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私たちはただ、間違った時代に生まれてしまっただけだ。  作者: Sakusaku


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第2章 : 青山姫子 2


 二人は大きな商業地区へと歩いていった。夜も更けているというのに人通りは多く、少女が今まで触れたことのない色鮮やかな光の世界が広がっていた。


「嬢様、しっかり私の腕に掴まっていてくださいね。ここは人が多いので、はぐれたら大変です」


 姫子はその言葉を聞いて撫子の手を強く握り、二人でこの商業地区の賑わう人混みの中へ入っていった。


「あら! 誰かと思えば撫子じゃないか。こんな時間に夜食でも食べに来たのかい?」


 二人が立ち止まったのは屋台の前だった。そこでは遊び心のあるおじいさんが、そばをこねているところだった。


「こんばんは、庄十郎さん。今夜は知り合いを連れて夜食を食べに来たんです」


「おお……ほう、なかなかの美人じゃないか。まさかお前の隠し子か何かかい?」


「違いますよ。これは私の姉の娘で、この子は大都会に来たばかりで何も知らないんです」


 撫子は姫子を守るためにそう嘘をついた。姫子は何も知らないまま、撫子の言葉に合わせた。


「へえ……お前には姉がいたのか。で、お嬢ちゃんは何がいい?」


 庄十郎が姫子を見たので、姫子は慌てた。


「あ……えっと……」


 その時、もう一人の客が屋台に座った。


「あ、おじさん。私はこの綺麗なお姉さんと照れ屋のお姉さんにそばを二つ、私にはうなぎ丼をお願いします」


「わかったよ、お嬢ちゃん!」


 二人はピンク色の珍しい髪の少女を少し驚いた顔で見つめた。


「え……お前……」


「はじめまして、先輩」


 撫子は明らかに動揺していた。何か聞こうとしたが、少女は人差し指を唇に当て、親指で庄十郎を指した。


「ありがとう……えっと……」


「りりおです。皿屋敷 りりお。仲良くなりましょう?」


 りりおは姫子に優しい笑顔を向けた。撫子はその笑顔を見て、この子なら信用できると思った。


「え……仲良くなるって、友達になるってこと?」


「うん! そうですよ。周りには同い年の子があんまりいなくて。せっかく歳も同じなんだし、友達が一人くらいいても損じゃないでしょ」


「友達……そうなんだ……」


 それは少女が今まで知らず、触れたこともなかった言葉だった。彼女は四歳の頃、使用人たちの会話から「友達」という言葉を知ったが、それが何を意味するのかは理解していなかった。


「できた! そば二つ、うなぎ丼一つ!」


「はい、どうぞお二人さん。熱いうちが一番ですよ。いただきますね!!」


 二人は顔を見合わせて肩をすくめ、小さく笑った。


「「いただきます!」」


「美味しい! これがそばなの!? 毎日食べてるご飯よりずっと美味しい!!!」


「はははは、何だよお嬢ちゃん! 初めて食べたみたいな言い方だな。まあ、俺の腕は名人級だからな」


「いつも通りですね、庄十郎さん」


「なんだと、このガキ!!!」


「うん……家で私が作るのと同じくらい美味しいわ」


「それは褒めてるのか貶してるのか」


 りりおは姫子と話し始めたが、自分の新しい主人(あと二日後)がそばを美味しそうに食べているのを見て、邪魔をせずうなぎ丼を食べ続けた。


 三人は食事しながら約二時間話し、会計の時、撫子が払おうとしたがりりおが割り勘が公平だと言い、全員で割り勘にした。


 三人は人通りが少し減ってきた商業地区を歩いた。


「あの……撫子さん」


「どうしたの、嬢様」


 姫子は足を止め、一つの屋台を見つめた。どうやら甘いお菓子を売る店らしい。


「あれは何? 子供たちが並んでたくさん買ってるわ」


「ああ……あれは饅頭です」


「饅頭? 聞いたことない」


 りりおは少し眉をひそめた。(本当か、この子は饅頭を知らないのか。親は一体どういう育て方をしたんだ?)彼女は幼い頃から外の世界に出て、多くの人種や人々と出会ってきたので、こんな庶民的な食べ物を知らないお嬢様がいることに驚いた。


 りりおは知らなかった。姫子の人生がどのようなものか知らなかった。この家族が社会の闇でどのような儀式を行っているかも知らなかった。彼女が知っているのは、姫子が裕福な家の娘で、別の豪商の家に嫁ぐために送られるということだけだった。


 そして彼女は、幼馴染のイケダがこの全てのことを隠していることも知らなかった。彼は違法な品を売る商人として、誰にも知られていない秘密の情報まで知っていた。だからこそ幼馴染にこのことを隠していたのだが、なぜ隠すのか本人にもよくわからなかった。


