第3章 : 青山姫子 3
009
「これが吉原なんだ……すごく豪華ね。桜がこんなに綺麗に咲いてるなんてラッキー」
「昼間でも十分豪華だけど、夜になったら本当にすごいわよ」
「ア……メ……ジング?」
少女たちは大通りに出て歩き回り、歩いているうちにお腹が空いてきたので、近くの店の前で甘いお菓子を食べながら休憩した。
「つまりね、時々故郷の言葉が出てしまうの。ちょっと見逃してくれたら助かるわ」
理由はわからなかったが、姫子は了承した。お菓子を食べながら、顔見知りの人物を見つけた。
「にゃあ~~」
「この猫!!!」
それは門の手前で出会った三毛猫だった。
「あら! つじみかど様、どこに行ってたんですか。心配しましたよ」
「それがこの子の名前なの? ア……メ……ジング? って感じ?」
甘いお菓子の匂いに誘われて、猫は素早く飛び乗り、姫子の膝の上で転がりながら「にゃあにゃあ」と甘えてお菓子をねだった。
「この猫、野良猫みたいね。どこへ行ったかわからなくて探し回ったのよ。こっちに来なさい、この餓鬼猫!!」
まべが素早く猫を抱き上げ、勢いよくお腹に顔を埋めた。猫は嬉しそうに「にゃあ」と鳴いた。
「まべ、強くしちゃダメよ。あ、これ、お菓子」
猫は素早くお菓子を口に運んだ。
「そういえば……この猫が君たちの猫だって、さっき知ったわ」
「実はつじみかど様はこの辺の野良猫なんです。まべが可哀想になって店に連れて帰って、みんなで世話してるんです。だからこんなにぽっちゃりなんですよ」
「本当は私がタコって名前にしようと思ったんだけど、くろえが勝手に派手な名前をつけちゃって、店のみんなもそれでいいって言ったの」
「へえ……この店の皇帝ってことね」
「メスよ」
「あら、そうなんだ。じゃあ皇后でいいわ」
「猫は人間より上の生き物ですもの」
「違うわよ」
「じゃあ君たちは、地球の反対側から来たのね。本当なんだ」
「ええ。私とまべはもともと教会のシスターで、父様とイギリス艦隊の使節団と一緒にここに来て布教をしようとしたんです。でも将軍様の鎖国政策で、船に乗っていた人たちはほとんど処刑されてしまいました」
「残酷!」
「仕方ないわ。この国の法律を破ったんだから、そうなるのは当然よ」
「実はあの人たちは私たちのことを『黄色い猿』って呼んでたの。あまり同情しなくてもいいわよ」
姫子の頭の中は大混乱だった。規則を破るのがどんなことかはよく知っていた。今の自分もまさにそれをやっている。でも処刑という罰は……。
いや、それは彼女が家の規則を破るのとは全くレベルが違う。だから、もしかしたら……こうするのも正しいのかもしれない。
「で、どうして君たちは生き残れたの?」
「私たちはオランダ人だったからです。オランダ人は例外で命を助けられ、交易と居住が許されました。ただし長崎の出島に限られます。私たちはそこで三年間、書記として何でも屋みたいな仕事をしていました」
「その後、女将様がデシマに来て、私たち二人を吉原に引き取ってくださったんです」
「あなたは本当に優しいのね、アンリノサキ様」
「もちろんよ」 「私たちは彼女を本当の母親のように思っています」
二人は心から嬉しそうな顔で答えた。
「で、二人は故郷が恋しくないの……?」
姫子は無邪気な気持ちで、何も考えずに聞いた。二人は少し沈黙した後、この無垢なお嬢様に痛ましい真実を語った。
。
。
。
「申し訳ありません……お断りします」
ピンク髪の少女は女性の提案をきっぱり拒否した。まえはこういう反応を予想していたので、理由を尋ねた。
「心からお礼申し上げます。でも私はあなたを信用できません」
「私がオイランだから……?」
「全く関係ありません。アンリノサキ様、吉原を牛耳っているのはあなたでしょう? つまりあなたも青山家と同じような存在です。そんな人の力を借りて、幼馴染とその家族を助けろと言うんですか? その冗談はあまり面白くないわね」
見抜かれたか……私の立場を。目が鋭いわね。一年前はまだ純粋なお嬢様だったのに、今は目の前の人間をしっかり見ている。あの派手な男がいろいろ教えたのね。
「じゃあどうするの? 宮島家に頼む? それとも長野家? でも長野家はただでは手を貸さないわよ」
宮島家も江戸の有力商家の一つで、不動産(土地仲介業)を営み、日本中の建物の63%を所有している。この家の当主は代々心が優しく、人々に慕われている。青山家や長野家とは違う。彼女はイケダの紹介でその家の人を知っていた。将来的に宮島家も四大財閥の一つになる。
「いいえ。今回は自分で彼らを助けます」
りりおは自分の言葉を強調するように力強く言った。
「どうやって? 君一人で彼らを助ける力はないわよ。最悪、消されるのは君かもしれないわ」
まえの言う通りだった。一人で大物に立ち向かうなど不可能だ。しかし彼女は女性に言い返した。
「私が死んでも構いません。大切な人が無事ならそれでいいんです」
本気だった。まえはそれを感じ取ったが、こんな田舎娘の口から出た言葉に思わず笑ってしまった。
「何かおかしいですか……」
「いや、別に面白いとかじゃないんだけど……本気で言ってるの? 君みたいな田舎娘がそんなことを言うなんて」
「冗談で言ってるわけじゃありません」
「それはわかってる。つまり私の力を借りないということね?」
「はい」
まえは納得して頷いた。りりおは逆に尋ねた。
「簡単に諦めるんですね。大手商家らしくないわ」
「だって、相手がこちらの提案を受け入れないのに、しつこく迫る意味がないでしょう。時間の無駄よ」
少女は了解したように頷いた。
「まあいいわ。決めるのは君だから、外野の私が言えるのは警告だけ。でも覚えておきなさい。私が今言ったことはあくまで今の情報よ。状況はいつだって変わるわ」
「…………」
「それに、もうすぐ正午ね。どうする? 午後までここにいてもいいわよ。今日はオイランの行列があるから」
「いいえ。そろそろ帰らないと」
「そう……じゃあ帰る前にくろえとまべを呼んできてくれる?」
「はい……私の答えを受け入れてくださってありがとうございます」
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「元々、私とまべは貧しい家庭で育ちました。同じ村だったからよく一緒に遊んでいました。でも親が育てられなくなって、私たちを教会のシスターに預けたんです」
「それ以来、私たちは神の教えを広める者として育てられました。私たちはいつも、神様が人間である私たちを導いてくださると教えられました」
「そこにいたみんなが、神様は私たちを守ってくださると信じていました。祈りと賛美を捧げ続ける限り」
「でも時が経ち、故郷の国で戦争が起きました。被害を受けた人々が、神に身を捧げた私たちを頼ってきました。そしてその時、私たちは知ったんです……」
