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其処に草が生えている 緑之章—踏み潰す—  作者: 宮林 實
第四章『希望の先へ』
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第四章『希望の先へ』(1)

 大田和則は今年で四十二歳だ。仕事は保険会社の営業をやっている。

 妻は四十歳の専業主婦で、最近態度が冷たくなった。長女は中学三年生で、来年高校受験を控えているが反抗期だった。長男は中学一年生で、先日の個人面談でいじめを受けているということを知った。

 これが和則の家族だった。いつからバランスが崩れてしまったのだろう。


 一年前まで極めて平凡で平和だった。和則が家に帰ってきたら妻は笑顔で迎えてくれるし、長女は一日起こった出来事を嬉しそうに話してくれたりしていたし、長男は和則にべったりとくっついて、よく遊んでとせがんできた。


 そんな矢先だった。妻が自分より年上の男と浮気をしていたことに気がついたのだ。和則の上司だった。

 上司が妻と会ったのは、和則が今の保険会社に入社した直後だった。いつも良くしてくれる上司なので家に招いた。


 もしかしたらその時から関係を――。

 そう思った瞬間、頭が燃えるようで目の前にあるアルコール度数の高い酒を一気にあおった。一時的に頭の熱さは酒に埋もれたが、和則はカウンターテーブルにうなだれた。


(なんだか、もう嫌だな。俺の何が悪かったのか。俺は妻を愛しているし、娘や息子も愛している。それの何がいけないんだ。家族のために働いて、家族にいい思いをさせてやろうと日々頑張っていたのになあ……)


 和則は、また酒をあおる。喉が熱い。

 意識が遠のく。嗚呼――このまま消えてしまえたらいいのに――。





 肩を強く揺すられた。多少意識が戻ってくると、声が聴こえた。

「お客さん、もう店閉めるよ。あんた飲みすぎだよ」

 そう言ったのは店主だった。店主は半ば強引に和則を店の外に出すと、すぐにシャッターを閉めた。


 暫くの間、和則は店の前で呆然と座り込んでいた。

 のろのろとした動作で腕時計を見た。午前一時過ぎだった。こんなに帰りが遅くても心配してくれる家族はいないのだ。


 涙が出てきた。もう所構わず大声で泣いてしまおうかと思っていると、

「おじさん。こんな所で座って泣いてたら、悪い奴に親父狩りされるよ」

「大丈夫ですか?」

 と、二人組に声をかけられた。見上げる力は残っていなかった。下を向いたまま言う。


「……いいさ。金でも何でも持っていってくれ」

「失礼だな、おじさん。俺達は親父狩りなんてしない」

「なら、なんで俺に話しかけるんだ」

「貴方のことが心配だったからですよ」

「え……」

「おじさん、さっきから自棄(やけ)酒してて危ないと思ってたんだよ」

「僕達もさっきまでこの店にいたんですよ」

 そう言われてから初めて和則はゆっくりと顔を上げて二人を見た。


 一人は、髪を後ろで一まとめにしていて今流行りの服を着こなした派手な格好をしている二十代後半の男だった。ファッション関連の仕事をしていそうな風貌だった。もう一人はスーツを着ていて物腰の雰囲気から、営業のような仕事をしている印象だった。この男も二十代後半だろう。


「話なら、僕達が聞いてあげますよ。貴方がつらいと思っていることや、どうにかしたいという気持ちをね」

「だからさ、そこに車とめてるから行こう」

「で、でもいいのかい? こんな奴の愚痴を聞くなんて。きっと気分を害するよ」

「何言ってんだ、おじさん。気分なんて害すわけないだろ」

「だって貴方を助けるんですから――」

 スーツの男はニコリ、と笑った。





 車はどこに向かっているのか分からなかった。車は繁華街を通り過ぎていく。そのまま首都高速道路に乗った。話を聞くだけなのに何故高速道路に乗るのだろうかと頭を過ぎったが、和則はあまり気にしてはいなかった。それよりも今は何かに縋りたい気持ちでいっぱいだった。


