第12章 : 不知火姫子 4
夫婦二人が奇妙なる祈りの文を唱え始めれば、村人どもは皆、其処に横たわる少女をじっと見つめた。
さればこそ、すべての災禍の始まりは此処より始まりぬ。
手近谷は何かしらの薬の瓶を持参し、恵美に飲ませたり。
【母上……不知火を……消したきか?】
死に瀕せる少女の弱々しき声は、母を驚かせて何もできぬようにせり。
【これ、子よ……ずっと聞いておったのか……】
【ええ……忘れぬように。妾は耳が一番良いのですから】
母が何を為さんとするか知りつつも、恵美は母に温かな微笑みを送れり。
【さよう、不知火は己が娘を仮の神として祀り、村人を欺く奇妙なる儀式を行っておる。だが案ずるな、母は彼らを本当に消すつもりはない。ただ……】
蕾が言い終えぬうちに、恵美は即座に言葉を挟めり。姫子という、僅か二週間しか会わぬ少女のことを聞いたればこそ。
【妾を……この者どもを消す計画に……加えてくれませぬか、母上】
蕾は目を大きく見開き、諭さんとするも、恵美に再び遮られぬ。
【知り合って僅か二週間じゃが、あの娘……姫子はただ、父母に……道具として騙され利用されただけじゃ】
【如何にせよ、妾は……長く生きられぬ身……どうせなら母上のため、そして親しき友のためにも何かしたい】
【…………恵美、子は母のために此のようなことをせぬでもよい。かの者どもを排除する方法は他にも多々ある】
今や次第に力が抜けゆく恵美は、蕾の手を強く握れり。
【母上……妾はとても痛うございます。痛うて……死にそうなほど……このままではただ苦しむばかり】
蕾は握る力が弱まるのを感じ、声が震え始めるのを知れり。恵美の体は今、肉を挽く機械にかけられ、弱き身を少しずつ挽き潰されるが如し。そして何より、痛み苦しむ者は恵美にあらず、蕾自身なりき。
【妾を死なせてくださいませ、母上……どうか……】
愛しき娘は、もはや此の苦痛に耐えられぬ。ただ最期に誰かのために役に立ちたいと願い、己の生死を用いて、つい先日出会いし友を地獄より救い、母が当初より望むすべてを得させんとせり。
恵美が何やら薬を飲み干せば、手近谷は再び奇妙なる祈りの文を唱え始め、予想外のことが起これり。
「うぐっ!!!あ……あぁ……ああああああああああああああ!!!!!!」
突然その身が激しく痙攣し、生きながら火に焼かれるが如く叫喚を上げたり。
姫子は助けに入らんとせしも、璃々緒に制されぬ。出ればすべてが終わるゆえ。
そして璃々緒は、少女の当初の驚愕の眼差しが、今や僅かなる憎悪を帯びし眼差しに変われるを見たり。
使用人どもは急ぎ様子を見に寄れど、
「皆の衆!今、悪しき病がこの娘より解き放たれつつありますぞ!」
手近谷と直美はただその光景を立って見守るばかり、恵美は激しく身をよじり苦しめり。母たる蕾は、娘の苦痛に満ちたる叫びを聞き、耐えきれず駆け寄らんとせしも、夫婦二人に制されぬ。
「これは、儀式を台無しにしたいのですか!?この神聖なる儀式に従わねば、神は我ら全員に罰を下されますぞ!!!!」
その言葉は蕾の何かを断ち切り、僅か数分前までの美しさも共に失せしめたり。
「神聖なる儀式だと? 黙れ!!!! お前たちはただの詐欺師、村人を騙す黒い目をした輩に過ぎぬ!!!! 己が娘を……」
蕾が言い終えぬうちに、璃々緒の腕を振りほどきたる姫子は、顔を覆う布を被ったまま素早く恵美のもとへ駆け寄れり。
「恵美ちゃん!!!恵美ちゃん!!! 大丈夫か、恵美ちゃん!!! そうだ……医者だ、医者を呼んでこい!!!!!」
