「浄瑠璃の鏡が……反応せぬ」
初江王は鏡から目を離さないまま答える。
その言葉を境に、法廷の空気が変わった。
「そんな馬鹿な、故障ではないのか?」
「だが、浄瑠璃の鏡が故障など……」
神々の間にざわめきが広がり、
衛兵の獄卒たちも互いに顔を見合わせ、落ち着かない様子を見せていた。
(……え?俺、何かやったか?)
俺も状況を理解できず、鏡の前で立ち尽くしている。
もう一度、鏡を見るがやはり、何も映っていない。
「静粛に」
凛とした閻魔の声が法廷を貫き、ざわめきが止まる。
「鏡に異常はありません。」
玉座に座ったまま、静かに浄瑠璃の鏡を見つめている。
「しかし、…閻魔様。」
その言葉に、初江王が僅かに目を見開く。
「分かっています。」
閻魔は穏やかに答えた。
「浄瑠璃の鏡は、亡者の生涯を映し出すもの。
その者が歩んだ人生、犯した罪、積んだ善行、その魂に刻まれたすべてを……」
静かな声が、広い法廷へ染み渡っていく。
「それが映らないということは……」
閻魔の視線が、ゆっくりと俺へ向き背筋が自然と伸びる。
何故だろう、ただ見られているだけなのに。
魂の奥まで覗き込まれているような感覚があった。
「一つしか考えられません。あなたは、亡者ではない」