「あれは小麦粉をこねて丸め、中に餡を入れて揚げたお菓子です」


 りりおは明るい表情で答えた。


「食べてみたい……いい? 撫子」


「いいですよ」


 姫子はその言葉を聞くなりすぐに列に並びに行った。二人はゆっくり後をついていき、姫子が「早く早く!」と叫んだ。


「りりおちゃん……ね。あなたが私を先輩って呼んだのよね。ということはあなたが……」


「はい……手近様から手紙で雇われて、代わりに務めることになりました」


 彼女は懐から手紙を取り出して撫子に見せた。撫子はざっと目を通し、本物の手紙だとすぐに確認した。


「でもあなたまだ若いわね……こんな仕事、大変じゃない?」


「大変ですけど、今頑張らないと将来もっと苦労しますから」


「そうね……」


 その時、饅頭を買った子供たちが喧嘩を始めた。姫子はそれを聞きつけ、二人のところへ近づいた。二人は姫子を呼び止めようとしたが、彼女には聞こえていないようだった。


「ちょっと待ってよ、私が買ったんだから私のものよ!!」


「バカじゃないの!! それは私の金で買ったんだから私のものよ」


「はあ!? でも金の一部は私の金でもあるでしょ!」


 並んでいた子供たちもブツブツ言い始めた。


「またこの二人か。いつも喧嘩ばっかり」


「そうだよ。いい加減にしなよ、ただの饅頭一個なのに」


「ねえ二人とも、どうしたの? お姉さんに話してくれる?」


 姫子は二人に優しい笑顔を向け、りりおの話し方を真似した。撫子が近づこうとしたが、りりおに止められた。


「こいつが饅頭を一人で食べようとしてるのよ。私の金なのに」


「ちょっと!! でも金の一部は私のものでしょ。だから私のものよ、この子じゃない!!」


 二人は次第に激しく口論し、頭をぶつけ合い、しばらくして姫子の方を向き、互いを指差した。


「「この子/こいつが悪いんだよ!!!!」」


 姫子は少し考え、揚げ饅頭を綺麗に半分に割り、二人に差し出した。


「あ……一個しかないから分け合おう」


「いらない!!!」


「少なすぎ!! 私は一個丸ごと食べたい!」


 辺りに大きな声が響き、周りの人々は姫子が二人に暴力を振るうのかと思ったが、違った。


 姫子は手を叩いて二人の注意を引き、二人の両方を抱きしめた。


「ねえ……こんなことで喧嘩するのは良くないよ。知ってる? 二人は友達なの?」


 抱擁を解き、二人の顔を、撫子や使用人たちを見るような優しい目で見た。二人はその優しい眼差しを見て、思わず頷いた。


「そうなんだ、友達なんだね。実は私、生まれて初めて友達ができたの。一人だけだし、会えたのもほんの数分だけど、失くしたくないの。だから私は友達関係をできるだけ長く続けたいって自分に言い聞かせてる。ずっとじゃないとしても、せめて長く続けてほしい。喧嘩ばかりしてると仲が壊れて、結局また寂しくなるよ。二人はそうなりたいの? 一緒に走り回った時間、笑った時間、一緒に甘いものを食べた時間……全部、揚げ饅頭一個のために無くしちゃうの?」


 二人は見知らぬ優しいお姉さんの穏やかな瞳を見つめ、互いに申し訳なさそうに目を合わせた。


「わかったら、相手に謝りなさい……心に残る後悔をなくすために」


「……ごめん。本当はあんたの金だったね。私はただ饅頭が食べたかっただけ」


「……私もごめん。あんたの金がなかったら饅頭買えなかったよ」


「やった! これでいい!! 二人とも偉いわ! おじさん!!!」


 彼女は先ほど事件を眺めていて饅頭作りを忘れていた店主に、いつものより明るい声で呼びかけた。


「はっ!? あ……えっと、何か?」


「私の番が来たら、餡入り揚げ饅頭を十個、この二人に作ってあげてください!」


「「え!!??」」


「わかりました」


 その時、並んでいた十人ほどの子供たちが事件を眺め、少し羨ましそうに見ていた。中にはヒソヒソ話す子もいた。姫子はそれを見て再び店主を呼んだ。


「おじさん、今日は何個くらい作れるの?」


「百個以上くらいかな、なんで?」


「全部買い取ります。子供たち一人に五個ずつあげたいの。いい? 撫子」


 撫子は小さく頷いた。


「「「「「「えええ!!!???」」」」」」


「もちろん、この商業地区に来てる子供たちもね。誰でも好きな餡の饅頭を、おじさんに注文していいよ!!!」


 その後、その日の商業地区にいた子供たちは饅頭屋の列に長く並んだ。


「ありがとう、お姉さん!!!」


「ありがとう、お姉さん」


「美味しく食べてね!!!」


 その日の子供たちはみんな幸せな笑顔で家に帰った。饅頭を受け取った全員が姫子に感謝の言葉を述べた。


「饅頭、思ってたより美味しいね。外はカリカリ、中は柔らかくて、餡も甘くて美味しい」


「ちょっと大げさすぎよ」


 りりおは少し呆れた顔で答えた。


「うん……今日は持ってきたお金がなくなっちゃったわ。嬢様に色々食べさせてあげたかったのに」


「本当にごめんなさい」


「あ、もうこんな時間。そろそろお帰りになった方がいいわね」


 撫子はその言葉で、姫子を外に長く置いておけないと思い出した。


「そうね、嬢様、帰りましょう」


「うん。じゃあ、りりお……またね」


 姫子は小さく手を振った。りりおは微笑んで大きく手を振り返した。


「またね! またこうやって遊びましょうね」


「うん!!!」


 二組は手を振り合い、別々の道へ帰っていった。


 りりおは今、言葉にできないほど安堵していた。


 ……最初はわがままなお嬢様かと思ったけど、意外と良い子だったんだな。


 でもさっきの言葉はどういう意味だったんだろう? 「生まれて初めて友達ができた」って……それに態度からして、外の世界を初めて知ったみたいだったし……


 考えすぎかな。


 少女は人混みの中を歩きながら考え続けた。幼馴染が隠していた真実がどれほど残酷なものか、まだ知らなかった。


 **007**


 一日はあっという間に過ぎ、撫子が二年間帰っていなかった故郷へ帰る日が来た。彼女はちょうど故郷へ商品を売りに行く商家の隊列と共に旅立つことになった。


 その日の姫子は朝早く自分で起き、使用人たちや撫子と鍋を囲み、寺の門の前まで見送りに出た。


「体に気をつけてくださいね、嬢様。私がいない間は代わりの子に優しくしてあげてください」


「はい……撫子も気をつけて行ってきてね。あ……朝は寒いから、この布をかけて。自分で縫ったの」


 撫子の顔は喜びでいっぱいになった。彼女は最後に主人を抱きしめた。


「ありがとうございます、嬢様。本当にありがとう」


 女性の目に涙が浮かんだ。使用人たちは目の前の温かい光景を優しく見守った。


「撫子、早くしろよ。出発するぞ」


「呼ばれちゃった。行きますね」


「はい……来年また会いましょう」


「気をつけてね!!!!」 「けん玉と時空くんに忘れないで!!!」 「お腹空いたら私たちの作った弁当食べてね!!」 「来年会おうね!!!!」 「帰ったら手紙ちょうだいね!!!!」


 撫子は階段を降りながら後ろにいる全員に手を振り、姿が見えなくなると商家の隊列と共に旅立っていった。


「私は夕方まで寝るわ。お父様とお母様が帰ってきたら起こしてね」


「はい」


 007


「姫子、そろそろ新しい付き人が来る。お前は主人らしく振る舞え。前回のようなことはするな。わかったな?」


「前回みたいに使用人たちに丁寧に接するような真似をしたら、母と父が保証するが、前回みたいに顔に痣ができるだけでは済まないぞ」


「はい……お父様、お母様……」


 両親の寝室で、夕方に起こされた姫子は、新しい付き人と顔合わせするため、寝室とは呼べないほど広い部屋に呼ばれた。


 少女の心の片隅は新しい付き人に会えることに少し興奮していたが、心の奥底では自分がこの世に一人ぼっちでいるような虚しさを感じていた。


 何か大切なものが欠けていて、どうしようもない感覚。撫子が故郷に帰るのはよくあることなのに、姫子はやはり寂しかった。


 彼女は自覚していなかったが、それは母親が子供を親戚に預けて仕事に行ったきり帰らない感覚や、現代の西洋の父親が「牛乳買いに行く」と言って二度と帰らない感覚と同じだった。


