第五章『君の気持ちを』(4)
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岡本雪は、均に最寄り駅まで送ってもらい、自宅に到着した。荷物を置いて洗面所で手を洗う。
前を見ると、鏡には心なしか少し高揚した着飾った自分の顔が映りこんでいる。
使者として生きているのに、それを受け入れられた状態で一緒に過ごすことができた。
均にラーメン屋に連れて行ってもらい、ラーメン屋巡りをしないかと言われて、考えるよりも先に了承してしまっていた。
まだふわふわした気分だった。でもそのふわふわした中に、冷たい塊が足を引っ張っていた。
均と街を歩いていた時の自分が、心の中でどれだけ浮き足立っていたかを自覚した。
均に触れられた長い髪を触る。
『……俺は髪下ろしてる方が好きだな』
その言葉と表情は、優香を重ねて言っているのだと、完全に雪を見ていない瞳だと、気づいてしまった。
均は雪を無意識に優香と重ねているのだ。
均は優香を引きずっている。
どんな理由があったにせよ、均の心には優香が絶対的な存在として君臨している。
雪は使者だ。使者は孤独なのだ。否、孤独でなければならない。
縁を使える者にとっては、この世界は全て張りぼてのような偽りの世界で生きるという事なのだ。
何が本当で、何が嘘で、何が詰まっていて、何が空っぽなのか。
人の気持ちも行動も考えも事実も変えるなんて、どれだけ恐ろしいことか。こんな奴が誰かと深く関わることができる訳がないのだ。
だから知らないほうが幸せなのだ。気づかないということは、存在しないのと同じだからだ。
それなのに均は縁に引っかからない。縁が効かない。
異物とも違う。
『だから、君のことが知りたい。君は何を見ていて、何を想っているんだ?』
出会った時に言われた言葉。
その言葉を言われた時、今まで使者として生きてきた中で、初めて視界が開けたような気がした。
鏡の自分を見つめる。
『……雪に逢えて、本当に良かった』
期待してしまっている。縁の効かないその強く意志のある瞳を、自分に向けてほしいと思った。この先も一緒にいる時間が増えれば、深い関係を築けるのではないか、と。
そんな訳がないのに。
世界の声の言う通りにしなければならないのだとしても、雪が人を殺してきた事実は変わらない。
雪の全ては異物の死でできていると言っても過言ではない。
雪の足元には常に無数の屍が転がっている。
そんな汚れた女子を誰が求めてくれるのか。
雪にかける言葉は全て優香を重ねて言っているということもよく分かっている。優香がいなければ、均は絶対に雪にその言葉をかけなかっただろう。
(私、もしかして……)
雪は髪を切りに行こうと思った。
次の日の土曜日に予約の電話を入れた。日曜日を希望すると、十一時からしか空いていないと言われたが、時間はいつでもよかったのですぐに予約をした。
その美容室は都内に数店舗展開されている。若者向けではあるが、年配の客もいて利用している年齢層は広い。ネットの口コミで『そんなに高い価格設定じゃないのに、腕の良い人が多い』と書かれていた。
なので期待しつつ美容室に入ると、アシスタントの女性スタッフがやってきた。予約していることを伝えると、女性スタッフにスタイリングチェアまで案内された。
雑誌を渡されて、ペラペラと流し見をしながら捲っていると、雪の担当になる男性の美容師がやってきた。
雑誌から顔を上げて、鏡に映る男性を見て息を呑んだ。
「こんにちは。今回カットを担当させていただきます、五十嵐と言います。宜しくお願いします」
——雪と均が追っている、ホテルでの一件の男だった。
営業スマイルがさまになっている。
雪は五十嵐という男を驚きのあまり、まじまじと見てしまっていた。
五十嵐はそんな少女を気にもせず、にこにこして問いかける。
「今日はどんな髪型にしましょうか?」
問われてはっとした。
とりあえず普通に接しなければならない。今、力は使えない。雪の力では、この状況自体を変える程の縁が使えない。
「えっと……そうですね……」
ホテルの一件では、ホテル周辺の縁を変えた。それは、ホテルに行こうとする人や通り過ぎる人たちにホテル周辺に対して強い執着や目的がない。つまり、他のホテル、道を使えばいいからだ。
中村佳奈の妹になったのは、中村佳奈に関係した縁に繋がり、マンションの下で座っていた秋本誠司が偶然彼氏だったからだ。妹になるくらいなら、大した縁になることはない。どこにも繋がらない縁、その場限りの縁だからだ。あくまでも雪は二人の関係性を聞いただけなのだから。
例えば、五十嵐に何かしら攻撃をしようと、美容師やアシスタント、客などを美容室から退出させるとしても、そもそもそれ自体難しい縁になる。相応の理由がないからだ。
その上、髪を切っている途中の人間の縁は変えられない。もしその状態で本人や担当美容師を納得させたとしても、外に出て不特定多数の人間がその髪型をおかしいと思う状態なら縁は意味を成さない。髪型や状況が違和感のない処まで縁を繋げなければならない。
その場で中途半端に髪を切った状態で止めさせ、その髪型を納得させる繊細な縁を雪は使えない。その髪型を、周りが見てもおかしくない髪型として認識させるほどの強力な縁は使えない。
雪が使う意図的な縁には限界があるのだ。
全く理由の伴わない縁は然り、繊細で強い目的や拘りを持った対象に雪の縁はあまりうまく作用しないのだ。
そして世間に公にならないという使者の縁の絶対条件は変わらない。違和感のあまりない範囲でしか縁は使えないのだ。
雪はそこで我にかえる。
違う。
冷静になれ、と雪は自分自身に言い聞かせた。
五十嵐が働いている場所を特定したのだから、後からどうとでもなる。今すぐに殺す必要などないのだから焦る事はない。均の事もある。
今、確実に縁の感覚が無いので、五十嵐は雪が使者だと気づいていない。
「……えーと、肩くらいまで切ってもらいたいです。毛先はちょっと軽くしてほしいです。こんな感じの髪型で……」
平静を装いながら、予め持ってきていた、参考にしてほしい髪型の雑誌の切り抜きを五十嵐に見せる。
「分かりました。すごく良いと思いますよ。髪を短くすると大分印象も気分も変わるしね」
「そうです。印象も気分も変えたかったんです」
「そうなんだ。もし良ければ、どうして切ろうと思ったのか聞いてもいいですか?」
嫌みのない敬語混じりのフランクな話し方だった。
「長いと邪魔ですし、これからの暑くなるので」
印象と気分を変えたいと言ったのに、理由としては合ってない事に答えてから気がついた。
本当は優香の姿を重ねて見られたくないという理由だが、正直に言う必要もない。
それでも鏡越しで視線が合わないように、視線を下に向けながら言った。少し言い方がきつくなったかもしれない。
気づいていないとしても自然と冷や汗をかく。五十嵐は気づいていないふりをしているのではないか、とどうしても心配になった。
あの一件が五十嵐の力だとしたら、雪よりも強力な縁を使える。
しかしあの縁は証拠隠滅をするものだった。つまり結果的に雪達を遠ざける縁だった。今回、五十嵐と接触できたということは、まだ雪の力は通用すると考えられた。