「どうしてもわからないんだ。どうして、ああなってしまったのか。俺には全く検討がつかない」

「話せることから話していただいて構いませんよ」

 隣に座っている、スーツ姿の男は丁寧な言葉づかいで言った。和則の前の運転席には派手な男が座っている。


「娘と息子が中学生なんだ。娘は受験を目前に控えていて、元々志望校は上のところに行きたいと言われてたんだ。だから俺は金を工面して塾に行かせたんだ。でもだんだんと不機嫌になっていって、しまいには家に帰ってこなくなった。息子は中一だけど一ヶ月前の個人面談で、同級生の仲良かった友達からいじめを受けているって言っていた。俺は子供達にどうすればよかったんだ? 塾に行きたいと言ったのは娘からだし、息子は小学生の時友達がいっぱいだった。何がいけない? どこで間違っていたんだ? 俺の何が間違っていたんだ?」


 最後の方は涙声だった。スーツの男は黙って、時折相づちを打つ。


「きっと貴方は間違ってなんていないと思います。しかし、いくら自分の子供でも全てを理解できるわけがありません。何故そうなったのかを根気よく突き詰めていかなければ、この問題は解決どころか、緩和もしませんよ」


 一度喋りだしたら止まらず、今の和則にはスーツの男の言葉は耳に入っていなかった。


「嫁だってそうだ。浮気をしていたんだ。俺はずっと嫁一筋だったのに。あいつは子供を授かる前の俺の下積み時代から、俺の上司と関係を持っていたんだ。なんでそんなことができる? なんでだ? 俺はそんな魅力がないのか?」


「人の想いは他人が理解できるものではありません。解決したいと思い、行動に移さなければ」


 和則がスーツの男の言葉を聞いていないのを知ってか知らずか、スーツの男は言葉を返していた。


「おじさんも大変だな。そういうのって時間が解決してくれるもんじゃねえの?」

 派手な男が運転しながら話す。


「この人は今どうにかしたいんだよ。この先ずっと、いつ解決できるか分からない状況を耐え続けるのは無理なんだよ。だから今こんなにも悩んでいるんだ」


「ふーん」

 派手な男は興味がなさそうだった。


 この後も同じような話の繰り返しだった。和則が何かを言うと、スーツの男はそれに懇ろに答えていた。


 その間にも和則を乗せた車は進んでいて、いつの間か首都高速道路を降りていたが、窓からは一般的な都会にあるような街並みが見える。車に乗った時間と比較しても、都内で下りたことは明白だった。


 突然、スーツの男は問い掛けた。

「あなたは後悔していますか? 幸せな時に戻りたいですか? 今の現状から逃げ出したいですか?」


 スーツの男は静かに和則を観ていた。

 その男の表情は、口元を少し上げて目元を少し細めていた。それはまるで、自分にはそんな想いを一度も抱いたことがないような、完全なる第三者の目だった。


 あまりにも第三者の目をしていたものだから、和則は嫉妬や苛立ちよりも、その遠くから見る男に縋りつくように叫んだ。


「逃げ出せるもんなら逃げ出したい! でもどうしてそうなったのか、本当は家族みんなで話し合いたいんだ。家族みんなで協力すればきっと解決するって、昔はそうしていたように力を合わせたいんだ!」


「……でももう無理でしょう? 家族の関係性は既に修復できない処まできている」

「え……」


 まさかそんなことを言われると思わなかったので、驚いてスーツの男を見ると、ちょうどドアのロックを外していたところだった。


「……さあ、着きましたよ。降りてください」

 和則が気づかぬうちに車は、密集して建っている雑居ビルの間にあるコインパーキングに停められていた。


 車から降りる。

 店に入って飲みなおすのか、と周囲の飲み屋をきょろきょろと探す。飲み屋は全て閉まっている。

 不自然なほど静間に帰った世界だった。自分の歩く音すら響いていた。


 そのまま二人に連れてこられたのは、コインパーキングの横の雑居ビルだった。

 テナントが何店舗か入っているようだったが、人の気配は全くしなかった。時間が時間だからだろうか。


「どうしてこんな所に?」

「ここの四階を俺達が使っててさ、凄く使い勝手がいいんだ。築年数経ってるからかなり古いけど、絶対人も来ないから良い場所なんだ」


 何故絶対なのだろうと疑問を抱きつつ階段を登った。四階に着くと、フロアには一つしかドアがなかった。よくあるオフィスだった。しかしドア周辺には、会社名や店の名前も何も書かれていなかった。


 前を歩いていた派手な男は慣れた手つきでドアを開け、真っ暗な部屋の電気を点けた。

「さあ、どうぞ」

 派手な男が和則を待ち構えるように立ち、中に入るように促される。


 中に入ると、和則が見たのはおかしな光景だった。


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