「どれだけ人が傷つき死のうと、どれだけ人が飢え渇こうと、どれだけ絶望しようと、私たちが信じ、身を捧げた神様は一度も助けに来てくれませんでした」
「それでも人々は信じ続けました。中には『戦争が起きたのは神様が罪深い私たちを罰したからだ』と言う者もいました。私たちが自分で招いたことなのに」
「やがて祈りと賛美が無駄だとわかると、私たちは詐欺師だと非難されました。その中には私たちの両親もいました」
「異端者ども、どこかで死ね。あれはそこにいた人々、そして両親の言葉です。だから故郷を懐かしむことなんてできません」
「でもここで生きる機会をいただいたので、私たちは残りの人生をできる限り充実させると決めました。目に見えないものはもう信じません」
「「二度と傷つかないために」」
彼女はただ黙って聞いていた。言葉を分析し、考え、理解できない感情を心の奥底にしまい込んだ。
彼女は二人に無理やり笑顔を作り、「大変だったのね」と言い、哀れむような態度を取った。
しかし小さな心は、ゆっくりと崩れ落ちる建物のように壊れかけていた。叫べるなら叫んでいただろう。
でもそんなことをしたら、きっと狂ってしまう。りりおに迷惑をかける。
震える唇、今にも涙が溢れ出しそうな脳は、もう限界だった。
誰だって彼女と同じだ。誰もが残酷な目に遭い、何も悪いことをしていないのに。
それでもみんな我慢して、誰にも悟らせず、前を向いて歩き続ける。でもそうすればするほど、今はテープで塞がれただけの、ボロボロの傷がさらに裂けていく。
結局、彼女たちはただ、生まれる時代を間違えただけなのだ。
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「あ……もうすぐ正午ね。まべ、姫子をあそこに連れて行きましょう」
「え? でももう夏よ。春みたいに綺麗?」
「あそこ……どこ?」
「花園よ……」
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「まったく……あの三人、どこに行ったんだろう。早く戻らないと旦那様たちにバレちゃうわ。夏なのに桜があんなに綺麗に咲いてるなんてすごいわね。うーん……」
りりおは春が過ぎたのにまだ咲いている桜の木を見て、道端の菓子屋と、そこで楽しそうにお菓子を食べながら話す子供たちを見た。そして幼馴染と初めて出会った時のことを思い出した。
【ねえ、お前……一人で食べてて寂しくないの?】
【……別に。一人で食べようが大勢で食べようが、そんなに変わらないよ】
【へえ……りりおって言うの】
【……イケダ】
【俺は噛みつかないよ。そんなに警戒しなくても】
【……ごめん。じゃあお詫びに二つくらい食べて】
【もう謝ったのに、お詫びの品を渡す必要ある?】
【うん……忘れてたけど……ただあげたいだけ。受け取って】
【見ない顔だね。お前、この辺の子じゃないよね】
【うん……浅草から来たの。昨日ここに来たばかり】
【浅草! じゃあ都会っ子だな! いつか俺も行ってみたいよ。聞いたところ、食べ物がいっぱいで、派手な光と音がいっぱいだって】
【まあ、そんな感じかな】
【行きたいなあ……】
【ねえイケダ……遊ぼうよ!】
【おい! まだ朝だぞ。どこへそんなに急ぐんだ】
【今日はたまおも連れてくよ。挨拶して】
【こんにちは】
【はあ……行くなら行くけど、また山に登るなら俺は帰るからな】
【わかった!!!】
「昔のことを思い出すなんて……昔はもっと格好良かったのに。何食ったらあんな風になったんだろうな」
「まあ、しょうがないよね。私だって昔はあんな感じだったし」
今ならはっきりわかる。自分が変わってしまった。怖いくらいに変わってしまった。あの頃の自分なら、大手商家の一人であるまえに、あんな強い口調で話せなかっただろう。もしかしたら、母を傷つけたあの日から性格が変わってしまったのかもしれない。
【りりお、りりお!!! もうやめろって!! やめろって言ってるだろ!!!!!】
時間が経っても、彼の平手打ちで正気に戻された感触は鮮明に覚えている。痛かったけど、あの時の光景の方がずっと痛かった。
少女は自分の母親を傷つけた。私はもう取り返しのつかないことをしてしまった。同じ家族である弟が止めたのに聞かず。
それ以来、彼はああいう風になった。幼い頃の私のように振る舞い、今もそうし続け、きっとこれからも。聞いてもふざけた返事しか返ってこないけど、彼の本当の目的はわかっている。
【あ、これ。欲しがってたの知ってたから買ってきたよ。ほら! ありがとうって言え】
【殴りたくなる声だな】
彼がああいう風にするから、私はよく頭を痛めた。でも一緒にいると、いつも楽しかった。
『どうやら彼が急に外国からの武器や品物の販売をぴたりと止めたみたい』
「バカ野郎……」
バカな真似をするなら、せめて控えめにしろよ……
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「あ、ここにいたの。探し回ったわよ。もう帰らないと」
「あ! りりお、早く来て! このお花見て、すごく綺麗よ」
「そんなに強く引っ張らないで」
少女の目の前には、果てしなく続く花畑が広がっていた。りりおは目を見開き、その美しさに言葉を失った。
「ちょっと待って……もう夏なのに?」
彼女は夏に咲く花があることを知らなかったので、余計に感動した。姫子はまべの手を握り、まべはくろえの手を握り、まるで幼稚園児のように手を繋いで紫陽花の花畑へ走り出した。四人は境界のない花畑を、幸せそうに駆け回った。
「すごい……こんなものが世界にあるなんて思わなかった!」
一番興奮していたのは、やはり家に閉じ込められていた姫子だった。
「そうですね……何度か見たことはありますが、やっぱり感動します」
この一ヶ月、姫子は様々なものを見て、外の世界をたくさん学んだ。りりおも自分の主人に色々なものを見せてあげられて楽しかった。
「ここはね、みんなで力を合わせて植えて、みんなで大切に育ててきたんです。姫子があんな顔をするのを見て、すごくやりがいを感じました」
「へへ」
りりおは、旦那様たちがもうすぐ家に帰ることを思い出した。
「あの……嬢様、そろそろ帰らないと」
「え……もう帰るの?」
二人の少女は午後のオイランの行列の準備をしなければならず、ここでお別れすることにした。りりおは姫子がまだもっと居たがっているのがはっきりわかった。
「嬢様……旦那様たちがいない日には、またここに来ましょうね」
「嘘じゃないわよね……」
「嬢様も知ってるでしょ、私が嘘はつかないって。それに、りりおのもう一人の友達にも会わせたいんです。でも時間的に、また今度にしましょう」
「もう一人の友達……いいわ。私も友達がいっぱい欲しい」