 姫子はその理由がわからなかったが、それ以上疑問に思う前に、両親はいつも前の付き人の代わりに新しい付き人を雇い、その隙間を埋めていた。二人はそうすれば姫子が定められた計画から外れないと信じていた。


 しかし二人は知らなかった。その計画は娘が四歳の頃にすでに狂っていたことを。


 軽いノックの音がした。


「入れ」


 姫子は目の前の光景に目を見張った。この子が撫子の代わりになるとは想像もしていなかった。同い年だと聞いていたが、「先輩」と呼んでいた意味もよくわからず、特に気にしていなかった。


 少女は信じられないほど優雅な足取りで部屋に入ってきた。普段、高貴な身分に会う時は控えめに着替えるものだが、この子はまるで姫子の方が使用人のように派手に着飾っていた。白地にピンクの花柄の着物に、華やかなピンクの花柄の襦袢を重ね、髪はピンク色で中国古典のヒロインのような髪型、可愛らしく、性格は優しくて遊び心があり、話しやすい。


「旦那様、奥様、姫子様にお目通りいたします。私は皿屋敷 りりおと申します。姫子様の付き人として一年間お仕えいたします。どうぞよろしくお願いいたします」


「……どうした、姫子。さっきからその子をじっと見ているぞ」


「いいえ、お母様。ただ可愛いなって思っただけです」


「ありがとうございます、嬢様」


 りりおは微笑んで答えた。


「一つ聞くが、お前は強いプレッシャーのかかる場所でも働けるか?」


「はい、奥様。私は幼い頃からこのような仕事をしてきました。姫子様のお世話は私にお任せください」


 りりおは自信を満ち溢れさせた様子で答えた。


「では……今日はこれでよい。姫子を連れて夕方のお勤めの準備をしなさい。何をすればいいかはわかっているな?」


「はい、旦那様」


 姫子とりりおは部屋を出た。姫子はまだ状況に呆然としていた。撫子の代わりに来るのが、自分の初めての友達になるとは夢にも思わなかった。


「もしもし……嬢様……ぼーっと悟りでも開いてますか?」


 りりおは主人がそんな様子なので指をパチンと鳴らし、顔を近づけた。姫子はびっくりして飛び上がり、廊下に響くような悲鳴を上げた。りりおは腹を抱えて笑い転げた。


「そんなに笑わないでよ……」


「ご、ごめん……ごめんなさい。ははは、嬢様の声が面白くて……大声出してさ、ははははは」


「もう……恥ずかしいったら」


 この十八年間、彼女はいつも大人たちとばかり暮らしてきた。初めて誰かにからかわれ、遊んでもらった。彼女はとても興奮した。


「まずはお風呂ですね。あ……でもまだお湯を用意してないわ」


「いいわ……待てるよ。せっかくだからお湯が沸くまでおしゃべりしない?」


「おお……いいわね。じゃあまず私の話からするね」


 二人は楽しげに浴室へ向かい、他愛もない話やありえない自慢話をし、狂ったように笑い、姫子はさっきの寂しさをすっかり忘れた。


「あら……りりおは入らないの?」


「入りますよ……私はそんなに汚くありませんから。嬢様が体を洗い終わったら、私も続けて洗いますよ?」


 先ほどの質問にりりおは一瞬固まった。姫子の髪を洗る手が止まった。


「どうして一つの桶だけ用意したの?」


「だって……桶が広いから二人で入るのにちょうどいいじゃない。どうして二つも用意するの?」


 りりおは日常的なことを普通に言ったが、元々撫子と姫子は桶を分けていた。これは神の依り代のための浄めの儀式専用だったからだ。


「えっと……この桶は浄めの儀式のためのものなの。私以外は入っちゃダメよ」


「誰がそう言ったの……」


 りりおは平然とした声で言った。元々彼女はこういうことを信じていなかった。


「お父様とお母様よ」


「へえ……」


 そう言うと、彼女は体を洗ってすぐに桶に入った。姫子は慌ててりりおを引き上げようとしたが、りりおは言った。


「大丈夫ですよ、嬢様。私はこういうの信じてないんです。たとえ何かしたって神様は怒らないと思いますよ」


「信じてない……の?」


「はい。実は……人は神仏を信じても信じなくてもいいんです。ただ冒涜しなければ。それより一緒に入りましょう、嬢様。お湯が冷めちゃいますよ」


「そう……なんだ……」


 姫子は言葉を失った。彼女は幼い頃から「人間の頂点は神に近づき讃えること、神が全てを決め、人生をどうするかを決める」と教え込まれていた。使用人たちでさえそう思っていた。


「それでりりおはちゃんと良い人生を送れるの……? だって私たちの運命を決めるのは神様なのに、神様を讃えないと人生うまくいかないわよ」


「うーん……今までの私の人生はそれほど悪くもなかったし、すごく良いわけでもないけどね。私はこう思うの。私たちが自分らしく生きたいように努力すれば、神様だろうが誰だろうが、私たちの運命を決めることはできない。本当に運命を決めるのは自分自身なのよ」


 **008**


「……………………」


 運命……私たちの運命なのか。でも私は神の依り代だ。それはあらかじめ定められたことだ。もしかしたらりりおの言う通りかもしれない……でもそうなら、どうして私は神によって運命を定められているのだろう。


「あ! でもこれはあくまで私の個人的な感想ですよ。本当のところはどうなのか、私にもわかりません」


 うん……もしかしたら彼女が神を信じないことを選んだからこそ、自分の運命を決められるのかもしれない。


 りりおが言ったことは、たった今自分で言葉にしたばかりの意見に過ぎなかったが、その言葉は少女の心に少しずつ刺さっていった。彼女はそれを確かめるためにりりおに尋ねた。


「じゃあ……私は? 私は自分の望むように生きられると思う?」


「できますよ……だって嬢様は人間なんですから。自分の人生の道を選ぶ権利があるんです」


 短い答えだったが、核心を突いていた。


「…………私は今まで外に出たことがないの。お父様とお母様は、外に出たら悪いものを拾ってくるかもしれないと言っていたわ。でも昨日、撫子が連れて行ってくれたの。正直、すごくワクワクしたわ」


「嬢様……」


「人に出会えて、美味しいものを食べて、りりおと友達になれて、子供たちからありがとうって言われて……神様に対して申し訳ない気持ちはあるけど、少なくとも私は今までしたことのないことをできたわ」


