第16章 : 青山姫子 エピローグ
「退け……もし此の娘を連れ戻さんと頑なに思うならば……我が屍を越えよ」
明一は弟の、かつての性分とは違う確固たる眼差しを見つめたり。武器一つ持たず、将軍家の武士たる己の面前で其のように語るとは。
「貴様……あの娘を随分と愛しておるようじゃな……」
「我は璃々緒と……いや、我自身と約束した。あの娘を守り抜くことを、己の命ある限り」
「そうか……ならば……我と約束してくれぬか?」
「約束?」
「此れが我が最後の願いじゃ……あの娘にもう泣かせぬと、此の後幸せな人生を送らせると、たとえどちらかが死なねばならぬとしても、貴様が代わりに死ぬと……約束せよ」
「約束せずとも、我はそうする」 池田はかつてない喜びに満ちたる顔で答え返せり。
「男は一度言ったことは翻さぬぞ」 明一は馬を進め、道を開けたり。
「事件の現場には……手近谷の首が斬り落とされておった。我が父上に渡し、貴様は姫子を助けんとして流れ弾に当たったと偽る……此の後、貴様はもう我が弟ではない。遠くへ逃げよ……我すら見つけられぬほど遠く、我が貴様は死んだと思うほど遠くへ……」
「…………今までありがとうございました……兄上」 そして彼は森の中へ走り入り、明一の視界より消えぬ。それが二人の兄弟の最後の対面なりき。
「なぜ礼を言う……我はただ兄としての務めを果たしただけじゃ」
雨は次第に激しくなり、何も見えぬ……されど皆は走り続け、皆が求め続けた「幸せ」を求めて走れり。彼らは多くを望まぬ。ただ穏やかな人生、友と語らい、愛する者と共に在る……其れだけじゃ。されど常に誰かが其れを壊さんとす。独り者を虐げる者から、子の為すことを無駄と思う父母まで。彼らは誰も傷つけぬというに。
そしてついに、此のような問題を抱えた者どもが出会い、周囲を見る目が変われり。内より傷つくる生みの父母は勝手にするがよい。虐げる者どもは可能ならば死ねばよいが、叶わぬ。彼らもまた同じ。
いついかなるときも、身近な者は残酷……されど知らぬ他人は優しき。此のような考えもまた奇妙なり。
一人の少女より撫子への手紙。
ご機嫌よう……撫子様。妾は姫子でございます。長い間手紙を差し上げず、申し訳ございませぬ。色々と起きてしまい、送れませんでした。本当に申し訳ございませぬ。撫子様はあの日の火事をご存知でしょう。もう八年も経ちましたものね。ご心配には及びませぬ。今、妾は生きており、皆幸せでございます。されど……璃々緒はもうおりませぬ。あの娘は我らを助けるため命を捨て、七海殿たちを助けんとして炎の中へ飛び込み、妾の人生を縛りし者どもを葬り去ってくれました。今も其のことを受け入れられぬ……されど我らは歩み続けねばなりませぬ。弱くあってはなりませぬ。
あの日の後、我ら皆は小さな村に移り住み、其処の人々を助け、家を建て、村を広げ、今や行き来する人も多くなりました。ある者の家族も此処に住んでおります。されど、マーベルとクロエは吉原に戻らねばならず、それ以来会えませぬ。されど間もなく会えます。其の理由は……後でお読みくださいませ。
青山家は今や滅びんとするばかり。明一殿は其のことに興味を失い、普通の村娘と密かに娶られました。とても可愛らしい方でございます。
璃々緒の家族は今、宮島家の庇護の下にあり、玉緒殿は宮島家の娘と娶ることになったと聞きます。心配には及びませぬ。二人は既に愛し合っておるとのこと。悲しきは、璃々緒の母上は其の後まもなく亡くなられ、此のような美しい儀式を見られなかったこと。