二人は美しい花畑を背に帰路についたが、姫子は何度も振り返って花畑を見つめ、また来ることを心に誓った。帰り道で二人の外国人の少女たちと出会い、「またね」と手を振り合った。
010
「入って入って。自分の家だと思ってくつろいで」
数日後、りりおはもう一人の女友達の家に姫子を連れてきた。彼女が病気だと聞いて見舞いに来たのだ。着くなり、挨拶もそこそこに二人の腕を掴んで家の中へ引っ張り込んだ。
「こんな風に来てくれるなんて思わなかったわ。しかも友達を連れて」
彼女は姫子の方を向き、温かい笑顔を向けた。見た目ではとても病気のようには見えず、二人はあまり心配していなかった。彼女自身は死ぬほど苦しんでいたのに。
「こちらこそ、りりおの友達に会えて嬉しいわ」
「うんうん、私はめぐみ。長野 めぐみ。この家は私が主よ」
「姫子。白縫 姫子。えっと、私はあまり物知りじゃないから、変なことをしたらごめんなさい」
りりおは姫子が自分の名字を名乗ったことに少し驚いた。しかも長野の家だ。でもめぐみだけなら大丈夫だろう。主人は留守だった。
「で、派手な男は?」
「今は故郷にいるわ。大事な用事があるって来られなかったの」
正確に言えば、今は安全な場所に逃げている。
「なるほどね。あ、そういえば数日前に母さんが本を買ってきてくれたの」
「本?」
めぐみは三人だけに聞こえるように小声で言った。
「うん……外国人の本よ。少し読んだけど、すごく面白いお話だった」
姫子はなぜめぐみが本のことで小声で話すのかわからなかったが、りりおはよくわかっていた。
「じゃあ私の寝室に行きましょう。あそこに本がいっぱいあるの」
「これよ」
めぐみは山のような本を少女たちに見せた。彼女の部屋は本が大好きだと一目でわかるほど、周りの木の棚は本で埋め尽くされていた。
それを見たりりおの目が輝き、すぐに山の一番上の本を開いた。しかし——
「読めない……」
中には知らない文字がぎっしり並んでいて、彼女が毎日読んだり書いたりしている文字とは全く違っていた。
「あはは、ごめんごめん。つい忘れてたわ、彼らの言葉は読めないんだよね。じゃあ私が読んであげる。母様が小さい頃から彼らの言葉を教えてくれてたの」
「お願い」
めぐみは姫子が読みたいと思っていた本を手に取り、一ページ目を開いた。
「あなたは魔法を信じますか? 私にとって魔法は素晴らしいものです。望むどんなことも叶えてくれます。ただ、多くの人はそれを魔女が呪いや殺人に使う異端のものだと見なしています。それはきっと教会の歪んだ教えのせいでしょう」
私たちは彼女が本の内容を読み聞かせてくれるのを、ただ黙って聞き続けた。
結局聞き疲れて本当に眠ってしまい、二人が起こしてくれた。父と母がもうすぐ帰ってくる時間だったからだ。二人はいつもこうして彼女を起こすので慣れていた。日が経つにつれ、姫子はりりおがずっと望んでいた「普通の生活」に少しずつ近づいていった。
夜更け、姫子は自分の母親のような存在である人に、この一ヶ月で知ったことをすべて書いた手紙をしたためた。
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**姫子から撫子への手紙**
撫子さん、こんにちは。お元気ですか? たった一ヶ月しか経っていないのに、正直すごく撫子さんのことが恋しいです。今はりりおやみんなも変わらず元気です。私は今、友達がたくさんできました。りりお、くろえちゃん、まべちゃん、めぐみちゃん。一ヶ月でこんなに増えるなんてすごいでしょう?
最近は父様と母様が家にあまりいらっしゃらないので、いろいろなことを試してみました。お菓子を作ったり、本を読んだり、絵を描いたり、和歌を書いたり、オイランの行列を見たり……。撫子さんは覚えていますか? あの、饅頭を買う時にわがままを言っていた子供たち。最近はよく一緒に遊んでいます。たいていは鬼ごっこやかくれんぼです。本当は夏になると子供たちは虫捕りをします。私も大きなカブトムシを捕まえました。名前はキントキ。かっこいいでしょう? ああ、そうそう。私たちはみんなで川で水遊びもしました。子供たちがいつも誘ってくれるんです。
来月は、りりおの幼馴染が浅草に来るそうです。でもなぜか、りりおは私に会わせたくないみたいです。その時はみんなで花火大会に行きます。すごく楽しみです。今までは音だけ聞いていましたが、本物が見られるんです。でも父様と母様がいらっしゃるかどうかわかりません。でもいらっしゃっても、りりおが逃がしてくれるでしょう。
本当はもっと書きたいけど、紙が長すぎて尻尾みたいになってしまいますね。来年また会いましょう。機会があったらまた手紙を書きます。とくいくんとまえちゃんにもよろしくお伝えください。
愛と恋しさを込めて 姫子
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翌日の午後遅く、夕方近く。白縫見性寺
見知った顔も知らない顔も、整然と座って瞑想し、奇妙な祈りの文を聞いていた。手近と直美が戻ると、娘はすでに儀式の準備を終えていた。二人は着替えをし、いつものように神託の儀式を始めた。今日は信者が前より多かった。二人はこのことを他言無用と厳しく言い含めていたが、世間の口は防げない。
しかし夫婦は気にしていなかった。むしろ老いた人々の盲信に感謝さえしていた。この儀式は姫子が八歳の頃、子供が少しは言うことを聞くようになってから始めていた。
「皆様……儀式を始める前に、お知らせがあります」
信者たちがざわついた。直美が手を叩いて静かにさせた。
「このところ、皆様もご存知かと思いますが、長野家の末娘が原因不明の病で倒れました。当主の坪見様は日本中の医師を招いて治療を試みましたが……」
夫婦は悲しそうな顔を作り、信者たちに嘘を語った。
「日本のどの医師も彼女を治すことはできませんでした。そして神様の神聖なる力により、本日夕方、私たちは坪見様とご令嬢をお招きして、寺で浄めの儀式を行うことになりました。昨夜、神様と相談を済ませております」
「そのため、今日は皆様全員に神託をお伝えできないかもしれません。申し訳ありません。そして神様にもお詫び申し上げます。私たちのような戒律を守る者が、信者である皆様の問題より私事の方を優先してしまいました」
信者たちは手近の言葉を素直に受け入れた。その後、儀式を辞退する者も現れ、そうしたことが起きたことで人々の信仰はさらに強まった。
長野家の者がここに来ると聞いて、りりおはすぐに眉をひそめた。
原因不明の病で治らない少女……まさかめぐみちゃん? りりおは昨日姫子を連れて会った、あの明るい少女の顔を思い浮かべた。
でも彼らはこんな治療法を信じるような人たちじゃないはずだ。長野家は何を考えているんだ?