 りりおは神仏を信じていないが、存在しないとも思っていない。それらがこの世界にあるかもしれないが、彼女はただ認識せず、聞かず、信じないだけだ。理由は何か。


 彼女はかつて、神仏に自分と弟を母の暴力から守ってほしいと願った。激しく殴られている最中も何度も懇願した。しかし結局、母を止めたのは彼女自身だった。


「じゃあ……今夜、夕食の後にもう一度商業地区に行かない? たまたまあのうなぎ丼がまた食べたくなって」


「いいの!????」


 姫子は興奮して飛び上がった。


「もちろん」


「でもお父様とお母様がいらっしゃるわ。無理よ」


「こっそり抜け出せばいいんですよ……」


「そんなこと平気な顔で言わないで……」


「冗談です。嬢様は先に夕食を召し上がってください。私は少し休ませていただきます。ここに来てからまだ寝てないんです」


「そう……じゃあ一緒に夕食食べない?」


「大丈夫です。私はもう食べました。これから嬢様の夕食を準備しますので、先に休ませてください」


「うん。おやすみなさい」


「はい……」


 夕食を終えた後、姫子は床についたが、りりおの言葉が気になって眠れなかった。


 ………


【できますよ……だって嬢様は人間なんですから。自分の人生の道を選ぶ権利があるんです】


 この言葉がさっきから少女の頭にこびりついていた。りりおは自分が普通の人間だと言った。でもどうして父と母は自分が神の依り代だと言うのだろう。


 彼女は父と母から無数の規則を叩き込まれ、それをすべて覚えるのに三ヶ月もかかった。そしてそれらを厳格に守らなければならなかった。もちろん一部は寺の僧や巫女の一般的な規則もあったが、日本の僧は一般的な戒律とは大きく異なり、結婚して子供を持つこともできた。


 しかし姫子が両親から学んだ規則は、一般的なものとは全く違っていた。いや、人間に対する規則ですらなかった。


 インドの下層カーストほどの残酷さはないが、それでも厳しすぎた。


 毎日同じことを繰り返すのは退屈だったが、これらの規則が邪魔をしてどうすることもできなかった。


 時間が経ち、十五歳になった頃、彼女は両親の罰を恐れながらもいくつかの規則を破り始めた。


 父と母は常に使用人を雇っていたが、娘をここまで閉じ込めているのに、外から来た人間を歓迎し、寺に住まわせて働かせるのは奇妙だった。使用人は使用人だから主人のことに干渉しないだろうと思い、この隙間に気づいていなかったのだろう。


 ある日、使用人の一人が家の規則を破り、姫子に外の世界のさまざまな話をした。彼女の住む場所、食べ物、故郷の山間の町、そして吉原の花園の話だった。彼女は現場で捕まり、夫婦に鞭で打たれた。姫子はその残酷な光景に耐えられず止めに入ったが、母に強く平手打ちされ、頰にはっきりとした痣ができた。


 それでも心に刻まれた恐怖があっても、彼女は止めなかった。外の世界への好奇心はますます強くなり、昨夜、抑圧されていた感情が解放された。あの初めての経験はすべてが初めてのものだった。一般の人が経験するようなことを初めて知り、もっと知りたいと思った。


 だったら……自分が神の依り代ではなく、普通の人間として生きてみたらどうだろう。


 父と母は猛反対するかもしれないが、りりおは「自分の運命を決めるのは自分自身だ」と言った。


 少しだけ試してみても、きっと大丈夫……。


「明日から、お父様とお母様がいない日は外に出よう」


 遊びたい。あの子供たちと遊びたい。美味しいものを食べたい。


「私は自分の心に従って生きてみたい」


 少女はそう固く決意して眠りについた。


 りりおができるなら、私にもできるはず。父と母がいない短い時間だけでも、試してみよう。


 この二日間は、これまでで一番良い夢を見られた夜だったかもしれない。


 **009**


「うーん……どうして朝からこんなに暑いの?」


 姫子は今、言いようのない充実感に包まれていて、なぜいつもみたいに眠くないのか不思議だった。普段は朝、付き人が起こしに来て日課を始めるのだが、りりおはそのことをすっかり忘れていたようだ。


「…………やっぱりなんか暑いのがおかしいと思ってた」


 今日は生まれて初めて遅く起きた。


「まずい」という言葉が頭に浮かんだ。彼女は両手を合わせ、いつも自分を守ってくれている神仏に、父と母が家にいないようにと祈った。そしてその通りになった。幸運だった。


 ちょっとあの子をからかって起こしてみようか?


「昨夜は私を驚かせてくれたわね。お返しをしてあげないと」


 少女は楽しげな笑みを浮かべてベッドから降り、いつもと違う感触に気づいた。何かが足に絡まっている。姫子はしばらく固まり、ゆっくりと下を見て、足に何かが絡まっているのを確認した。すると突然、ベッドの下から頭が飛び出した。


「きゃああああ!!!!」


「わあああああ@!#$$#^@$#^%#^#^#^#%^#^@!!@#&^*^*#^*#**!!!!!!!」


 りりおは頭を出した途端、狂ったように大笑いした。姫子は驚いて逃げようとして転び、部屋の隅に尻餅をついた。


「はあはあ……りりお! 何してるのよ!!!」


「挨拶ですよ……つまり、おはようございますってこと」


「おはようございますじゃなくて!! 私はもう幽霊に連れていかれるかと思ったわ!!」


「でもここはお寺ですよ。お化けは入ってこれません。お坊さんに勝てませんから」


 姫子は恨めしそうな目でりりおを見た。りりおは目を細めて笑い、気にしていない様子だった。


「今度こそ……お前を私より恥ずかしい目に遭わせてやる」


「まあ……可愛い、じゃなくて怖いですね。楽しみにしてますよ」


 そう言ってからかい笑顔を返すと、姫子は拳を握りしめてりりおを捕まえようと走ったが、りりおは逃げてドアの方へ向かった。


「おお、意外と速いんですね。てっきり引きこもりでお運動不足かと思ってました」


「止まれ! 大人しく捕まって!」


「それじゃ私の方が困りますよ。でもそんなに捕まえたいなら、追いついてみてくださいね、べー」


 りりおは右目をウィンクして可愛く舌を出した。


「こっち来い!!」


「捕まえられるものなら捕まえてくださいよ!!」


 二人は家の中を走り回って追いかけっこをし、十分ほど経ったところで、使用人頭の七波がりりおの頭を軽く叩き、台所へ連れて行って叱った。ボロボロの状態で連れていかれるりりおは満面の笑みで姫子に親指を立てた。姫子は一人で午前中の浄めの儀式を行うことになった。本来、浄めの儀式は一人でもできるが、正しく行うためにはもう一人が一緒にすべきものだった。


