第13章 : 青山池田
同じ頃、青山家の屋敷にて。
「全く、此のような有様とは……十余年も準備を重ねてきたというに……計画はめちゃくちゃに崩れ果てた。せめて、お前たちに説明くらいはしてもらいたいものじゃ」
客間にて、不知火の夫婦二人は現在の青山家当主である雷と話しておった。姫子が家より逃げ出ししより、二つの家が結びつき、子らを娶わせて商いの利益と家系の安泰を図る約束は、跡形もなく崩れ去れり。
その混乱ゆえ、夫婦二人は家より出ることもできず、身を潜めておった。長野が復讐の刺客を送るか、あるいはもっと悪くは将軍家に此のことを訴えることを恐れしゆえ。されど何事も起こらぬ様子なりき。
「雷殿、どうかお許しくだされ。我らは今、娘を追っておる最中じゃ。どうかご安心くだされ」
「もしあの娘がまた逃げたらどうする?」
「案ずるな。我らには地下に牢獄に改造した部屋がある。かの娘を見つけたら、そなたたちが儀式を整えるまで閉じ込めておこう」
「うむ……そうするがよい。されどくれぐれも身を守るがよい。今、長野の娘が亡くなったと聞いたばかりじゃ。運悪くあの者どもが宮島と手を組むやもしれぬ」
「「はい/はい」」
「言うなれば、不知火の家は寺と初代より関わり深き家柄じゃ。古き家ではあるが、今の地位はただの分家に過ぎぬ。此の家も他の寺と大差なし。そなたの話からすると、父と母が初めてそのような儀式を考え出したようじゃな」
「…………では、妾はただの歩く金儲けの道具に過ぎぬということですか?」
彼女はあの日の蕾の言葉を思い返し、悲しげなる顔をせり。
「我はそなたの父母に会うたことはないが、そなたの話ではそうであろうな」
彼女はただ其の思いを受け入れるのみ。父母に道具と見なされたる思いを。
「されど言うておくが、我とてもそなたと大差ない……」
「え?」
「元々我もそなたと同じく金持ちの家に生まれた。九つの頃、父に知らぬ女と婚約させられ、家を逃げ出した。あの娘がもっと良い人生を送れていたらよいのだが」
彼は知らざりき。父が幼き頃に婚約させた少女が、今すぐ傍らに座っておるとは。
「池田殿は自由を愛する方なのですね。妾もそうありたい」
「できるさ。我々がしたいことをするだけでよい。失敗しても望み通りでなくても、ただ新たに始めればよい。人の命は短しと言えど、死ぬまでは長い。死ぬ前に、ずっとしたいと思っていたことを試してみるがよい。父母はただ我らを正しき道に導く者じゃが、もし父母がそのような性質ならば、導いてくれる者を他に探せばよい」
姫子は彼の顔をじっと見つめ、問い続けたり。
「誰か……ですか?」
「我らじゃ……そなたの家族が教え導かぬなら、我らがそなたを助けよう。友や愛する者が困ったときは、ただ言うてくれ。我らは全力で助けよう」
「…………」
「あ、愛する者と言うのは違うな。では、遠くから密かに想う者と言うておこう……」
「知り合ってまだ間もないのに、そこまでなさるのですか?」
「友ではないか。友が苦しむときは助け合うものじゃ。まあ、金の件は別にしておけ」
姫子はため息をつき、午後の空を眺めたり。
「不思議でございますね。生みの親である父母は我らを道具だの、金儲けの道具だの、死すべき罪人だのと見なし、妾らを暗き世界に沈まぬよう引き留めてくれる者は、つい先日出会いしばかりの他人で、己を友と呼ぶ……どう考えても、考えたくない現実でございます」
「さよう……人生とはそういうものじゃ。いつも黒い戯ればかり。されど人々と出会い、様々なことを感じ、よく考えてみれば、其の頃我らはなぜそのように生まれたのかと笑える。我らはただ、時代を間違えて生まれただけじゃ」