そして一つ、自慢がございます……今、妾は心から愛する者と婚約いたしました……其の仲人を務めたのはやはり七海殿でございます。我らは数ヶ月前より婚約し、今こそ婚儀の時と思い、三ヶ月後に式を挙げます。池田——妾の夫となる者は、招待したい者があれば手紙を書けと言いました。故に多くの方へ書きました。今、妾は小さな市場で菓子を売り、池田は落語家でございます。毎週市場で演じ、疲れた日は抱きつき頰に口づけ、猫のように甘えます。仕事のない日は妾と菓子作りを手伝い、男らしき者ながら料理が大変美味しゅうございます。妾は恥ずかしくなるほど。
撫子様は今いかがですか? お体はご丈夫ですか? 時樹殿と美絵ちゃんはご無事ですか? 八年経ちましたもの、立派な若者と娘になったでしょう。撫子様に似て美しくあろうかと。
故に此の後……またたくさん語り合いましょう……母上。
愛と懐かしみを込めて 姫子
「さよう……また語り合いましょう……昔のように」
少女の涙が手紙を濡らし、戻らぬと思った懐かしみが溢れぬ。
【来年会いましょうね】
主を、まるで娘のように抱き締めた温もりは、今も鮮やかなり。
「母上!! なぜ泣くのですか?」
「どうしたのですか、母上!!」
今や幼き頃より声変わりしたる子らの呼び声。
「ひっ……なんでもない……ただ……」 そして彼女は心より語れり。
「今、お前たちの姉上が……婚礼を挙げるのですよ……」
彼女が度々語る物語……時にあの娘を子らの姉と呼べり。
各々が求めた穏やかな人生は終わりを迎え……望みしすべてが眼前にあり……
そして今、妾は
妾……青山 姫子
「…………人生で一番……幸せじゃ」
老いたる女は今、寝所にて臥せり、家の裏口近くに移された布団に横たわり、命ある限り守ると誓いし夫と共に。
彼女は此の物語を愛しき孫娘・春菜に語り終え、春菜は約束したにも拘わらず涙を堪えきれず。二十年余りが過ぎ、七十二歳となった今、彼女は己の苦き物語を皆に語り残さんと決めたり。
彼女と池田は、皆が最も眠りたくなる時に呼び集めたり。
「今や皆……随分と大きくなったのう」
彼女は今や曾孫となった幼き少年を眺め、春菜もまた大きくなりぬ。
「全く……大きくなればなるほど祖母に似て美しい」
体がどれほど痛んでも、戯れ言は変わらず。
「当然です……祖母は母上より美しいのですもの」
「待て……母上の方が遥かに美しいぞ」
その日の物語を聞きに来た者ども——村中の者が笑いぬ。
「何を言う……如何にせよ、我はこの村で一番美しい……な、池田どの……」
されど今、池田はもう答えぬ。
「全く……先に眠ってしまったか……本当に眠たがりじゃな……此の者」
皆の表情が僅かに変われり。
彼女は辺りを見渡し、今日語りを聞いた皆を見つめ、春菜と孫婿・浩一の顔を見、曾孫・広樹の笑みを感じ、火花の掌の温もりを感じ、穏やかな英原の眼差しを見つめ……
力は既に尽きしも、夫の手を固く握れり。
あの日のように、かつてないほど固く。
そして今、昼寝の時なり……
「火花……」
「はい?……母上」
「母はもう眠い……少し寝てもよいか?」
彼女は唇を噛み、涙を堪え、今の思いを抑え、眼が霞み、母上と同じく……されど姫子は二度と目覚めぬ。
「はい……母上、どうか安らかに休んでくださいませ。起きたらまた菓子を作って食べさせてくれますよね」
彼女は母上が心配せぬよう、最大限に堪え、母上が幸せに眠れるよう願えり。
「では……おやすみ……」
「「「「「おやすみなさいませ、姫子」」」」」
すべてが徐々に消え……そして……彼女は穏やかに此の世を去れり。