 その役割を担うはずの人はすでに連れていかれてしまった。


 祈りを唱えている間、彼女はさっきのことを考え続け、集中できなかった。姫子は儀式の広場で小さく笑い、そんな時間にこんな気持ちになる自分に少し罪悪感を覚えた。


「一回か二回、祈りを省いたくらいなら大丈夫よね」


 それでも儀式は上手くいかなかった。彼女は定められたこととは違うことを少し試してみることにした。


「私は自分に誓ったの。自分の心に従ってみるって」


 彼女はもう一度拳を握りしめ、自分の頭に桶の水をざぶりと浴びせ、全身を濡らした。


「お父様とお母様が帰ってくるまでまだ時間はあるわ。この間、りりおと遊ぼう」


 彼女はもう一度水を頭からかぶった。


「糸繰り遊びをしたり、もう一回追いかけっこをしたり、あの子の本の読み聞かせを聞いたり」


 頭の中には現実には存在しないような遊びのアイデアが次々と浮かんでいた。


 そして彼女は桶の残りの水を頭からかぶった。


「ゴロゴロゴロゴロ」


 腹の虫が大きく鳴り、飯をよこせと訴えた。


「でも遊ぶ前にまずお腹を満たさないと」


 結局、二人は夕方まで浅草を冒険した。


 約一ヶ月後、江戸のとある豪商の屋敷にて


「夏が近づくと、急に茶葉が惜しくなるねえ」


「もっと財産を有効に使うことをお考えになるかと思っていましたよ」


「ははは、身分のある者はこういうものさ、白縫殿」


 二人の男が裏庭に座っていた。一人は手近、もう一人は品の良い老紳士だった。二人はのんびりと茶を飲みながら会話をしていた。


「で……長崎の商売の方はいかがですか?」


「いつも通り順調ですよ。ところでそちらこそ、私の娘とご長男の結婚の話ですが、いつにしましょうかね」


 老紳士が催促するように言った。手近は茶を一口飲んで答えた。


「前にお話しした通り、もう一年だけ待っていただけますか。今は娘がまだご子息の妻になる準備ができていません。九年も待ったんです。一年くらい待っても問題ないでしょう」


 手近はいつものようにかわした。


「ははは、まあいいでしょう。ただ念のため聞いてみただけです。今の江戸の豪商の家はほとんど男児ばかりで、娘がいる家は少ない。特に長野家などは特にね。長引けば長引くほど色々と面倒になりますよ」


 老紳士は茶を飲みながら続けた。


「ところで……そちらの寺の商売の方はいかがですか? 順調に大きくなっていると聞きましたが」


「…………まあまあです」


「随分素っ気ない答えですね……何か隠していらっしゃるのでは?」


 老紳士の声にからかうような響きが加わった。手近は相手が自分を疑っていることを察した。彼は儀式や教団のことを外部の人間に話したことはなく、この豪商にも話していなかった。いや、豪商だけでなく、将軍や幕府の人間にも知られていない。たとえ知ったとしても、この教団は本物だと心から信じて帰依するだろう。


 誰かに何をしているかと聞かれれば、「私は僧です」とだけ答えればそれで済む。さらに詳しく聞かれても、彼は素早く正確に答え、誰も裏の事情を疑わない。


 彼と妻の直美は信者たちに「このことは絶対に他言無用」と厳しく言い含め、神は関係のない者が関わることを望んでいないと脅していた。老いた信者たちはそれを信じ、結果は見ての通りだった。


「隠すなど……何を言っているのです。私はそんなことはしませんよ」


 手近は極めて穏やかで謙虚な態度で答えた。老紳士はそれを見て笑った。


「そういえば……最近、商人たちの状況もかなり荒れているようですね」


 手近は話題を変えて会話を切り上げた。


「ええ……特に地下の商人たちです。どうやらあのグループの親玉が突然、武器や外国人からの違法品の販売を止めたようですよ」


「私は表の商人の状況しか知りませんが、地下にも問題があったとは思いませんでした」


 老紳士がもう一口茶を飲もうとしたが空だった。手近が新しい茶を注いだ。その間、彼は長い煙管を取り出して火を点けた。


「地下の商人の中で、外国人と交渉して我が国の提案を受け入れさせられるのはあいつしかいなかったんですが、急に売らなくなった。今は地方の大名や領主たちがみんな困っていますよ」


「役人に捕まったんじゃないでしょうね」


「ふん……馬鹿なことを。あいつはただの派手な口だけの商人だが、身の守り方は本物ですよ。口だけじゃないんです」


 手近は老紳士が今、怒りを抑えていることに気づいた。


「随分詳しいんですね、あなた、青山殿」


 手近は僧とは思えない軽い調子で老紳士をからかった。


「当然でしょう。あいつは私の息子なんですから」


 現在の青山家当主、青山 いかづちはそう言った。彼には二人の息子がいる。長男が明一あけいち、次男が池田だった。当初、雷は池田を姫子の婚約者にしようとしていたが、池田が家出をしてしまったため、長男の明一に話が回った。


 時代的に言えば、次期当主は長男の明一が相応しかったが、青山家は商家である。明一は頭が悪く、武芸の道を選んだ。後に旗本(将軍直属の護衛部隊)となった。雷は五歳の頃から話し上手で交渉が得意だった池田に将来の家督を任せるつもりだったが、結局池田は商家の主人と共に馬込宿へ逃げてしまった。


 今、家の権力はゆっくりと崩れ始めていた。雷が死ねば終わりだ。彼の後を継いで商売を続けられる人間がいなければ、日本経済の四十二パーセントがまもなく崩壊する。権力を維持するには、長男を同格の豪商の娘と結婚させ、残った両家で事業を支えるしかない。


 もちろん親族に経営を任せるのは、事業主が自分の会社を早く潰したいと思っているようなものだ。しかしどうしようもない。外国人からさえ「黄色い猿」と見下される日本人と交渉して提案を通せるほど優秀な人間がいなくなってしまった。


 雷は何度も日本中へ人を送って池田を探したが、見つからなかった。長野家(後の明治時代四大財閥の一つ)に火縄銃を売っていた時期さえあったが、それでも見つからなかった。