「さようでございますね……池田殿と出会ってまだ五分と経たぬのに、話していて楽しい友だと思えます。家におったときよりずっと気楽でございます」
「話す友か? 恋人に昇格したいものじゃ……」
「口が上手いこと。女を口説く前に、まず信じさせなさいませ。美男子の女たらし殿」
「ただの言葉では信じられぬか?」
「いいえ」
やがて璃々緒が戻り、手には大門近くで買いたる食べ物が満ちておった。
「何か大事な話でもしておるのかと思えば、ただの口説きじゃったか……」
「違うぞ……璃々緒こそ」
「嘘をつくならもう少し上手になさいませ。顔が真っ赤じゃ、誰でも分かります」
璃々緒は池田が売る土産物を見やり、中に美しき品々が多々あり、外の者の品もあるようじゃ。
「池田、これを一つ買う」
彼女は蝶の形をした簪を取り上げたり。其の形は上流の者の品らしく、金色の軸と透き通る青き蝶が、姫子の目を輝かせたり。
「きれい……」
「え……そなたの元の簪も美しいではないか。なぜ新しいものを?」
「違う……自分用ではない。嬢様に買うたのじゃ」
「え? なぜじゃ? 此のような高いものを買う必要はない」
「別に高くは売っておらぬ……」
「まあ……ただ買ってあげたかっただけです。大したことではありませぬ」
璃々緒が懐より銭を出さんとするを、池田が止めた。
「代などいらぬ。代わりに此の娘の髪を結わせてくれぬか?」
「…………」 璃々緒は嫌悪の表情を浮かべ、姫子を見やりしが、姫子は笑みを浮かべ、止める気はないようじゃ。
「よい、好きにせよ」
「たらしの貴様が此のように美しく髪を結うとは信じがたい」
「当然じゃ」
椅子に座る姫子は、後ろに立つ池田の顔を振り向き見たり。
「ありがとうございます……」
璃々緒の知らぬ、されどよく知る空気が彼女を刺したり。彼女は「友を捨てて男を取る」という言葉を聞きしことがあり、今その思いが内より激しく彼女を苛めり。池田を妬むのでも、姫子が彼に好意を抱くのを嫌うのでもない。ただ、なぜ姫子が自分より早く夫を得るのかと羨ましきのみ。自分も姫子と同じく美しいというに。
我はただの力持ちの女ゆえか?
「あらあら、参りましょうか。あの二人が待っておる」
「さようじゃな。ではまたな、池田殿」 彼女は手を振り、入り口へ歩み去れり。
「璃々緒……一つ聞くぞ」
「何ですか?」
「池田殿にはもう恋人がいるのか……」 璃々緒は目を丸くし、姫子は顔を覆い、耳まで赤くなりぬ。
「本気で……あの男に聞くのですか……本気で!?」
「だって彼は……どうしようもない……」
「誰を好きになろうと止めはせぬが、選ぶ相手は少し考えてくださいませ!! ただ顔が良いだけのたらしでは駄目でしょう!!!」
「まるでそなたの好きな男の方が優れておるようじゃな……」
「ふん……妾の夫となる男は、妾と子らを片腕で抱えられるほど強く、忠実で心優しき者でなければなりませぬ。あのようなたらしとは違う」
その痛いところを突かれ、姫子は言い返せり。
「さすが力持ちの女……」
「何じゃと!!!! 今すぐ叩き潰すぞ!!!!」
二人の声は周囲に響き、人々が振り向けど、二人は構わず、誰の夫が優れているかと争えり。
人は己を変えるのは出会う社会と人によるという。姫子もまた然り。
今の彼女にとって、何より大切なのは出会いし友らじゃ。生みの父母に感謝はするが、彼らがそのように振る舞うなら勝手にするがよい。真の家族はもう血縁にあらず、知らぬ他人こそが今の姫子の家族なり。