長野家の社会的な役割は金融業で、税金の管理や貨幣の鋳造を監督している。一時期は貸金業も行っていたが、今は廃止した。彼らは江戸の全員の財務を握っているため、大手商家から危険視され、誰も取引をしたがらない。金に目がないイカズチでさえ関わりを避けている。小娘のめぐみは危険ではないが、危険なのは現在の当主だ。
さらに、大手商家の間では彼らが違法な武器や品物を所持しているという噂がある。それが本当であることを、彼らがまだ知っているかどうかはわからない。そしてそれを売ったのは他でもない——
何か企んでいるのか……
りりおは馬込宿にいるイケダに、手紙を送っていた。福岡か大阪方面へ逃げるよう伝えた。
予定ではあと数日で、イケダとたまお、そして母が浅草に来るはずだった。でも今すぐ浅草から遠ざけないと、命が一つで済まない。
手紙は半月近くかかるが、運が良ければ十日。時間からすると、もう本人に届いているはずだ。
りりおは横目で姫子を見て思った。
もし残された私たちの家族が追われることになったら、嬢様が巻き添えになる可能性も高い。
彼女は首を振り、そんなことにならないよう祈った。
そして約束の時間が来た。使用人たちが輿を担いで寺の門の前に並んだ。長野家が到着した。
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(二週間前へ遡る)
長野家の主治医が帰った後、当主の坪見は茶を飲みながら娘と話していた。
軽いノックの音がした。
「何だ?」
「お嬢様にお客様が……」
彼女は少し不思議そうな顔をし、使用人に茶と菓子をもう一組準備するよう指示した。
そしてその客は、長野家の末娘・めぐみの寝室に入ってきた。品の良い、穏やかな雰囲気の男だった。白を基調とした服装で、女性のように柔らかな物腰。顔に浮かぶ笑顔は、見る者の心を温かくする。
「おやおや……一年以上ぶりですかね、こんな大切なお客様が来てくださるのは」
「たまにありますよ、坪見様」
彼は坪見の向かいに座り、ちょうど茶の準備ができた。使用人が茶を注ごうとしたが、男は自分でやると断った。
「で、何か? 突然連絡もなく来るなんて。まさか商売が傾いて金借りに来たとか?」
「まさか。私は個人的にお話ししたいことがあって」
坪見は使用人を見て、目でドアを指した。使用人は頭を下げて退出した。
「何の話だ? まさか本当に商売が傾いたとか言うんじゃないだろうな」
女性は冗談めかして言ったが、彼が何を話すかは予想がついていた。
「場所を変えませんか? めぐみ嬢に聞かせるのはまずいでしょう」
坪見は眠っている娘の頭を撫でた。
「心配いらない……この子はもう眠っている。言っても聞こえないわ」
「そうですか……ではお話しします。白縫家のことです」
坪見は少し顔をしかめた。白縫家は彼らと同じ古い家柄だが、ただの大手商家の分家に過ぎない。なぜそんな重要でない家の名前を出すのか。
「どうやら彼らが裏で何かやっているという情報を得ました」
「ちょっと待て、カタギリ君。僧侶である白縫家が戒律に反することをしていると言うのか?」
カタギリと呼ばれる男は菓子を一口食べ、少し間を置いて続けた。
「まだ確証はありませんが、私の調べでは、白縫家は自分の寺で奇妙な儀式を行い、信者から財産を騙し取っているそうです」
「…………」
坪見は目の前の男の言葉を信じたくなかったが、彼は根拠のない中傷をするような人間ではない。
「最初は将軍様に報告して対処しようと思いましたが、状況からして将軍様も証拠のない私の言葉を信じるとは思えません」
「だから私に助けを求めに来たわけか……」
カタギリは頷いた。
「で、私に何をしろと言うんだ?」
カタギリは冷たい声で、迷わず言った。
「白縫家を『消す』手伝いをしていただきたいのです」
「自分が何を言っているかわかっているのか? もし長野家や青山家が言うならまだしも、優しいことで知られる宮島家の当主であるお前が、一つの家を消すなど、綺麗に終わる話ではないぞ」
闇社会では、有力な家が相手を消すことは可能だ。一族皆殺しにするだけでなく、合併や事業を通じた資産の乗っ取りなど様々な方法がある。しかしそれには、消された側のコネや影響力を考慮しなければならない。下手にやれば自分たちが滅ぶ。
「しかし白縫家がやっていることは、決して許されることではありません」
「彼らと手を組んでいる者は?」
カタギリと坪見は、傍流の家も大手と密約を結んで家を守ることはあると知っていた。特に危険な青山家と手を組んでいたら最悪だ。
カタギリは首を横に振った。坪見は長野家のイメージとは正反対の言葉で彼をもう一度諭した。
「私はお前が黙って見過ごせない気持ちはわかる。でもお前の息子や娘ももう大人になりつつある。感情のままに彼らの未来を台無しにするんじゃない」
「わかっています……しかし」
坪見はため息をついた。美しくも陰りのある青年の顔を見て、彼女は心が揺れた。
「で、お前の計画は?」
止めることができないのなら、一緒になるしかない。カタギリは白縫家がやっていることの確かな証拠が欲しかった。坪見はそれを受けて、かなり大胆な計画を考えついた。
彼女の考えた計画は、宮島カタギリが当初考えていたものと大差なかった。
---
現在
夫婦は長野家当主の到着に深々と頭を下げた。彼女は二人に微笑みかけた。りりおは全身が緊張した。姫子は少し呆然とした。
何かあったらすぐに嬢様を抱えて逃げる。
「いらっしゃいませ、坪見様。ではご令嬢をこちらにお寝かせください」
直美は奇妙な形の絹の布を指し示した。坪見は使用人に合図し、めぐみを寺の中央に置かれた布の上に寝かせた。周囲は神の奇跡を見たい信者たちで囲まれていた。
坪見は周りを見回し、カタギリの言葉が正しいことを確信した。彼女は信者たちの心からの喜びの表情を見てから、姫子に視線を移した。
姫子は小さく身じろぎして応えた。坪見は優しく微笑み返した。
【どうやらこの子がカタギリ君の言っていた神の依り代らしいな?】
聞いたところ、彼女はただ座っているだけで、あとは両親がすべて処理するそうだ。
「坪見様、どうか手を合わせ、心を集中させてください」
坪見はゆっくり目を閉じ、夫婦の指示に従った。そして昨日の主治医の言葉を思い出した。
【申し訳ありませんが、お嬢様。この症状では、もう長くは持たないでしょう】
【もう少し延ばすことはできないか?】
【できますが、それは彼女を苦しめるだけです】
【うっ……! お母様、お母様、痛い……すごく痛いよ】
【頑張りなさい、めぐみ。母さんは君が必ず良くなると信じているわ】
娘がもう長く生きられないことを心ではわかっていながら、彼女は娘を慰めるためにそう言った。
だからこそ彼女はただ娘の手を握り、離さなかった。そしてまもなく、カタギリと密約を結び、娘の本心を知った。
夫婦は奇妙な祈りを唱え始めた。信者たちは布の上に横たわる少女をじっと見つめた。
そして全ての惨劇の始まりが、ここに訪れた。
手近は何かの薬の瓶を持ってきて、めぐみに飲ませた。
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【お母様……白縫家を消したい……の?】
死にかけの少女の弱々しい声が、母親を驚かせて言葉を失わせた。
【めぐみ……ずっと聞いていたのか……】
【うん……忘れないで。私、耳がすごくいいんだから】
