8話 悲しみ
「お墓参り、行かないの?」
私がそう聞くと、妹はコーヒーを飲みながら、うん、と言った。
「そうか。もう一年か」
その言い方に、私は何も返せなかった。
妹の家のリビングには、もう義弟の物がない。写真も、本も、ソファの定位置にあったクッションも。代わりに、知らない男のジャケットが椅子にかかっている。
「今度、行こうかな」
妹はそう言って、スマホを見た。今度がいつなのかは言わなかった。
一年前、妹の夫が死んだ。
妹は一週間、ほとんど食べなかった。私は毎日通って、洗濯と食事をした。妹は布団の中で義弟の名前を呼んでいた。夜中に、何度も。
見ていられなかった。
職場で、同僚が言った。駅裏に、悲しみを引き取ってくれる店があるらしい。同僚は知り合いから聞いたと言った。
私が妹に話した。妹は行ってみたいと言い、次の日に二人で向かった。
「悲しみは高く取れるよ。新しいものほどね」
店主はそう言って、預かりと買取の違いを説明した。預かりは三か月で戻せる。買取は二度と戻らないが、倍出す。
「買取で」
妹は即答した。私は止めなかった。戻したいと思う日が来るとは、思えなかった。
「悲しみだけですか」
私は聞いた。これだけは聞いた。
「悲しみだけだよ。旦那さんに対する、悲しみだけ」
店主はそう答えた。
「あの、悲しみが消えてしまうと…」
若い店員が何か言いかけたが、その前に妹は指を押した。
「買取成立だね」
店主は店員を見て笑いながら言った。
路地に出たところで、妹は立ち止まって、胸に手を当てた。それから私を見て、笑った。
「楽になった」
その笑顔を見て、私はよかったと思った。本当によかったと思った。
妹はその夜から食べて、眠った。一か月で仕事に戻った。三か月で、職場の人と食事に行くようになった。半年で、その人と付き合い始めた。
九か月目、妹の家に行くと玄関にゴミ袋が並んでいた。義弟の服だった。本棚の本は紐で縛られていた。テーブルに、義弟の腕時計と、買取店のチラシ。
「クローゼット、狭くて」
妹はそう言った。
私は何も言わずに帰った。
そして今日、一周忌の日に、妹はお墓参りに行かない。
私は妹の家を出て、そのまま駅裏に向かった。
「一年前に、妹がここで悲しみを売りました」
店主は帳簿を遡って、ああ、と言った。覚えていたのか、帳簿で思い出したのかは分からなかった。
「あなたは、悲しみだけだと言いました」
「言ったね」
「だったら、旦那さんへの愛情は残っているはずです。楽しかった思い出も。あの子は、旦那さんのことを忘れてなんかいない。なのに、服を捨てて、本を売って、時計まで。一周忌に、墓にも行かない。何をしたんですか」
店主は帳簿を閉じた。
「何も。悲しみを買った。それだけだ」
「でも」
「悲しみは、人を思い出すためのものだ。夜に泣くから、旦那さんの顔を思い出す。写真を見て胸が痛むから、写真を見る。服を見て辛いから、服を捨てられない。会えなくて悲しいから、墓に行く。その全部がなくなった」
「……」
「妹さんは、旦那さんを忘れてない。ただ、思い出すきっかけがなくなった。楽しい思い出なんて簡単に更新されるよ。思い出さない人を、人は愛し続けられない。一年あれば、自然に薄れる。私は何もしていない。妹さんが、普通に忘れていっただけだ」
私はカウンターに手をついた。
「そんなこと、言わなかった」
「聞かれなかったからね」
「いいじゃないか、別の人と幸せになれれば」
店主はそう言った。慰めではなかった。本当にそう思っている声だった。
「返してもらえませんか」
「買取だよ。もううちの物だ。売ることはできるが、値段は別だ。それに」
店主は少しだけ間を置いた。
「妹さんは欲しているのかい?」
奥の店員が、こちらを見ていた。一年前と同じ店員だった。そうだ、あの店員は一年前、何か言おうとしていた。こうなることを伝えようとしてくれていたのだろうか。
私は店を出た。
そのまま、墓に行った。
花を買うのを忘れていた。手ぶらで、義弟の名前の前に立った。
義弟は、私の夫ではない。私は妹の代わりにはなれない。
でも、今日ここに妹は来なかった。