 実際、彼は名字も名前も隠したことは一度もない。むしろ派手に名乗るので周囲がうんざりするほどだったが、それでも見つからなかった。日本のルパンと言ってもいいだろう。


「正直、もう探すのは諦めましたよ」


「…………」


 手近は黙っていた。この話題がデリケートなものであることを知っていたからだ。迂闊なことを言えばどうなるかわからない。


「今日は夕方までいらっしゃいますか? 食事の準備をさせますので」


「結構です。午後には帰りますよ」


「…………そうですか」


 同日、午前十時頃、町への入り口の道にて


「りりお、私たちどこに行くの? 急に私を連れて歩き回って、もうずいぶん歩いたわよ」


「ごめんなさい、嬢様を疲れさせて。でも友達に会いに行くんです。一年前、私がまだ荷運びをしていた時に一度だけ会ったきりなので、ちょっと挨拶してこようと思いまして」


「りりおって友達多いのね」


 姫子は少し羨ましそうに言った。


「実はそんなに多くないんですよ。本当に友達と言えるのは数人だけです」


 りりおは少し面倒くさそうな顔をした。


「で、その友達ってどんな人?」


「うーん……性格は素直でちょっとおっとりしてるけど、頭が良くて知識も豊富で、とてもいい人ですよ」


「りりおの話だけ聞いても、どんな子か想像できないわ」


 歩いているうちに、背の高い竹の柵で囲まれた一つの門の近くに着いた。門の前には二人の男が立っていた。


「着きました。私の友達のいる場所です。吉原です」


「どんなところなのかしら。ここにも商業地区みたいに美味しいものがあるの?」


 無邪気な少女の声は興奮しているように聞こえたが、りりおは全く違うことを考えていた。


「えっと……それは……ちょっと言いづらいんですけど」


 彼女はどう答えればいいかわからなかった。ここは白い布のような少女が来るべき場所ではなかった。


「どうして?」


 彼女は幼い少女のような好奇心いっぱいの声と表情で尋ねた。それがりりおをさらに答えにくくさせた。


「着いたらわかりますよ」


 結局そう言ってかわした。


 どう言えというのか。ここは合法的な遊女街だよ、と。


 吉原を一言で言えば、公式に認められた遊郭街であり、唯一公認された場所だった。昼も夜もほとんど変わらず、常に人が出入りする、夜のない町だった。


 町の特徴は両側に遊女屋が並び、路地にもたくさんある。メインストリートは長野町で、目印は両側に植えられた大きな桜の木だった。


 遊女屋は大小さまざまあり、遊女と使用人を合わせると約三千人ほどだった。遊女にも階級があり、最高位は太夫おいらんで、芸術、和歌、音楽に優れていた。中位は小紫しぞう、最下位ははしじろで、彼女たちの多くは他所から売られてきたり、貧困や借金返済のために来た者たちだった。妊娠すれば強制的に堕胎させられた。


「あ、入り口の門が見えました。行きましょう、嬢様……あら、嬢様? そこで何を座ってるんですか」


 突然姫子がしゃがみ込んで何かを見つめていた。よく見ると三毛の太った丸い猫がいた。


「えっと……嬢様?」


「りりお見て見て! この子可愛い!! ふっくら丸くて可愛いわー かわいいー」



 姫子は丸々とした猫を撫で続け、しばらくするとそれを腕に抱きかかえた。猫はとても気に入っているようだった。


「おお……転がってるわ……この子は何て呼べばいいの? りりお、知ってる?」


「猫ですよ」


「猫ちゃん~お腹見せて~」


 彼女は顔を猫のふわふわのお腹に埋めてキスをした。猫もとても喜んでいるようだった。りりおはその光景を無表情で見つめていた。


「猫が好きなんですか?」


「うん! 大好き! すごく好きで、連れて帰りたいくらい」


「嬢様は猫みたいですね……」


「どういう意味?」


「人は食べたものでできてるって言いますから」


 姫子と猫が同時にぽかんとしてりりおを見た。りりおは相変わらず無表情だった。


「あ……ごめんなさい。それはただの冗談です。気にしないでください」


「ちょっと待って!! どこが面白いんですか!!!」


「うーん……連れて帰るのは無理そうですね」


「旦那様にバレたらどうなるか、言わなくてもわかるでしょう。それにこの子には飼い主がいますよ」


 りりおは猫の首に付いた鈴のついた紐を指差した。


「え……じゃあ街まで送ってあげればいいわ」


「そうですね」


 りりおは姫子を連れて、猫を見つけた場所からあまり離れていない茶屋へと向かった。


「お茶が飲みたいの?」


 姫子が無邪気に聞いた。


「いいえ。でも吉原は男性のための場所なんです。女性が入るには許可証が必要です。それをもらうためにここに来るんです」


 そう言ってりりおは店主に向かって大声で呼びかけた。


 通常、遊郭は男性向けに作られており、女性が入る場合は身元と目的を厳しく調べ、遊女の逃亡を防ぐためだった。女性が入るには「切手」(きって)と呼ばれる木の札の通行証が必要だった。


「変なところね、ここ」


 すると中から厳つい顔の老女が出てきた。女性の客が二人だとわかると、少し声を低くして言った。


「ご用件は?」


「あの……友達に会いに来たんです。彼女はここの禿かむろで、この子はオイランの演技を見たいと言っています。私は皿屋敷 りりお、この子は姫子です」


 老女は禿の話を聞くとすぐに警戒した。りりおは、相手が友達を連れて逃げようとしていると勘違いしたら面倒だとわかっていたが、運が良かった。


「名前は?」


「えっと……彼女は外国の人で、名前が少し難しいんです。コエ……カロイ……コル……くろえです」


 本当の名前はクロエ(Chloe)だったが、りりおは西洋の名前をうまく発音できず「くろえ」になってしまった。


「聞いたことがないな。苗字は?」


「あります。確か……あんりのさき、だったと思います」


 その言葉が終わると同時に老女は二秒間固まり、咳払いをして「少し待ちなさい」と言って店の中へ戻った。二人は顔を見合わせて首を傾げた。姫子が思い出したように言った。


「りりお、ここに来たことあるのよね?」


「ええ、ありますけど、どうしてですか?」


「じゃあ切手はもう持ってるはずじゃない。どうしてまた新しくもらうの?」


「切手には三十日の有効期限があります。期限が切れたら新しくもらわないといけません。私のものは一年以上前に切れています」


「期限があるのね。厳しいのね」


 老女が二枚の切手を持って戻ってきた。二人はそれを受け取り、少しばかりの心付けを払った。りりおは使用人たちに飲ませる茶も買った。


 二人は門に向かいながら話し続けた。


 吉原は「夜のない街」と呼ばれ、二十四時間活動が続いていた。遊女たちはほとんど休む暇がなく、本当に眠れるのは明け方から午前中までの約四時間だけだった。起きたら入浴、食事、茶を飲み、着付けをし、芸を欠かさず練習し、客からの手紙を読み、格子越しに見える「張見世」で客を呼んだ。客の多くは静かに利用したい上流階級、商人、観光客、そして派手好きのイケダだった。午後はオイランの行列、道中、夕方から夜にかけて客が押し寄せ、この繰り返しだった。