それは信者どもが初めて聞く姫子の声なりき。顔は見えねど、その声は白き絹のごとく清らかで柔らかく、叫び声であっても然り。
手近谷と直美は眼前の光景に凍りつき、十余年握りしめてきた秘密に亀裂が入り、小さき穴は次第に大きき穴となり、壁ごと崩れ落ちんとするなりき。
「急ぎ医者のもとへ連れて参れ!!!! 早く彼女を!!!!」
「早く!!!」
使用人どもと蕾は恵美を儀式の場より連れ出し、混乱は此処に終わりぬ。そしてその混乱ゆえ、村人どもも儀式より逃げ散りぬ。
夫婦二人の顔は今や、獲物を睨む殺人者の如し。彼らの虚ろなる目は、実の娘に向けられた憎悪に満ち、死に絶えた怨霊すら及ばぬほどなりき。
璃々緒は何やら危険を告げるものを感じ、其の予感は正しかりき。
直美は何処からか尖りし短剣を取り出し、ふらふらと姫子に近づき、手近谷は自室に戻れり。その間、姫子が両親に背を向けし刹那、直美は高く腕を振り上げ、娘の頭蓋を短剣で突き刺さんとせしも、璃々緒は素早く姫子を抱き留めたり。
「きゃあ!!!!!」
「璃々緒!????」
姫子を抱き留めた璃々緒は右肩を短剣で刺されしも、幸い要所は外れおりき。
「その傷……母上……」
外の世界を知らぬ十八の少女すら、眼前の光景に衝撃を受けたり。実の母が短剣を固く握り、怨霊よりも強き憎悪を湛え、床に血が広がる様を。
「嘘……でしょう?」
姫子は眼前の光景を己の幻覚なりと欺きしも、璃々緒の右肩を見れば、それが現実なりと知れり。
「すべて終わった……何十年も練り上げし計画が……愚かな娘のせいで台無しじゃ!! 故に、お前は死ぬべきだ!!!!」
直美は血に塗れた短剣を振り回し、狂人の如く二人に向かって飛びかからんとせり。
「どういう意味ですか、母上」
「どういう意味だと? お前はもう我らの金儲けの道具ではないということじゃ!!!!」
直美は娘を刺さんと突進せしも、璃々緒は傍らの行灯を投げつけ、直美の顔に当て、姫子の手を引き即座に寺より逃げ出せり。怪物めきたる叫び声が響き渡り、二人の少女は二度と寺を振り返ることなく走り去れり。
二人は暗くなるまで走り続け、光と音の中に忽然と消えたり。
その後、夫婦二人は実の娘の行方を二度と知ること能わず。
数ヶ月後、夏の終わりに、相変わらず賑わう吉原の町にて。
「クロエちゃん、此方手を貸してくれ。姫子と璃々緒ちゃんは女将たちの手伝いに行ってくれ」
マーベルの声が終わると同時に、全員がそれぞれの務めに向かいぬ。
あの日より、行くあてなき二人は安里ノ崎 真栄の庇護の下に身を寄せたり。真栄もまた大いなる家柄の者なり。二人は此処に住む代わりに神女となることを願いしも、真栄は当初拒絶せり。堕落した仕事はさせたくなかったれば。されど強く頼まれし上、二人は元より遊女になりたき心なし、暫しの間のみと。
此のような場所で数ヶ月働きたれば、姫子は望まざるも性に関する知識を多く得たり。そして二人は美しき容姿ゆえ、真栄は客の前に顔を出さぬ務め——洗濯、客や他の遊女への食事の支度——をさせたり。
璃々緒は今や己に対して何も感じぬ。幼き日の友も家族も主も皆無事なれば、今は幾分心安らぐも、未だ油断はできぬ。
マーベルの庇護下にあれど、追われる可能性は常にあり。璃々緒は未だ、この先を如何にすべきか思案に暮れおりき。
されど其のことは今は措き。
「よいぞ、姫子ちゃん。最近は髪を結うのが上手くなったのう」
一人の遊女の姉が褒めれば、姫子は既に此のようなことに慣れたる様子なりき。
「これまでお前たちは随分と苦労したであろう。されど我らも皆、捨てられし者、売られし者ばかりじゃ」
