6話 無駄
朝、店主は棚の箱を一つずつ布で拭いていた。
キョウがこの店に来てから、一日も欠かしたことがない。丁寧で売り物を扱うような手つきだった。
キョウは帳簿を整理していた。先日の客の項に、期限の日付を書き足す。
この人は来るだろうか。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
店主は振り向かなかった。
「嫌な記憶を預かるのは分かります。本人が要らないと言うんだから。でも、なぜ金まで渡すんですか。捨てたいものを引き取って、そのうえ金を払うなんて」
ずっと思っていたことだった。腕などは分かる。あれは客が失うものだ。だが借金の記憶は、本人にとって重荷でしかない。それを預かって、店は何を得ているのか。
店主は布を止めなかった。
「例えばどんなもののことだい?」
「借金の記憶や怒りや痛みだってそうです。いじめられた記憶を預けにきた人だっていましたよね」
「君だって痛みは必要だって言ってたじゃないか」
「それに怒りだって、結局取り戻しにきただろう?」
「そうですけど、それ以外は?」
店主は箱を一つ棚に戻して、次の箱を取った。
「借金で苦しんだ記憶は、二度と借金をしないための教訓だ。あの男はそれを手放したから、今も同じことをしてる。記憶があれば、次は途中で止まったかもしれない」
キョウはペンを置いた。
「いじめられた記憶は、次に人と関わるとき、どこまで近づいていいかを測る物差しになる。裏切られた記憶は、人を見る目になる。怒りは、守るためのもの。痛みは警報。君が客に言ったとおりだ」
「本人にとっては苦しいものかもしれないが、未来のためには必要なものなんだ」
「無駄なものなんて、一つもない。だからこっちもお金を出すんだよ」
店主はようやく振り向いた。笑ってはいなかった。商売の話をする顔だった。
「本人が要らないと思っているうちは、安く買える。価値を知らない人間から、価値のある物を安く仕入れる。それだけの話だ」
キョウは帳簿を閉じた。
「では、あの人たちは」
「損をした。私は得をした。質屋とはそういうものだ」
店主は箱を拭き終えて、棚に戻した。
「私は嘘は言わないよ。腕は動かなくなると言ったし、流れれば戻らないとも言った。要らないと決めたのは向こうだ」
そのとおりだった。この人は嘘はつかない。言わないだけだ。聞かれれば答える。客は聞かない。
「痛みを預けた人は、死にました」
「痛みの価値を知らなかったからだ。知っていれば、預けなかった」
「知っていても、預けたと思います」
店主は少しだけ黙った。
「そうだね。人間は、価値を知っていても手放す。今楽になりたいから。」
キョウは何も言えなかった。
店主は最後の箱を拭き終えて、棚の一番奥を見た。キョウの箱がある方を。
「君のも、そうだ」
キョウは顔を上げた。
「価値を知らないで手放したのか。知っていて手放したのか。君はどっちだったかな」
「……覚えていません」
「そうだろうね。それも預かってる」
店主は布を畳んで、カウンターの中央に立った。そろそろ客が来るようだ。
「買い戻せば分かるよ。自分が何を安売りしたのか」
キョウは帳簿を開いた。また先日の客の項の、期限の日付を見た。
この人は来ないだろう。価値を知らないから。
自分は、どうだったのだろうか。