 門の前には三人の屈強な男が立っていた。そのうち二人は与力よりきという中級の侍で治安維持を、もう一人は岡っ引で特に女性の出入りをチェックしていた。


「申し訳ないが、お嬢さんたち……」


 二人は呼び止められた。


「少し聞きたいことがある。ついてきてもらえるか」


 りりおは頷き、姫子の手を引いて役人の小屋に入った。


「君たちは友達に会いに来て、オイランの演技を見たいと言っていたな?」


「はい」「えっと……はい」


「見慣れない顔だな。どこから来た? まだ子供っぽいな」


「浅草からです」


「随分遠いな……まあいい。切手を持っているなら、止めたのは少し行き過ぎだったな」


 今まで黙っていた姫子が、この町について役人に尋ねた。


「あの……役人さん、どうしてここは出入り口をこんなに厳しく管理しているんですか? 特に女性は」


「当然だろ。遊女や禿が逃げないようにするためだ」


「遊女?」


「ここは女たちが体と貞操を売って金を得て生活する場所だ。まあ、入ってみればわかる。もう行っていいぞ」


 姫子は体の中から何かが「ぴりっ」と音を立てるのを感じた。何かが以前の何かを置き換え始めていた。あることを認識し、今自分が何に直面しているかを自覚する感覚が、心に芽生え始めた。


「ねえ、りりお」


 二人は張見世の前に立った。目の前には様々な女性たちが座って客を呼んでいた。


「りりおは思う? ただ座ってるだけで人がお金をくれるって、いいことだと思う?」


「私はほとんど毎日、ただ座って神の依り代の役目を果たしているわ。彼らを助けたこともないのに、どうして彼らは私にお金をくれるの?」


「人形のようにじっと座っているだけで、彼らは私に感謝して、お金をくれる。それがわからない」


 りりおは一瞬目を丸くした。最初に付き人になった頃、両親がいる日の「神託の儀式」の話を聞いた。それは信者の悩みを聞き、解決するというものだった。


 しかし実際に儀式を間近で見て、それがどんなものかわかった。今はただ姫子を完璧な妻に教育する役目だけだ。使用人の身分で儀式に口を出す権利はないので、放っておいた。


「でも彼女たちはお金を得るために必死に頑張ってる……私は一度も努力したことがない。お金を自分で稼いだこともない」


 姫子は体を売るのが何を意味するかわからなかったが、役人の声からそれが良い仕事ではないと察した。そして今、彼女は自分がこれまで快適に暮らすための金の出所を一度も考えたことがなかったことを知った。


 少女は胸が痛くてたまらなかった。病気の時ほどではないが、その痛みは体中を激しく蝕んでいた。


「私にもわかりません」


「そう……変なこと言ってごめんなさい。友達のところに行きましょう」


「ああ!!! もう払ったって言ってるだろ!」


「ふざけるな。お前はまだ払ってない。これは規則違反だ」


 歩いていると大通りの方で騒ぎ声が聞こえた。どうやら喧嘩らしい。


「何? 喧嘩?」


 りりおは誰かが仲裁に入るまで待つつもりだった。姫子が巻き込まれてはまずいと思ったからだ。しかし姫子は被害者の声を無視できなかった。


 四歳の時、使用人が鞭で打たれる光景が蘇った。


 彼女は迷わず騒ぎの元へ走り出した。


「嬢様!! 行かないで! 危ないです!!!!」


 どんなに善意の警告が後ろから聞こえても、彼女は止まらなかった。猫を抱えたまま走っていたが、猫はもう眠っていた。


 現場に着くと、遊女の一人が客の男と口論していた。客が代金を払わず、ばれたら知らんぷりをしているようだった。


「もうやめて、お金を払ってよ!!!」


「払ったって言ってるだろ!!!!!」


 男が遊女の顔を殴ろうと手を振り上げた。姫子はさらに速度を上げて止めに入ろうとしたが、りりおの方が速かった。


 男の腕が遊女の顔に届く寸前、りりおがその手を掴んだ。


「!!!!!!」


「ねえ、お兄さん。抵抗できない女性を殴るなんて、男らしくないですよ」


 男がもう片方の拳を振り上げてりりおを殴ろうとした。その瞬間、りりおは床に落ちていた板を信じられない速さで足で蹴り上げ、手に取って男の拳を受け止めた。


 男の体勢が崩れた隙に、りりおは遊女が持っていた箒を奪い取った。


「ちょっと借りるね」


 りりおは箒を木刀のように構え、片手で男の頭を叩いた。男がよろけたところに、りりおは飛び跳ねて宙返りし、強烈に男の頭を蹴り落とした。


「第一課:淑女に拳を向けるんじゃないわよ~」


 しかし男は簡単に倒れなかった。彼は立ち上がり、仲間を呼んだ。男たちがあちこちから出てきて、六対一になった。姫子はりりおの後ろに追い詰められ、背中を合わせた。


「嬢様は私の後ろにいてください」


「何をバカな……」


「遊びです」


 りりおは箒の柄で一人目を殴り、掴まれたので顔を蹴り上げ、彼を踏み台にして飛び上がり、男たちの上を走った。回転して二人目の頭を蹴り、地面に降りて三人目の首を柄で叩き、四人目の腹を強く後ろへ蹴った。


 リーダー格の男が姫子を探したが、見つからなかった。その時、五人目が飛んできて彼にのしかかった。


「てめえら!! 女一人に勝てねえのか!!!」男は自分を見ずにそう叫んだ。そしてりりおに向かって突進しようとしたが、その時門番の侍二人が仲裁に入った。


 勝てないと見て、男は東南アジアの田舎の老人たちが友人との酒の席や自慢話でよく使う必殺技を出した。


「このガキ、俺をこんなに痛めつけた。お前はただじゃ済まねえぞ」


「どうして?」


「どうしてだと!? 俺は青山を知ってるんだ。知ってるだろ、あの商家の。商家だけどコネが……ぐあっ!!!」


 男が言い終わる前に、りりおの蹴りが顔に炸裂し、彼は気絶した。


「第二課:幼馴染の名字を自慢に使うんじゃないわよ」


 仲裁に入った侍たちはりりおを無言で見つめた。


「私はただ身を守っただけです……」


 彼らは男たちを町の外へ連れ出し、取り調べることになった。


「りりお!! 怪我してない!?」


「大丈夫です。私は平気ですよ。嬢様はどこにいたんですか?」


「あなたが彼らと戦ってる間、猫が私をあっちの隅に連れてってくれたの」


「よかったです、無事で。猫は?」


「どこかへ行っちゃったわ。きっと飼い主のところに帰ったんでしょうね」


 りりおは呆然としている遊女のところへ歩み寄った。


「あの男、幾らでしたか?」


「あ……えっと、28,000文です」


「これを」 りりおは一部の金袋を遊女に差し出した。


「ちょっと!! あいつに払わなくていいわ……」


「まあ……今あいつから取り立てても金は返ってこないでしょう。これを持って、後で残りをあいつから取り立てればいいじゃないですか」


「……ありがとう」


 その時、二人は風が強くなったのを感じた。周囲の空気が一変した。先ほどまで二人を見つめていた人々が、一斉に後ろを向いた。


 強い風が吹き、桜の花びらが舞い上がった。人々は一箇所を見つめ続け、近づいてくる足音が聞こえた。


 りりおは本能的に振り返り、彼女を見た。


 彼女は少女であるりりおでさえ恋に落ちたくなるほど美しい女性だった。一度会ったことがあるのに、まだ慣れない。


「まったく……何か大事件かと思えば、またいつものことか」


 彼女は豪華な装飾と宝物で埋め尽くされた輿に座っていた。牡丹の花模様の紫紅の着物は威厳と富を示し、蝶の文様が女性の美しさを表していた。長く美しい髪は優雅に巻かれ、柔らかな顔立ちと白い肌がすべてを完璧にまとめ上げていた。