母が何をしようとしているかを知っていても、めぐみは母に優しい笑顔を向けた。
【ええ、白縫家は自分の娘を神として祭り上げ、奇妙な儀式で村人を騙してお金を取っているわ。でも心配しないで。母さんは本当に彼らを消すつもりはないの。ただ……】
坪見が言い終わる前に、めぐみが遮った。たった二週間しか知らない姫子の話を聞いたからだ。
【私も……計画に参加させて……ください、お母様】
坪見は目を見開き、叱ろうとしたが、まためぐみに遮られた。
【たった二週間しか知らないけど、あの子……姫子はただ、親に……利用されているだけなの】
【どうせ……もう長くないんだから……お母様と親友のために、何かしたいの】
【……めぐみ、母さんのためにそんなことをしなくてもいいのよ。彼らを消す方法は他にもあるわ】
めぐみは次第に弱っていく力を振り絞り、坪見の手を強く握った。
【お母様……すごく痛いの……死にそうなくらい痛い……このまま生きても苦しむだけ】
坪見は握る力が弱くなっていくのと、震える声をはっきりと感じた。今のめぐみの体は、まるで肉挽き機にかけられているようだった。そして何より苦しんでいるのは、めぐみではなく坪見自身だった。
【私を死なせて……お母様……お願い……】
愛する末娘は、もうこれ以上苦しみたくないだけだった。彼女は人生の最後に誰かの役に立ちたくて、自分の生死を使って、たった二週間で出会った友達を地獄から救い、母が最初から望んでいたすべてを手に入れようとした。
めぐみが何かの薬を飲むと、手近は再び奇妙な祈りを唱え始めた。そして予想外のことが起きた。
「うぐっ!! あ……あぁ……ああああああああああああああああ!!!!!」
突然彼女の体が激しく痙攣し、生きながら火あぶりにされているかのように絶叫した。
姫子は助けに入ろうとしたが、りりおに引き止められた。出て行けばすべてが終わる。
そしてりりおは、最初は驚愕していた少女の目が、今はわずかに憎しみを帯びた目になっているのを見た。
使用人たちが駆け寄って様子を見たが、
「皆様! 今、病魔がこの子から解き放たれようとしています!」
手近と直美はただその光景を眺めていた。めぐみは激しく痙攣し続け、坪見は愛娘の苦痛の叫びに耐えきれず、駆け寄ろうとしたが夫婦に止められた。
「あなたは儀式を台無しにしたいのですか!? この神聖なる儀式を守らなければ、神様は私たち全員を罰しますよ!!!」
その言葉で坪見の何かがぷつりと切れた。先ほどまでの美しさは消え、代わりに別のものが現れた。
「神聖なる儀式? 黙れ!!! お前たちはただの詐欺師だ!! 村人を騙すだけの卑劣漢!!! 自分の娘を……」
坪見が言い終わる前に、りりおの手を振りほどいた姫子が、覆面をしたままめぐみの元へ駆け寄った。
「めぐみちゃん!!! めぐみちゃん!!! 大丈夫!? めぐみちゃん!!! そうだ、医者! 医者を呼んで!!!!!」
それは信者たちが初めて姫子の声を聞いた瞬間だった。顔は見えなかったが、その声は白い絹のように柔らかく、叫んでいるのに美しかった。
手近と直美は目の前の光景に凍りついた。十数年間守ってきた秘密に、ひびが入り始め、小さな亀裂が大きな穴になり、壁全体を崩壊させようとしていた。
「早く医者のところへ!!! 早く彼女を!!!」
「早く!!!」
使用人と坪見はめぐみを儀式の場から運び出した。騒ぎはそこで終わり、信者たちも慌てて寺から出て行った。
夫婦の顔は今、獲物を狙う殺人者のようだった。虚ろな目は実の娘に向けられ、亡霊よりも強い憎悪を湛えていた。
りりおは今が極めて危険だと感じた。そしてその予感は正しかった。
直美は何処からともなく尖った短剣を取り出し、ぼんやりと姫子に近づいていった。手近は自分の寝室に戻った。その時、姫子が両親に背を向けていた。次の瞬間、直美は短剣を高く振り上げ、実の娘の頭を刺そうとしたが、りりおが素早く姫子を抱きかかえた。
「ぎゃああっ!!!」
「りりお!????」
りりおは姫子を抱きかかえた瞬間、右肩を短剣で刺されたが、幸い急所は外れていた。
「その傷!! お母様……」
十八歳で外の世界を知らなかった少女でさえ、目の前の光景に衝撃を受けた。実の母が短剣を固く握り、亡霊よりも強い憎悪を浮かべ、床は血で染まっていた。
「全部終わった……何十年もかけてきた計画が……馬鹿な娘のせいで台無しだ。だからお前は死ぬべきだ!!!」
直美は血まみれの短剣を振り回し、精神病患者のように姫子に向かって突進した。
「どういう意味ですか、お母様」
「どういう意味? お前はもう私たちの金儲けの道具じゃなくなったということよ!!!」
直美は勢いよく娘を刺そうとしたが、りりおは近くにあった油燈を投げて直美の顔に当て、姫子の手を引いて寺から逃げ出した。怪物のような絶叫が響き、二人の少女は二度と寺を振り返らなかった。
二人は闇夜の中をひたすら走り続け、光と喧騒の中に消えた。
その後、夫婦は実の娘の行方を二度と知ることはなかった。
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数ヶ月後、夏の終わり頃。相変わらず賑やかな吉原にて
「くろえちゃん、こっちを手伝って。姫子とりりおちゃんは女将様たちを手伝ってね」
まべの声が終わると同時に、全員が自分の仕事を始めた。
あの日から、行くあてのなかった二人は、もう一つの大手商家であるアンリノサキ まえの庇護下に入った。二人は住む場所と引き換えに禿として働くことを申し出た。最初、まえは拒否した。二人が身を落とす仕事をさせたくなかったからだ。しかし二人がしつこく頼み、二人は遊女にはなりたくないと言ったので、仮の住まいとして受け入れた。
このような場所で働いて数ヶ月、姫子は望まなくても性教育について多くを学んだ。そして二人が美人だったため、まえは客の前には出さない仕事——洗濯や客・他の遊女のための食事作り——を任せた。
りりおは今、自分自身に何も感じなくなっていた。幼馴染と家族、そして主人が無事だとわかった今、少し安心していたが、油断はできなかった。
まえの庇護下にいても、追われる可能性はゼロではない。今のところ、りりおはこの先どうするべきか、まだ考えがまとまらなかった。
しかしそのことは今は後回しだ。
「素晴らしいわ、姫子ちゃん。最近髪結いが上手くなったわね」
「へへ、ありがとうございます」
遊女の姉さんの一人がそう褒めると、姫子はもう慣れた様子だった。
「今まで本当に苦労したわね。でもまあ、私たちも捨てられたり売られたりした身だから」
ここに来てから、姫子は新しい家族である遊女たちの様々な話を聞き終えていた。そのため、彼女の物腰や話し方は以前とは少し変わっていた。
「そうですね……」
「別に責めてるわけじゃないけど、あの人たちにとって君はただの歩く金儲け道具だったのよ」
「…………」
遊女の姉さんはきつい言葉を言ったが、姫子はただ黙っていた。それは真実だとわかっていたからだ。
「ちょっと待って……朝からそんな話をするの? しおんさん」
りりおが二人の遊女の化粧をしながらたしなめた。
「ごめん……親の話になると、ついムカついて抑えきれなくなるのよ」
「しおんちゃんは小さい頃に親にここに置いていかれたからね」
「で、あんたは? 夫の借金はもう返し終わったんじゃないの?」