喜び、悲しみ、興奮、人々との出会い、書き、読み、描き、走り、菓子を食べ、友と戯れ、戯言を言い、美しき衣をまとい、求婚され、恋をする——此の数ヶ月で得たるすべては、此の他人たちより来たり。
姫子ははっきりと言えり。自分はもう不知火ではない。あのような、子を金儲けの道具と見なす汚れた血はもう要らぬ。
されど彼女は高き志を抱く者でもない。ただ理解し、近づいてくれる者があれば、たとえ初めて出会う者であっても、その思いをしっかりと受け止めよう。
同じ者同士は惹かれ合うという言葉を聞いたことはあるか。姫子だけでなく、彼女が友と呼ぶ者たちも皆、同じ思いを抱きてり。
璃々緒は母をただ金儲けの道具と見なす狂女と思うも、玉緒を憐れみ、母を心配する振りをせざり。
池田は幼児婚の風習を、古老の欲するままに人を縛る愚かなものと思う。故に日本中を旅し、多くの人と知り合うことを選びし。
クロエとマーベルは、ただ普通の人々の如く生きたいと思うも、架空の神を信じる奇妙なる者たちがいて、此の者どもと父母を消し去りたいと願い、社会に此のような者が多きゆえ、自分たちを巻き込み、強く憎しみを抱けり。
同じ思いを持つ者同士が出会い、奇妙ながらも彼らより遥かに良き絆を結べり。
そして彼らが此のように幸せに生き続けんことを願うが、恐らく叶わぬであろう。
彼らは良き人生を送ることを許されざり。特に大人どもは。
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夜になり……
「あら……璃々緒も休むのか?」
「はい……せめて休むなら良い場所を選んでくださいませ」
「そなたも此処に来ておるではないか」
二人は店の屋根に休みおり、此処は姫子のお気に入りの場所なりき。毎夜星を眺めに参る。璃々緒が上がれば、猫の辻御門が彼女の膝で眠っておるを見たり。
「弟を此処に寝かせるのは危のうございます」
「辻御門殿が勝手に上がってきたのじゃ」
「にゃー……」「きゃあ……可愛いこと」
「嬢様……今、己の人生を苦しみと思うておるか?」
「もう思わぬ……今は皆と一緒にいられるだけで十分じゃ」
「そうか……妾が色々な所で働いたのは金のためだけではない。母の顔から逃げたかっただけじゃ。周りの者は言う。『あれは母じゃ、どんなに傷つけられても育ててくれた恩に報いよ』と。まるで其のような者が尊いかのように」
「可笑しいであろう……そなたと我だけではない。出会う者皆、身近な者に問題を抱えておる。身近な者はどうでもよい。知らぬ他人の方が優しい。そして故に皆出会えたのじゃ」
璃々緒は口笛を吹き、手を軽く叩けり。
「素晴らしい。名言でございます」
「もうよい……」
璃々緒は空に好きな星の群れがあることを思い出し、今は見えにくくとも。
「ほらほら、嬢様見て。あれは牽牛の星です」
「わあ……きれい。そして猫飼いの星は?」
「あるわけないでしょう」
「そうか……残念」
姫子と猫は同時に残念がる声を上げたり。
「ほれ……同じ声じゃ。昔猫を食うただけある」
「今すぐ引っ掻くぞ」
「それとも『友を捨てて男を取る者』と言うか?」
「もうよい、もうよい」
此の長き夜は続き、遊郭の灯りと音は毎日と同じく流れ、其の日が来たり。
姫子が愛しき孫娘に語り継ぐ、生涯忘れ得ぬ悲劇。
翌日、夕暮れ近く。
璃々緒はいつものように休み、姫子をマーベルらと花園へ行かせ、自分は食べ物を買い……
「よう……今日も買い物か?」
幼き日の唯一の友、共にあちこちを駆け回った彼と話せり。