「ここで騒ぎを起こしたのはお前たちか?」


 りりおは驚いて言葉が出なかった。姫子が代わりに答えた。


「いいえ……あの男がお金を払わず、このお姉さんを殴ろうとしたんです。私の友達が彼女を助けたんです」


「本当か?」


 被害者の遊女が頷いた。


 彼女は指を二回鳴らして合図した。四人の男が輿をゆっくり下げ、左側の褐色肌の少女(日本人ではない)が彼女のために高下駄を揃えた。右側の金髪の巻き髪の少女(これも日本人ではない)が傘を持って付き従った。


 彼女が二人に近づくと、褐色肌と金髪の少女も一緒に歩いてきた。


「じゃあお前たちは悪者じゃないな……ここで何をしている? ここは女性の立ち入りが厳しいはずだが」


「えっと……友達に会いに来たんです。彼女は禿です。りりお、何か言ってよ」


「りりお?」


 金髪の少女が不思議そうに聞いた。


「えっと……すみません、嬢様。ちょっとぼーっとしてました。あ! くろえだ」


「りりおちゃん、本当だ!!!」


 りりおは「くろえ(クロエ)」と呼ばれる少女に飛びついて抱きついた。


「何よ!! どこ行ってたの? 一年ぶりじゃない? あの派手な男は?」


 彼女は外国人なのに日本語がとても流暢だった。


「私は定住しないって言ってるでしょ。頻繁に来られないよ。でも今は彼とは一緒に仕事してないから、最近は会ってないわ」


「知り合いなの?」


 女性が尋ねた。


「はい、女将様。一年前、この子が友達とうちの店に来たんです。でも女性だったので店の外で待っていて、私が声をかけて友達になったんです」


 この子がりりおの友達? 私たちとは随分違うわね。老女は姫子をしばらく見てから、二人の少女に指示した。


「昔話は後で。今はもう問題ないわ。ベール、くろえ、早く店に戻って客の準備をしなさい。お前たち二人は私の店まで来てもらえる? 二人と話したいことがあるの」


 吉原での喧嘩は珍しくなく、女を巡る揉め事や酔客の暴れはよくあったが、今回もすぐに収まった。


 オイランの応接間で、少々小さいながらも白縫夫婦の部屋より豪華で贅沢な部屋だった。美しい花の絵が飾られ、背後に油燈が並び、畳が敷かれていた。


「遅くなってごめんなさい。私はあんりのさき まえと言います。見ての通り、ここでオイランをしています。金髪の子はくろえ、褐色肌の子はまべです。二、三年前に私が引き取ったんです」


「はじめまして、姫子様」


「初めて会うけど、よろしくね。りりおちゃん、姫子ちゃん」


「うん!! こちらこそ」「こちらこそです」


 昨夜のような胸の高鳴りが再び訪れた。数日前まで親に定められた枠の中に閉じ込められていた少女は、新しい友達に出会い、数日後にはまた新しい友達に二人も出会った。


「じゃあ早速本題に入るわ。ピンク髪のりりおちゃん、今、君の友達はどうしてる?」


 りりおはすぐに眉をひそめた。なぜこのオイランが幼馴染のことを聞くのだろう。たとえ彼が彼女を気に入らせたとしても、オイランは仕事とプライベートを分けるべきだ。もしかして別の話か?


「今は京都側の近江橋の町にいます。彼は弟と私の母の面倒を見ています。どうして彼のことを聞くんですか?……」


 彼女はイケダの居場所を嘘で言った。この女性が江戸の有力者とどれだけ繋がっているかわからなかったからだ。そして「あんりのさき」という名前と茶屋の主人の反応から、彼女がこの界隈の顔役である可能性が高いと思った。


「彼の噂がかなり広がっているみたいね。私も心配してるのよ」


 りりおは横目で姫子が真剣に聞いていることに気づいた。話すべきか少し迷った。雇い主の夫婦から、姫子との結婚の話や、彼女を完璧な妻に教育するよう言われていた。


 しかし外に出ることや日課を破ることについては禁止されていなかった(後でそれが元々の家の規則だと知った)。社会の闇の話を聞かせることも禁止されていなかったが、隠しておいた方がいいと思った。


「あの……嬢様」


「ん? どうしたの?」


「ここを少し散策してみませんか? 吉原も浅草に負けないくらいすごいんですよ」


 それを聞いた姫子の目が輝き、歩き出そうとした。まえはくろえとまべに店と吉原を案内するよう指示した。


「三人とも気をつけてね。正午までに戻ってきて。午後に行列があるわ」


「「はい、女将様」」


「え! 行列って何? すごそうで華やかそう!」


「午後に見てね」


 三人は外へ出た。


「いいお嬢様ね。でも巫女さんだからね」


「そうね……私もびっくりしたわ。でもそれより、イケダに何があったの?」


 少女の声がすぐに真剣になった。家族をイケダに預けたままでは危険だとわかっていたが、それでも彼を信じていた。だからもし二人が何かあれば、悪いのは自分だ。


「どうやら彼が急に外国からの武器や品物の販売をぴたりと止めたみたい。日本の大物たちがみんな困ってるわ」


 りりおはまえの言葉に呆然とした。イケダを長く知っている彼女は、彼がいつも自分の好きなように生きていることを知っていた。何度も危険なことに首を突っ込み、彼女が注意してもあまり聞かない男だった。


 しかし今回は彼女の警告を素直に聞いたようだ。彼女は彼の決断に違和感を覚えた。できれば今すぐ本人に聞きたい。


「今、大手や関係者たちは動いてるの?」


 まえは首を横に振った。


「まだ彼らはそんなに困っていないわ。でも一番困ってるのは青山家ね。どうなるかわかってるわよね」


「はい……」


「じゃあ……どう? 私に手伝わせてくれない?」

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