「うん……最初は故郷に帰るつもりだったんだけど、後から知ったの。彼はもう新しい家庭を作ってて、私が何の仕事をしてるか、みんなに言いふらしてたのよ」
「最低ね、男って」
毒づいたのはしおんではなく、姫子だった。
「落ち着きなさい、雌虎ちゃん」
「まあまあ、過ぎたことよ。私にも選択肢なんてなかったし。あんたたちもこの仕事はしない方がいいわ。禿のままでいた方がいい」
「「はい……」」
「みんな、準備して。お客さんが来るわよ」
まえが手を叩いて合図すると、化粧を終えた遊女たちは自分の仕事に出て行った。客が来始めたので、二人はいつものように台所へ向かった。
音楽と女性たちの喘ぎ声が響く中——二人はもう聞き慣れていた——
二人はその後もこうして生活を続けていった。
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午後、姫子と少女たちは外を散歩したいと言い出した。通常、禿は勝手に外を歩き回ることは許されないが、四人はまえが特に可愛がっている子たちだったので、誰も反対しなかった。
「疲れたわ……やっと外に出られた」
「そうね。禿として働いて何ヶ月も経つのに、まだ慣れないわ」
「今日は何しようか? 花園に行く?」
「昨日も行ったばかりじゃない……今日は何か食べに行こうよ」
「ここで売ってるものなんて限られてるし、外で買うならこの二人に頼むしかないわね」
「いいわよ。じゃあ頼むね」
「はあ……わかったわよ」
そして二人は門の外へ出た。まえが門番の兵士に、二人は遊女ではないと伝えてあったので、大門の出入りに切手は必要なかった。他の人を連れ出すこともできたが、規則は変わらなかった。
「食べ物を買うたびに……はあ……」
「いいじゃない、りりおちゃん。久しぶりに外に出られたんだから」
「私たちは今、追われているのよ。白縫の人間に見つかったら終わりよ」
「はは、そうね。でも今は前みたいにこそこそしなくていいじゃない」
「その頃と今も大して変わらないわよ。自由にできることは増えたけど、長くはできなくてすぐに仕事に戻るし、睡眠時間も少ないし」
「まったく……そんなに大騒ぎしなくてもいいのにね、お客様」
からかうような男の声が二人の耳元で響いた。姫子は自分の声が少し大きかったことを申し訳なく思ったが、りりおは違った。
会っていない期間は半年近くになるが、この頭を叩きたくなるような声は、絶対に忘れられない。
彼女はゆっくりと振り返り、二つの感情が混ざり合って混乱した。ひとつは彼への懐かしさ、もうひとつは今どうしていいかわからない不安だった。彼女はさっきの声が幻聴であってほしいと願ったが、世界は彼女に優しくなかった。
「よう、嬢さんたち。お土産を買って帰らない?」
「イケダ……どうして君が……」
「イケダ?……誰? りりおの友達?」
りりおと姫子の目の前にいたのは、武器や違法品の取引市場を崩壊寸前まで追い込んだ男だった。
「おお……お前か」
イケダはりりおの後ろに隠れている姫子に視線を移した。
「え……?」
彼女は少し震えていた。彼が父と母の人間ではないかと警戒していたが、りりおの知り合いらしいので、少し安心した。イケダはその様子を見て近づき、しゃがんで少女の手を取った。
「もしよかったら……僕と結婚してくれない?」
「「はあ!?!?!?」」
姫子は手を振り払おうとした……が、しなかった。
「ちょっと!! 何言ってるのよ!!!」
先ほどの緊張した空気が、イケダの突然のプロポーズで吹き飛んだ。りりおはもう我慢できなかった。
「君って……可愛いね。いや、美しいよ。え、違う、美しくて可愛いよ。さっき君が歩いてくるのを見て、僕の心が決まったんだ。僕の心を盗んだのは君だ!!!」
「嬢様、行きましょう。この男はただの口だけ番長ですよ」
「えっと……はい、姫子です」
「名前を教えるなよ!!!」
「姫子か。お前は性格の悪い泥棒だな」
「どうしてですか?」
「僕の心を盗んだからだよ」
りりおは露骨に嫌な顔をした。彼女は横目で姫子を見たが、姫子は微笑んでいた。止めるのは無理そうだ。
「ちょっと!! 彼女に近づくなよ。そして母さんとたまおは!? まさか一緒に連れてきたんじゃないだろうな」
「心配するな。母さんとたまおは福岡に逃がしたよ。あそこに小さな村があって、知り合いがいる」
姫子はすぐに撫子の顔を思い浮かべた。彼女の故郷もそこだった。
「安心したわ……でもどうしてここに戻ってきたの!! 誰も彼もが君を追ってるって知らないの?」
「まあ……お前も知ってるだろ、僕は逃げるのが上手いんだ。父上だって捕まえられないよ」
「バカなこと言わないで!!! これは冗談じゃないのよ!!!」
「りりおちゃん……」 姫子がりりおの浴衣の袖を引いた。
「落ち着いて、イケダさん……少しお聞きしたいことがあるんです」
「嬢様……」
「りりおちゃんはまべちゃんたちに食べ物を買ってきてあげて。私は彼と少し話したいの」
「…………わかりました」 そして彼女は歩き出した。
「そういえば、お前はりりおの雇い主なんだよね? 入ってよ」
イケダは彼女を店の脇にある小さな家の椅子に座らせ、茶を淹れて持ってきた。
「つまり……イケダさんとりりおはどんな関係なんですか? とても仲が良さそうですね」
「幼馴染だよ。何? 僕が女たらしの遊び人だと思ってるの? 違うよ……僕は一途なんだ!!!!!」
イケダは信じがたい「誠実さ」について延々と語った。知っている人なら一目で睨むか怒鳴りつけるだろうが、意外にも彼女は笑い出した。彼の言うことが何かわからないが、面白いと思ったのだ。
「…………」 イケダは二秒間目を丸くして、すぐに気を取り直した。
「ごめんなさい……へへへ。なんかイケダさん、面白いんですよね、へへへ」
「そんなに笑わなくてもいいだろ。それで、聞きたいことって?」
「いいえ……聞きたいのは父様と母様のことです」
「どうして僕に聞くの……」
姫子はイケダの顔をじっと見つめ、先ほど思いついた推測を口にした。
「だって、りりおの知り合いはほとんど大手の家の人ばかりですもの。あの子は、幼馴染の雇い主に連れられて知り合ったと言っていました。そしてその人がイケダさんです。あなたが大手と知り合いなら、白縫家についても知っているはずですもの」
「…………呆れたな。それで何が聞きたいんだ?」
「白縫家に関することすべてです。イケダさんは何か知っていますか?」
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同時刻、青山家屋敷にて
「これじゃ台無しだな。十数年かけて準備したというのに……せめて説明くらいしてくれよ」
応接間で、白縫夫婦は現在の青山家当主・イカズチと話をしていた。姫子が家出をしたことで、二つの家が結んだ息子と娘の結婚による事業提携と家系の安定という計画は完全に崩れた。
その混乱のせいで夫婦は家から出るのも恐れ、坪見が復讐に来るか、将軍に報告されるのを警戒していたが、何も起こらなかった。
「申し訳ありません、イカズチ様。私たちは今、娘を探しています。ご安心ください」
「もしあの娘がまた逃げたらどうする?」
「心配はいりません。私たちには地下牢に改造した地下室があります。あの娘を見つけたら、そちらで閉じ込めておきますので、そちらで式の準備を整えてください」
「うむ……そうしてくれ。ただし気をつけろよ。今、長野家の娘が亡くなったという話だ。最悪、長野家が宮島家と手を組む可能性もある」