此処に来てより、姫子は新しい家族たる遊女たちの物語を聞き終え、其の物言いも少し以前とは変われり。
「さようでございますね……」
「責めてはおらぬが、あの者どもにとって、お前もただの歩く金儲けの道具に過ぎなんだろう」
「…………」
遊女の姉の言葉は荒くとも、姫子はただ黙するばかり。其の言葉が真実なりと知ればこそ。
「ちょっと待ってくださいませ……朝から此のような話、よろしいのですか、紫苑さん」
璃々緒が二人の遊女の姉の化粧をしながら制せり。
「すまぬ。父母の話が出ると、胸がざわついて抑えきれぬのじゃ」
「紫苑ちゃんは幼い頃に父母に此処へ捨てられたのであろう」
「そなたはどうじゃ、絵里。夫の借金はもう済んだのではないか」
「ええ……最初は故郷に戻るつもりじゃったが、後で知ったのじゃ。あの男は新しい家族を作り、妾が何の仕事をしているか村中に触れ回ったと」
「下劣な男じゃ」
悪態をついたのは紫苑にあらず、姫子なりき。
「落ち着け、雌虎よ」
「まあまあ、過ぎたことじゃ。我にも選択の余地は多くなかった。お前たちも此の仕事に深入りするでないぞ。神女のままでいるのが良い」
「「はい……」」
「娘たち、支度せよ。客が参るぞ」
真栄が手を叩き合図すれば、化粧を終えし遊女たちは務めに向かい、二人はいつもの如く台所へ向かいぬ。
音楽と娘たちの喘ぎ声が響く中、二人は既に耳に慣れたるそれを聞きつつ。
そして此のような日々を続けおりき。
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午後、姫子と娘たちは外を歩くことを願い出たり。通常の神女は此のように自由に歩かせぬが、四人は真栄が特に可愛がる者ゆえ、反対する者も少なし。
「疲れたのう……ようやく外を歩ける」
「さようでございます。神女として数ヶ月働いても、まだ慣れませぬ」
「今日は何をしましょうか。お花見でも?」
「昨日も行ったばかりではありませぬか……今日は何か食べ物を探しましょう」
「此処の物は売るものが少ない。食べるなら此の二人に外で買ってきてもらうしかない」
「よいでしょう。ではお願いいたします」
「全く……まあよい」
そして二人は表門より出でたり。真栄が門番の兵に、二人は遊女にあらずと命じ置きたれば、大門の出入りに通行証は不要、他者を連れ出すことも許され、規則は変わらず。
「食べ物を注文するのも……はあ……」
「まあまあ、璃々緒ちゃん。久しぶりに外に出られただけでも良いではないか」
「我らは追われておるのですよ。もし不知火の者に見つかれば、すべて終わりです」
「はは、そうじゃな。されど今は以前ほど隠れ潜む必要もない」
「その時と今も大差ありませぬ。確かに自由にできることは増えましたが、長くはできず、また仕事に戻らねばならず、眠る時間も少ない」
「ほう……随分と大声で騒いでおるな、お客様」
二人の耳元に、からかうような若者の声が響けり。姫子は自分が少し声を大きくしたことを恥じたり。されど璃々緒は違えり。
半年近く会わずとも、その叩きたくなるような声は決して忘れられぬ。
彼女は二つの感情が混じり乱れる中、ゆっくりと振り返れり。一つは彼への懐かしさ、もう一つは不安。どちらも混じり合い、身の置き所なく。ただ其の声が幻聴であってほしいと願えど、世界は彼女に優しくはあらざりき。
「どうじゃ、嬢ちゃんたち。土産物を買うて帰らぬか?」
「池田……どうして貴様が」
「池田?……誰じゃ、璃々緒の知り合いか?」