「いや……ただ話がしたくて」
「そうか……では座れ」
池田は茶を淹れんとするを、璃々緒が止めた。ただ少し話すだけじゃ。
「何を話したい? あの美しい嬢様のことか?」
「ええ……嬢様が殿に聞いたそうな。恋人はもういるかと」
「これは……彼女は本当に我を受け入れてくれたのか。さすが我の心を盗んだ美しき者」
「答えは……」「まだ独り身じゃ」「ええ……それだけじゃ」
璃々緒は答えを得、顔を和らげ、少し柔らかな表情で尋ねたり。
「殿が嬢様を好きだと言ったのは……本気か?」
「本気じゃ……戯れではない」
「…………殿はあの娘がどう生い立ち、どう育ったか知っておろう。誰かに好かれることが彼女をどれだけ喜ばせるか知っておろう……故に、可能ならばずっと守ってやってくれぬか……」
「知っておる。よく知っておる。姫子ほど美しい娘は他にいない」
「ほう? 男は一度言ったことは翻さぬぞ……」「はは……母上か何かか……」
「何を考えている? 武器を売るのをやめた理由は。殿なら我の警告など聞かぬはずじゃ」
池田はその言葉に、ありふれた真実を語れり。
「そなたが警告したからやめた。本当はただ此のようなことに飽きただけじゃ。彼女と穏やかに生きたい」
「よく言う。己の商いで他人を苦しめておきながら、穏やかな人生を望むとは。殿のような者は皆消えればよい」
「そんなに呪うな……」
そして遂に来たり。一つ目の爆弾が、皆が望む穏やかな人生を破壊せんと、ゆっくりと導火線に火がつけられんとする。
「はあ……幸いじゃな。今、嬢様は知らぬ者と袋婚せずに済む」
璃々緒は安堵したように言い、池田は即座に眉をひそめたり。
「結婚?」
「あ……ああ……殿はまだ知らなんだな。不知火の夫婦より手紙を受け取ったとき、嬢様を長男の良妻に教育せよと言われた。最初は秘密にせよと言われたが、今となっては何のために秘密にするのか分からぬ」
「花婿は誰じゃ? どの家柄じゃ……」
彼の様子が変われり。璃々緒は感じ取れど、なぜかは知らぬ。池田は普通の声で問えり。
「知らぬが、花婿の名をちらりと聞いた。明一とかいう……」
すべてが繋がり……彼は知れり。姫子が強制的に嫁がされる家がどこか、そしてその花婿が他ならぬ自分自身なり。明一は己が敬愛し続けた名、そして実の兄なり。
「あの野郎」
「池田……どうした……」
もし家を逃げず、最初から姫子と結婚を受け入れていたら、彼女は今此のような苦しみを味わわずに済んだであろう。
「こら!!! 逃げる気か!!!」
騒がしき声が門の前より聞こえ、振り向けばクロエとマーベルが外へ走り出る。
「…………」
池田は何かを思い出し、急ぎ外へ出でたり。其の考えは推測に過ぎぬが、現実となる可能性は高し。そして二人が叫ぶ騒がしき声を聞きし。
「クロエのところへ行け……」
「は? どうした、貴様」
「急ぎ姫子を探せ」
「は?……」
「早く!!! 彼女は夫婦二人に連れ去られた」
璃々緒は目を大きく見開き、二人が走り出て、池田が言った通りに叫べり。
「「璃々緒!!!! 姫子が行方不明だ!!!!」」
璃々緒は池田を振り向けしが、彼は既にいなくなっておった。彼の言葉が耳に残り、番兵が二人を連れ去らんとせしも、璃々緒は二人に叫び返せり。
「真栄殿に伝えよ!!! 嬢様が不知火の者どもに連れ去られたと!!!」
これは何という狂ったことか……璃々緒は急ぎ、かつて主のいた家へと走れり。此の夜がどれだけ長く、胸悪きものとなるか知らずに。
今や役者は揃い、悲劇の物語は進みゆく。