「「はい/はい」」
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「はっきり言えば、白縫家は最初から寺に関わってきた家柄だ。古い家柄だが、今の地位はただの分家に過ぎない。この家がその奇妙な儀式を考え出した最初の人たちらしいな」
「…………ということは、私はただの歩く金儲け道具だったということですか?」
彼女はあの日の坪見の言葉を思い出し、悲しげな顔をした。
「私はお前の両親に会ったことはないが、お前の話からすると、そういうことだろうな」
彼女はただその事実を受け入れた。自分を金儲けの道具としか見ない両親の気持ちを。
「でも言わせてもらうと、僕もお前と大して変わらないよ……」
「え?」
「元々、僕もお前と同じ商家の生まれだ。九歳の時に父上に知らない女と無理やり婚約させられて、家出をした。あの娘がもっと幸せに生きられたらいいのにね」
彼は知らなかった。父が幼い頃に婚約させた少女が、今、自分のすぐ隣に座っていることを。
「イケダさんって、本当に自由を愛する人なんですね。私もそうなりたいわ」
「なれるよ。ただ自分がしたいことをすればいい。失敗しても、思った通りじゃなくても、また始めればいい。人生は短いけど、死ぬまでは長い。死ぬ前に、ずっとやりたかったことをやってみたらいいんじゃないか。父と母はただ俺たちを正しい方向に導く存在だけど、もし親があんな性格なら、俺たちを正しく導いてくれる誰かを見つけりゃいい」
姫子はじっと彼の顔を見つめ、続けて聞いた。
「誰か……ですか?」
「僕たちさ……もし家族がお前を正しく導いてくれなくても、僕たちがお前を支えるよ。友達や大切な人が困っていたら、ただ言ってくれ。僕たちは全力でお前を助けるよ」
「…………」
「あ、でも恋人って言うのはまだ早いかな。じゃあ遠くからこっそり好きになってる人、ってことにしよう……」
「たった今知り合ったばかりなのに、そんなにしなくていいのに?」
「友達だろ。友達が困っていたら助けるのは当然だよ。えっと、お金は除くけど」
姫子はため息をつき、午後の空を見上げた。
「不思議ね。自分を産んだ親は私を道具や金儲けの手段、または死ぬべき罪人としか見ないのに、私を暗闇から引き上げてくれるのは、たった今出会ったばかりの赤の他人。どう考えても信じたくない現実よね」
「そうだな……人生はこんなものさ。いつもブラックユーモアばかり。でも人と出会い、いろんなものを感じて、よく考えてみれば、あの頃どうしてあんな風に生まれてこれたのか不思議だ。結局、私たちはただ、生まれる時代を間違えただけなんだよ」
「そうね……イケダさんと会ってまだ五分も経っていないのに、話していて楽しい友達だって感じるわ。家にいた時より全然息苦しくないもの」
「話す友達? 恋人になりたいんだけど……」
「口が上手いわね。女の子を好きになる前に、まず信用させてからにしなさいよ。お父さん似の遊び人さん」
「言葉だけじゃ信用できない?」
「絶対に」
するとりりおが戻ってきた。手には門の外で買った食べ物がいっぱいだった。
「何か大事な話をしてるのかと思ってたのに、結局ナンパしてたのね……」
「違うよ……りりおったら」
「嘘つくならもう少し上手くやってよ。顔真っ赤なんだから、誰だってわかるわよ」
りりおはイケダが売っているお土産に目を留めた。中には美しいお土産がたくさんあり、どう見ても外国の品物も混ざっていた。
「イケダ、これ一つ買うわ」
彼女は蝶の形をした簪を一つ手に取った。形からして上流階級のものだろう。金色の軸と、ガラスのように透明な青い蝶の組み合わせが、姫子の目を輝かせた。
「きれい……」
「え……でもお前の元の簪もきれいじゃないか。新しいのに替える必要ある?」
「違うの……自分用じゃないの。姫子に買ってあげるの」
「え? なんで? こんな高いもの、買わなくてもいいのに」
「別に高く売ってるわけじゃないよ……」
「まあ……ただあげたいだけよ。大したことじゃないわ」
りりおがお金を財布から出そうとしたが、イケダが止めた。
「払わなくていいよ。その代わり、この子の髪を結わせてくれない?」
「…………」 りりおは露骨に嫌な顔をした。彼女は横目で姫子を見たが、姫子は微笑んでいた。止めるのは無理そうだ。
「いいわよ、好きにしなさい」
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「信じられないわ……あんな口だけの遊び人が、こんなにきれいに髪を結えるなんて」
「当然だろ」
椅子に座っている姫子は、後ろに立つイケダの方を振り返った。
「ありがとうございます……」
りりおが今まで感じたことのない、でも知っている何かが胸を刺した。彼女は「友人を捨てて男を取る」という言葉を聞いたことがある。今まさにその気持ちが内側から激しく彼女を襲っていた。イケダに嫉妬しているわけでも、姫子が彼に好意を抱いているのが嫌なわけでもない。彼女は彼のことを好きではない。ただ、姫子が自分より早く夫を見つけたことが羨ましいだけだ。自分も姫子と同じくらい美しいのに。
もしかして私は女力士だから?
「あらあら、もう行きましょう。あの二人、待ってるわよ」
「そうだな。じゃあまたね、イケダさん」 彼女は彼に手を振り、門に向かった。
「りりお……一つ聞いていい?」
「何ですか?」
「イケダさんはもう恋人がいるの……?」 りりおは一瞬固まり、姫子は顔を両手で覆った。顔はトマトのように真っ赤だった。
「本気で……あの男に……本気で聞いてるの!?」
「だって彼、かわいいし……どうしようもないじゃない……」
「誰が好きになろうと止めないけど、せめて人を選びなさいよ!! ただ顔がいいだけの遊び人じゃダメでしょ!!!」
「まるで自分の好きな男が優れてるみたいな言い方ね……」
「ふん……私の夫になる男は、私と子供たちを片手で持ち上げられるくらい強くて、誠実で心の優しい人でなくちゃ。あなたみたいな遊び人とは違うわ」
急所を突かれて、姫子は言い返した。
「女力士らしいわね……」
「何ですって!!! 今すぐ頭を叩き潰すわよ!!!」
二人の声は周囲に響き渡り、人々が振り返ったが、二人は気にせず、誰の夫が優れているかで言い争っていた。
人は社会と出会う人によって変わると言われる。姫子もそうだった。
今の彼女にとって、大切なのは出会った友人たちだけだった。でも両親が自分を産んでくれたことには感謝している。でもどうしようもない。あんな風に接してくるなら、放っておけばいい。彼女にとって本当の家族は、もう身内ではなく、初めて出会った赤の他人だった。
嬉しさ、悲しさ、興奮、人との出会い、手紙を書くこと、本を読むこと、絵を描くこと、走り回ること、お菓子を食べること、友達がいること、ふざけた冗談を言うこと、綺麗な服を着ること、男性にプロポーズされること、恋をすること——この数ヶ月で得たすべてのものは、すべて赤の他人から得たものだった。
姫子はもう白縫家の一員ではないとはっきり言える。あんな汚れた血筋、自分を道具としか見ない人たちの血など、もういらない。
でも彼女は高尚な目標を立てるような人間ではない。ただ自分を理解し、受け入れてくれる人がいれば、それで十分だった。たとえ今まで一度も会ったことのない人たちでも。