璃々緒と姫子の前には、武器と禁制品の取引市場を崩壊の淵に追いやりしことある男が立ちおりき。
「おお……此奴か」
池田は璃々緒の背後に隠れし姫子をちらりと見やり。
「はい?……」
彼女は僅かに震え、彼が父母の者か否か疑えど、璃々緒の知り合いと知り、少し安堵せり。池田はその様子を見て近づき、姫子の傍らに膝をつき、手を取れり。
「もし差し支えなければ、此の者と結婚してくれぬか」
「「ええっ!!!!!」」
姫子は手を振りほどかんとしたれど、できず。
「貴様、何を言い出すのだ!!!」
先ほどの緊迫した空気が、池田の結婚の言葉で一変し、璃々緒は呆然となりぬ。
「此の者、可愛いな。いや、美しい。いやいや! 美しくて可愛い! 先ほど歩いてくるのを見て、己の心が分かった。此の者のために心を奪われたのだ!!!」
「嬢様、参りましょう。あの男はただのたらしに過ぎませぬ」
「ええ……はい、姫子」
「名前を教えるでない!!!」
「姫子か。此の者は悪い泥棒じゃな」
「如何に?」
「我の心を盗んだからじゃ」
陳腐なる戯言じゃ。本当に男は此のような台詞で女を口説くのか。たらしぶりは半端なく、池田らしいが、なぜ嬢様は此の男の戯言に頰を赤らめるのか。顔もろくに知らぬというに。
「こら!!! 彼女に構うのをやめろ。そして母上と玉緒は!? 連れてきたのではないだろうな」
「案ずるな。我は彼らを親父と共に福岡へ逃がした。小さき村があり、我の知り合いも其処におる」
姫子は撫子の顔を即座に思い浮かべたり。彼女の故郷も其処なれば。
「ほっとした……されどなぜ此処に戻ってきたのだ!! 誰しもがお前を追っておることを知らぬか」
「まあまあ……我の逃げ足の速さは知っておろう。父上すら捕えられぬ」
「ふざけるな!!!! これは戯れごとではないぞ!!!!」
「璃々緒ちゃん……」 姫子は璃々緒の浴衣の袖を引けり。
「落ち着かれよ、池田殿……少々お尋ねしたいことがございます」
「嬢様……」
「璃々緒はマーベルちゃんたちの買い物を頼む。妾は此の者と少し話をする」
「…………はい」 そして彼女は去れり。
「そういえば、貴様は璃々緒が仕える雇い主じゃな。さあ、入られよ」
池田は傍らの小屋の露店に彼女を招き、藁の座布団を敷きたる木の椅子あり。池田は家に入り、茶を淹れて姫子に出せり。
「つまり……池田殿と璃々緒は何の関係でございますか。随分と親しげに」
「幼馴染じゃ。何じゃ、我を女たらしのたらしと思うか? 違う。我は一筋じゃ、一心不乱に!!!!!」
池田は信じがたき忠実さを滔々と語れり。他の知り合いならば一目で睨むか怒鳴るかじゃろうが、予想に反し彼女は笑い出し、其の言葉が何であれおかしくてならぬ様子なりき。
「…………」 池田は二秒ほど目を丸くし、すぐに我に返れり。
「失礼いたしました……ははは。どうも池田殿の様子が可笑しくて、はははは」
「其のように笑うほどでもないであろう。それで、聞きたいこととは?」
「いいえ……聞きたいのは父上と母上のことでございます」
「なぜ我に聞く……」
姫子は池田の顔をじっと見つめ、先ほど思いつきたる推測を口にせり。
「璃々緒の知り合いは大抵、大いなる家柄の者でございますから。あの娘は幼馴染の雇い主が連れて行き、知り合ったと言う。そして其の者が貴方、池田殿でございます。貴方が大いなる家柄を知っておられるならば、父上母上、不知火である我らのことも既にご存知でございましょう」
「……呆れたな。それで何を聞きたい?」
「不知火に関わるすべてでございます。池田殿はご存知でいらっしゃいますか?」