そして「同じ種類の人は惹かれ合う」という言葉を聞いたことがあるだろうか。姫子だけでなく、彼女が友人と呼ぶ人たちも、同じような気持ちを抱いていた。
りりおは母を、子供を金儲けの道具としか見ない狂った女だと思っていた。でも弟のたまおが可哀想なので、母を心配しているふりをしていた。
イケダは、古くからの無理な見合い結婚を、頭の固い人間が他人を強制するものだと見なしていた。彼はそんな馬鹿げたことを嫌い、日本中を旅して多くの人と出会うという、自分がずっとやりたかったことを選んだ。
くろえとまべは、自分たちは普通の生活がしたいだけなのに、神という目に見えないものを盲信する奇妙な人間たちのせいで、両親を含め、そんな人たち全員に嫌気が差していた。
そして同じ考えを持つ者同士が出会い、奇妙だが、ずっとまともな絆が生まれた。
彼らがこれからもこうして幸せに生きていけることを願うばかりだ。でもそれは叶わないだろう。
彼らは、自分たちが望む良い人生を送ることを許されていなかった。特に大人たちから。
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夜……
「あら……りりおも休憩?」
「ええ……でも休むならもう少し良い場所を選んでくれませんか」
「でもあんたもここに来てるじゃない」
二人は店の屋根の上に座っていた。ここは姫子のお気に入りの場所だった。毎晩ここで星を見ていたからだ。りりおが一緒に座ると、つじみかどという猫が彼女の膝の上で眠っていた。
「猫を連れてここにいるのは危ないわよ」
「つじみかど様が自分で登ってきたのよ?」
「にゃあ……」「きゃあ……かわいい……」
「嬢様……今、自分が苦しい人生を送っていると思いますか?」
「もう思わないわ……今はみんなと一緒にいられるだけで十分よ」
「そうですか……知ってる? 私がいろんなところで働いていたのは、お金のためだけじゃないの。母さんから逃げたかったの。でも周りは『あれは母親よ、どんなに傷つけられても育ててくれた恩を返しなさい』って言うの。まるでそんな人間が偉いみたいに」
「面白いでしょう……君や私だけじゃない。出会ったみんなが身内に問題を抱えていた。身内なんて放っておきなさい。どうせ赤の他人の方が優しいんだから。だからみんな出会えたのよ」
りりおは口笛を吹きながら軽く手を叩いた。
「素晴らしいわね。その言葉、すごく心に響くわ」
「もういいよ……」
するとりりおは、夜空に好きな星座があることを思い出した。今は見えにくいが。
「ねえねえ、嬢様、見て。あれが彦星の星座よ」
「わあ……きれい。でも猫飼い星座はあるの?」
「あるわけないでしょ」
「そう……残念」
姫子と猫は同時に残念そうな声を上げた。
「まったく……一緒に鳴くなんて。やっぱり猫を食べたことがあるだけあるわね」
「今すぐ叩き潰すわよ!!!」
「それとも『友人を捨てて男を取る』って呼ぶ?」
「もうやめて……」
そしてりりおは、夜空に好きな星座があることを思い出した。今は見えにくいが。
長い夜はまだ続いていた。今も遊郭を覆う光と音は、毎日と同じように流れ続け、そしてその日が来た。
姫子が孫娘に語る、生涯忘れられない悲劇の始まりだった。
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翌日、夕方近く
りりおはいつものように休憩に出た。彼女は姫子をまべたちと花園に遊びに行かせ、自分は食べ物を買って、そして……
「よお……今日も買い物?」
幼馴染で、ただ一人の、彼女をあちこち連れ回した男と話すため。
「違う……ただ話したくなっただけ」
「へえ……じゃあ座って」
イケダは茶を淹れようと立ち上がったが、りりおが止めた。彼女は少し話すだけだった。
「で、何の話? あの美人のこと?」
「うん……姫子がね、君に聞いてほしいって。もう恋人はいるの?って」
「え……まさか、あの子、本気で僕のプロポーズを受け入れてくれたの? やっぱり僕の心を盗んだ美人だ」
「答えて……」 「まだ独身だよ」 「ええ……それだけ」
りりおは緊張した顔をやめ、少し柔らかい表情で聞いた。
「で、君が彼女を好きだって……本気?」
「本気だよ……冗談じゃない」
「…………君も彼女がどういう人生を送ってきたか知ってるよね。誰かに好かれることが、彼女をどれだけ喜ばせるかわかってるよね……だから、できればずっと彼女を守ってあげてくれない?」
「わかってるよ。すごくよくわかってる。姫子より美しい女の子なんて見たことないよ」
「へえ? 息子が言うなら約束は守るよね……」 「おいおい……僕の母親かよ……」
「で、何を考えてるの? どうして急に武器を売るのをやめたの? 君なら私の警告なんて聞かないと思ってたのに」
イケダはその言葉を聞いて、ありふれた本音を口にした。
「君が警告したからやめたんだよ。でも本当は、もうこんなことに飽きたんだ。普通の生活を彼と送りたい」
「自分の商売で周りを迷惑させておいて、のんびり暮らしたいだなんて。君みたいな人は全員いなくなればいいのに」
「そんなに呪わなくてもいいだろ……」
そしてついに来た。一つ目の爆弾が、ゆっくりと導火線に火が点き、彼らが望む平穏な人生を破壊しようとしていた。
「はあ……幸運だったわね。今、姫子は見知らぬ誰かと無理やり結婚しなくて済むんだから」
りりおは安堵したように言ったが、イケダはすぐに眉をひそめた。
「結婚?」
「あ……そうか、君は知らないんだよね。私が白縫夫婦から手紙をもらった時、姫子を長男の妻として教育するように言われたの。最初は秘密にしろって言われたけど、今さら隠す必要もないわね」
「で、花婿は誰? どの家?……」
突然彼の態度が変わった。りりおはそれを感じたが、なぜかはわからなかった。彼は普通の声で聞いた。
「わからないけど、花婿の名前を聞いたことがあるわ。アケイチとかいう……」
すべてが繋がり始めた……彼は姫子が無理やり結婚させられる家がどこか知っていた。そしてその花婿は他人ではない。彼自身だった。アケイチは彼がずっと敬愛してきた人物であり、実の兄でもあった。
「あの野郎」
「イケダ……どうしたの……」
もし家出せず、最初から姫子との結婚を受け入れていたら、彼女は今こんな苦しみを味わわなくて済んだのに。
「ちょっと!! 逃げる気!?!?」
すると門の方から騒ぎ声が聞こえ、振り向くとくろえとまべが外へ走り出てきた。
「…………」
イケダは何かに気づき、すぐに外へ出た。彼の考えがただの推測であっても、それが現実になる可能性は十分にあった。そして二人が叫んでいる騒ぎ声を聞いた。
「くろえたちを探して……」
「は?……何? どうしたの?」
「早く!!! 姫子が白縫夫婦に連れ去られた!」
りりおは目を見開き、二人が走り出てきてイケダが言った通りに叫んだ。
「「りりお!!!! 姫子が行方不明になった!!!!」」
りりおはイケダの方を振り返ったが、彼はもういなかった。さっきの言葉が耳に残っていた。門番の兵士が二人の腕を掴もうとしたが、りりおは二人に向かって叫んだ。
「まえさんに伝えて!!! 姫子が白縫に連れ去られたって!!!」
これは一体何のバカ騒ぎなんだ…… りりおは元主人の家だった場所に向かって全力で走った。彼女は知らなかった。これが彼女が一生忘れられない、ぞっとする夜になるとは。
今、役者は全員揃った。悲劇の物語はゆっくりと進行し続けていた。




